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8音が消えた世界と温かさをくれたおじさん 青井 蒼華視点

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7歳の時私の世界から音が消えた。

きっかけは、おたふくに罹ったことだった。
それに気づいた私は、母に言った。
「おかあさん耳が聞こえない」
母は、何かを言ったようだけど、私は口をパクパクしているようにしか見えなかった。
「何言ってるの?おかあさん。わかんないよ」
そういうと、
母が
静かに泣いた。
静かなのは、私の世界。
母の口は苦しそうに開いていた。
止まることのないような涙を見ながら、私はこれからのことを考えていた。
耳が聞こえない生活なんていまいち想像ができない。
しばらくした後、お母さんが落ち着き
「病院に行こう」紙に書いて見せた。

病院で様子見をするように言われたが
いくらたっても、戻らない音に
ようやく、自分の置かれた状況を理解した。
いつかは戻るかもしれないという期待が失われた時、
音のない私の世界なのに何かが崩れる音がした。

聴覚障害を持った私の生活は一変する。

私は、今までの学校を辞めてろう学校に通うことになった。
ろう者の生活などわかっていなかった私は、色んな事を知っていくこととなる。
私は、他の生徒は耳が聞こえない以外は私と変わらないだろうと思っていた。みんな、日本語は私と同じくらいは理解していて、筆談であれば問題ないと思っていた。

しかし、それは大きな誤解だった。
本当に小さいころから耳が全く聞こえない子たちが日本語を自由に扱えるようになるのは想像を絶するほど大変なことなのだと知った。

聴覚障がい者は見た目で判断するのが難しい。
分かったとしても、だれしも筆談に対応してくれるわけではない。この世は圧倒的に健聴者の方が多いのだ。
だから、私はまず口の動きを読む読話を覚えなければならなかった。
今まで、口の動きなど気にしていなかった私はとても苦労した。それは、小さいころから自然と身につけてきた日本語とは比べ物にならないほど大変だった。

健聴者は、読話が出来ると思い込み、口の動きを読ませようとしてくる人もいるが、
筆談を頼んでも、全く書かないか、断片的にしか書いてもらえない。
その時、私は、意思疎通が不十分だと感じるのだが、健聴者は言うことは言ったと満足するときがあるのだ。

成長する過程で、中途失聴者は健聴者の世界で生きてきたのだから、その経験を生かして何とか乗り越えられると思われていることを実感したが、それは違うのだと言いたかった。

音声でのコミュニケーションが難しいことで、もうすでに、健聴者の世界で生きていけない。
もうあの頃には戻れないのだという現実を突きつけられるのだ。

その苦しさに何度泣いたことだろうか。
母が心配するから、母の前では泣かなかったが、
「我慢強い偉い子」「手のかからない泣かない子」と言われてきた私は、そのレッテルすらも取り払いたかった。
そんなもの枷にしかならない。泣きたいときなんて何度もやって来た。

この苦しさは健聴者には分かるまい。
昔の友達に久々に会って、長々と説明してやっと少し理解してもらえる程度なのだ。

ある時、クラクションを鳴らされても気づかずに歩いていてひどく怒られたこともあるが、その時
私は、耳が聞こえないことを説明してもわかってもらえず
「気をつけろ!!」と終始怒られたが
仕方なく申し訳なさそうにして謝った私は、悔しくて、帰ってから叫んでしまいたかった。
なんで私が悪いことになるんだ。私がこの状態になるのを求めたわけではない。

それでも、叫んでもきっと自分の声なんて聞こえなくて、
そしてその叫びの本当の苦しさを健聴者には届かないのだと思うと、ひどく、虚しく、心がだんだん暗い何かにむしばまれていく気がした。
他にも、買い物で、値段を言われても
「1」なのか、「7」なのかわからずに困って嫌な顔をされた時、
昔の友達たちが集団で話していて口の動きが分からないため話についていけないが、それを言い出して嫌な顔をされるのだろうかと怖くなった時
その何かがだんだんと大きくなっていった。

そんな生活を送っていると、
母が私に新しく近所にできた理容店の人が聴覚障がい者で、手話を使って話すのだと言う。
私は、手話は分からない。ろう学校でも、時々手話を使っている子を見る。
けど、使えたら、もっとコミュニケーションがうまくいくのだろうか。

学校の帰り、少し遠回りをして理容店を覗いた。

耳が聞こえない大人の人が理容師というコミュニケーションが大切な仕事をしているのがどんな風なのか、そして、手話を使いこなすとはどんな感じなんだろうか見てみたかった。

理容店は休業中と書いてあったが、
中にいた、おじさんと目が合った。
おじさんはニコリと笑い手招きした。

私は、恐る恐る近づくと

おじさんは、店の扉を開け、私をジェスチャーで椅子に座るように促した。
紙に何かを書き始めた。筆談をするのだと思って、私はじっと待った。
「そうかちゃんだね。おじさんは、東出陽太(ひがしでひなた)おじさんも耳が聞こえないんだ。
あのね、君のお母さんから君のことを聞いていたよ。待っていたんだ。
君は泣かない子だと聞いたけど、
泣いても良いんだよ。お母さんが、君のことかないんだってを心配していたよ。
泣かない強い子でいる必要ないんだよ。
苦しい時は泣いて良い。
なんでわかってくれないんだと、このわからずやな世界に怒ったって良い。
それでも、君のお母さんは、君を大切に思うだろうし、君を抱きしめてくれると思う。」
と書かれていた。

読み進めていくうちにだんだんと、視界が歪んでいって、字が読めなくなったら、おじさんがハンカチを差し出してくれた。

私はその時、初めて人の前で泣いたのだと理解した。

それから、涙は止まらず、おじさんは優しく背中を撫でてくれた。それはとても温かかった。
そのぬくもりは、手の温度だけではなく、おじさんの言葉から。
少し落ち着いてきたあたりに、懐かしい匂いが私の事を抱きしめた。

あぁ、お母さんだ。
お母さんだ。お母さんだ。母の優しい抱擁を存分に味わった。
今は、それを自分に許していい気がした。

私の落ち着いた涙はまた流れ出し、私は今までの悔しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、すべて叫んだ。

怒ったように今までの不満を、世の中の不条理を、話す私を母は優しく抱きしめてくれた。

母は、私の顔を見てにっこりと笑った。
そして、ペンで紙に何か書きだしたそれはとても長かったけど私は待った。
「帰りが遅いから、ここかと思ったの。
蒼華の苦しいとこ全部わかってあげられなくてごめんね。泣かせてあげられなくてごめんね。『我慢強くて偉いね』っていうのはね、蒼華の良い所を一つ言ったただけなの。
こんなに辛いのを我慢して、1人で抱え込ませて、そこまでして『偉い子』でいる必要はないの。蒼華のことがまるごとお母さんは好きなの。だから、苦しい時はちゃんと苦しいて言って。お母さんはその苦しさは全部わかってあげることはできないけど、抱きしめてあげることはできる。蒼華のことを受け入れることはできるの。

お母さんね、手話を覚えたいと思ったの。そうしたら、蒼華が辛い時すぐに言葉をかけてあげられるでしょ?蒼華も一緒に東出さんに習わない?そしたら、お母さん、今よりももっと蒼華と話せてうれしいな。」

お母さんの長々と書かれた優しい気持ちが、温かかった。
そうか、お母さんは、私を『偉い子』だから好きなわけじゃないんだ。
辛かったことを辛いって言って良いんだ。
もう我慢しなくていいんだ。

「うん。私も陽太おじさんに手話を習いたい。そしてお母さんともっと話したい。」
そう言って、私はきっと耳が聞こえなくなってから初めて本当の笑顔で笑った。



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