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三章 エイヴィの翼 前編(入学編)

210、 皆の誕生日 13(撃退と善意のフォロー)

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「……?!」

 自分以外があげた物音に振り返った瞬間、ユリは数歩よろめく。

 頭を少し動かすだけでもひどい頭痛がした。

 彼女が視界の端に捉えていた影は素早く動く。

 よろめいたユリの真横。先ほどまで彼女が体を預けていた陶器生の洗面台が、破壊音と共に抉れた。

 暗い緑の毛に、黄土色の斑点。

 大きな一つ目を持ったハイエナのような生き物が、洗面台と壁に手足をかけ、へばりつくように四つん這いになっていた。

 飢えたように唾液を垂らすそれはギョロリと目玉を動かしユリに狙いを定め直す。

(レドモス……?!)

 レドモス―――戦地などで屍を食い荒らすと知られている魔獣だ。弱った生き物にとどめを刺し、屍を貪り、その体に残る魔力や生命力ヴァーティの残りカス、旅立ち前の魂を食べてしまうと言われている。

 ユリも旅の中で、大型の動物の亡骸にこの魔獣が何頭か群がっているのを目にしたことがあった。

 戦地に多く沸くイメージはあるが、普通に自然界でも一定数存在する魔獣である。

 外で見る分には珍しくもないが……少なくとも、今ここに自然発生するような類でもない。

(なんでここに)

 魔物はユリへと飛びかかる。

 ユリは片手を払い、光の斬撃で牽制した。

 魔獣はユリの攻撃を避けようとしたが、ぎりぎりの距離で放たれたこともあり避けきれずに弾き飛ばされる。壁に体を打ち付け、ふらつきながらも立て直そうとしていた。

(倒せなかったか……)

 学園の設備を破壊してはいけないと、変な気が回ってしまい一発では仕留められなかった。

(たったこれだけなのに、消耗が激しいなぁ)

 これはかなり不味い。

(助け……呼ばなきゃ)

 ユリは魔獣がふらついているうちに、倒れ込むように扉へ手をかけた。





(開かない?!)

「なんで……」

 扉を拳で叩いたが、弱弱しすぎて大した音も上げられなかった。

(―――!)

 気配を感じて振り返る。

 牙をむいたレドモスが目前へと迫っていた。

「……ぅあっ!」

 かわさなければと反射的に動いたユリの足は、何かを踏み、体はバランスを崩し倒れ込む。

 起き上がりたいのに体が動かない。

 全身がしびれで内臓がぐちゃぐちゃにかきみだされているような気持ち悪さに襲われる。

 もうだめかもしれない。

 ユリが全てを諦めかけたその時、一番奥のトイレの個室。「故障中」という紙が貼られていた扉が勢い良く開いた。





 ―――バンッ!

「お父さん誕生!! で、ござる!!」

 ―――キャイン!

「肉団子……どういうつもりだ……?」





 この瞬間、ユリは複数の声と物を目にし、耳にした。だが毒に侵された彼女の頭は、その場の全てを処理しきれず、目の前に転がる瓶に書かれた文字を追うのがやっとだった。

 レッドモス。

 輪郭がダブって見える視界、瓶のラベルには蛾型の魔獣の名前が書かれていた。

(レッドモス……)

 レッドモスと言えば、両手サイズの蛾形の赤い魔獣だ。

 たまに街中でもライトに寄ってきているのを見る。

 鱗粉は皮膚をただれさせるが、牙や爪がない上レドモスよりも硬くない。

 こちらであってくれたなら、多少皮膚がかぶれはしただろうが、窓を開けておけば勝手に月明かりに向かい飛び立ってくれ、追い払うのが楽だったかもしれない。

(レッドモスじゃなくてレドモスだったよ……)

 なんて迷惑な表記間違いだろう。ユリは苦笑した。

 かすむ視界。

 目を開けているのも辛くなり、彼女は意識を手放す。





 ***





 ガルカが会場から出てすぐ、楽し気に笑いあう数人の女子生徒達とすれ違う。

(何で俺がこんなこと……)

 彼はつい先ほど会場を出て行ったオレンジ髪の少女を追い、のうのうと廊下を歩いていた。

 魔族の聴覚が何かしらの騒がしい音を拾い上げ、ガルカは近場の窓を開けた。

 人の目がこちらに向いていない事を確かめ、彼は外へと身を乗り出す。

 ガルカが翼を広げて降り立ったのは、女子トイレの窓近くの木だ。

 そこからはお手洗いとは思えないような贅沢な広さを持つ室内で、オレンジ頭の少女が必死に魔獣の攻撃を交わしている様子がよく見えた。

 このまま放っておけば、毒で動きの鈍った彼女は確実にあの魔獣に仕留められてしまうだろう。

 ちっ、とガルカは舌打つ。





 ―――『多分大丈夫だとは思うけど、念のため。あの子が死にそうな時は絶対に助けて。もしそれが私が仕掛けた悪戯が元だったりしても』

 学園に来た初日。

 アルベラはガルカにそう伝えた。

『ふん。気が向けばそうしてやろう、ご主人様』

『はいはい。ったく。素直に頷けばいいものを……』

 アルベラが呆れを零す。

 ガルカは知った事かと屋上の扉を押し、先に階段の踊り場へと入った。

 彼はお嬢様の視線が自分の背から、下の景色へと移るのを感じた。

 ガルカは何をもたもたしているのだろうと焦れる。適当な暴言でもかけて急かしてやろうと思い、「ご主人様」を振り向いた。

 すると……

『神様のお気に入り……』

そんなことをぽつりと呟き、何やら真面目な顔で思案する緑の瞳が目に入った。





「……」

 神のお気に入り。それが何だというのか。そんなものあの匂いで嫌という程分かる。

 ガルカには、アルベラのあの呟きだけでは彼女が何を考えているのかは分からなかった。が、その時の彼女の呼吸や鼓動が、覚悟を決めるかのようにやけに静かで淡々としていたのは忘れられないでいた。

 あの時の真面目な横顔を、透明な緑を思いだし、彼は目を細める。

(そろそろ殺されるな)

 オレンジ髪の少女、ユリはようやく扉に魔術が施され閉じ込められていることに気付いたらしい。

 きっと毒に体が侵されていない普段の彼女の魔力なら、あれしきの魔術、力づくで破壊できたことだろう。

「ふん……」

(……今日は気が向いてやったまでだ)

 仕方がないと言わんばかりに、ガルカは枝を蹴り窓に足をかけた。……その時、手前の個室、つまり一番窓側の個室に人の気配が現れた。どこかから切って張ったかのように、それはもう突然に。

 ガルカは無意識に「は?」と間の抜けた声を上げる。

 今まで誰かがそこに身を潜めていたのだ、と彼が気づくと共に、その扉は勢い良く開け放たれた。

 ―――バンッ!

「お父さん誕生!! で、ござる!!」

 飛び出した勢いのままパンチを食らい、魔獣は「キャイン!」と声をあげ呆気なく霧散した。

 数秒の沈黙が流れ、ガルカはトイレの個室に潜んでいた人物の胸ぐらを掴みあげる。

「肉団子……どういうつもりだ……?」

「失敬。『誕生』でなく『登場』でござった」

「それじゃない。いつからここにいた、覗き魔」

 ここは間違いなく女子トイレだ。

 人間の常識やら道徳観に縛られてやるつもいはない。

 だが、折角重い腰を動かして来たのだ。その末の手柄を横取りされた気がして、ガルカは目の前の不審者に何でも良いからいちゃもんをつけてやりたかった。

 ガルカの片腕にぶら下げられ、八郎は自信満々に親指を立てる。

「そこら辺の気遣いはしていたゆえ、女子のプライバシーは汚してないでござるよ!!」

「知らん!」

 妙な気遣いが出きるところも気に入らない。

「っと、こんな場合ではないでござる。失敬」

「―――?!」

 普段なら、どちらかと言えば人の上げた手にされるがままの八郎が、ものすごい腕力で軽々とガルカの手を払い除ける。彼はそのまま瞬間移動するように、ガルカの前から「シュバッ」と言う音を立てて消え、同じ音と共にユリの前に現れた。

「……? ……??」

 ガルカは今しがたの八郎の力に、自分の手を開いたり閉じたりしながら見つめる。

 その間にも八郎はユリの手当てをしていた。

 ユリの口元の血を魔術で解析し、適切な解毒剤を手持ちの中から取り出し彼女に飲ませる。

「そうそう。いつからと言えば、ここにはユリ殿と来たでござる」

 そして手早く「故障中」の紙準備し、扉に貼ったのも彼自身だった。あとはただ気配を消し、機をうかがっていたのだ。

「は? じゃあ貴様、ずっと見ていたのか」

 「毒で苦しんでいる所をすぐ助けず、傍観していたのだな」という意味の言葉に、八郎は汗を垂らし

「はっはっは……」と乾いた笑い声を上げる。

「わ、分かってるでござる……。拙者だって出るタイミングに悩んでいたんでござるよ」

(けど、ヒロイン補正で自力で解決したり、ヒーローが飛んできたりする可能性を考えれば、拙者が迂闊に出るわけにもいかなかったわけで)

「は、はっはっは……! まあ、こうして最後の砦としての務めは果たしたでござるし、あっぱれあっぱれでござる! はっはっは!」

 ガルカは気に入らないとばかりに鼻を鳴らす。

「ではガルカ殿、もうひと働きでござるよ」

「あ?」

「ユリ殿を部屋に運ぶでござる」

「貴様がやれ」

「いやいや、拙者は色々と不味いでござる。主に絵面が」

「自覚があってその格好しているのが甚だ疑問だ」

「まあまあ、そう言わずガルカどのぉ~」

「ふんっ」

 ガルカは八郎に介抱されるユリを横目に、扉に手を掛ける。扉は静電気のような音を立てるとともに開いた。廊下に人の気配はない。

 そのまま振り返りもせずに女子トイレを出ていったガルカに、八郎は「素直じゃないでござるなぁ~」と暢気な呟きを零す。

(人を呼びに行ったって所でござろう。廊下で寝かせておいた方が良いかもしれないでござるな)

 八郎は扉から頭を出し、念入りに人の気配を探った。

 そして安全を確信すると、ユリを抱き合げ廊下に出して壁にもたれかけさせる。

 まだ時間がありそうなので、ドレスの汚れや破れを魔術で修復していると、彼女の頬に涙が伝うのが見えた。

「ちがうよね……アルベラ……」

 ユリの呟きに、八郎は静かに返す。

「違うでござるよ。これはアルベラ氏の所業でないでござる」

 そう。これはむしろその彼女に送られた毒なのだから。

 ユリは運悪く、そのグラスを受け取ってしまっただけ。

 さらに運悪く、そのアクシデントにまた他者の悪戯が重なってしまった。

(これもヒロインの性というやつでござろうか)

「……」

 彼女の苦し気な寝顔に、八郎は自分の娘の幼い頃を重ねる。

 そうすると何もしないではいられなかった。

(アルベラ氏は、ユリ殿との距離感に困ってるようでござったな……)

 これは、あの悪役を任された彼女にとっては少し迷惑なことかもしれない。

 だが、二人の関係がおかしな方向に拗れて欲しくもないと八郎は思っている。

(仲良しの大親友……は二人には期待しないでござる。けどまあ、あらぬ疑いは残ってほしくないでござるよ。……からして、)

 八郎の薬が効き始め、ユリの顔色は大分よくなっていた。

 そんな彼女の耳元、八郎は「アルベラ氏は悪くない、アルベラ氏は悪くない……」と囁いた。

「ぅ、……うう………………氏、わるく、ない……」

 ユリはうなされるように表情を歪め、八郎の言葉を繰り返す。





 点々と小さな灯が並ぶ廊下。

 人気の無い暗がりに、ガルカはヒラヒラと舞う光を見つける。

 光の蝶だ。

 窓の空いてない通路、どこから、いつから入ってきていたのか知れないそれを見て、ガルカは興味も無さそうに「使いか」と呟いた。

(どいつもこいつも、気に入らない匂いだ)

 彼は表情無く片手を払う。

 鋭利に伸びた爪が、美しい光の蝶を真っ二つに切り裂いた。

 光は地に落ちながら消え、ガルカはそれを見届けもせずにその場を後にした。





 ***





 ミーヴァはよく分からないままに会場を出て、二階の女子トイレへと向かっていた。

 薬の解析も済み、安全な事をニコーラへ伝えそれを手渡し、ユリはどこに行ったのだろうと会場を見渡していた時だ。

 突然羽交い絞めにされ、首を絞めつけられながら廊下へと引っ張り出された。

 それを行っていたのは、あの鼻持ちならない公爵令嬢の使用人の魔族だった。





『おやおや、奇遇ですねミーヴァ様。楽しんでいらっしゃいますでしょうか?』

『な、ん……おまえ……』

『貴様の大事なお姫様が弄ばれていたので助けてやったぞ。俺に感謝しろ』

『は……、ひめ……?』

 すぐにユリの顔が頭に浮かび、心臓が跳ね上がる。

『いいか。この館の二階のトイレだ。これ以上は面倒をみてはやらん。拾うなら勝手に拾え。放っておくのも貴様の勝手だ』

 放り投げられるように解放され、ミーヴァは頭にひたすらはてなを浮かべた。

 振り返れば予想していた人物が、自分から手を出してきたというのに迷惑そうにハンカチで手を拭っていた。

『俺の貴重な時間を使ってやったんだ。良いな。忘れるなよ』

 そう言って彼は会場へと戻って行く。





 説明が足らなすぎる事に不満を抱きつつ、ミーヴァは急いで廊下を、階段を駆けあがっていた。

 本館の二階に上がり、廊下の左右を見る。右を見た時に、廊下の奥にこんもりとした影が目に入り、彼は何も考えずにそちらへ走った。

「ユリ……!」

 女子トイレの前、彼女は廊下で壁に背を預け気を失っていた。

 ミーヴァは手元に明かりを灯し、彼女の無事を確認する。

「……く、無い……ラは、わるく、ない……」

 何やら夢にうなされてるようで、顔を歪め冷や汗をかいていた。だが目立った外傷がないどころか、ドレスも全く持って綺麗だ。

(一体何が)

 ミーヴァは開け放たれたままの女子トイレを見る。

 ご丁寧に、扉には魔術印の書かれた紙が貼ったままとなっていた。それは扉と壁とをつないでいたかのように二つに破けている。描かれた印は破壊され焼け焦げていた。

 そしてトイレ内に転がり落ちていた瓶。

 手に取り、ミーヴァはそのラベルにかかれている文字を読む。

(レッドモス?)

 ミーヴァは瓶を元あった場所に戻し、女子トイレの周囲に魔力を使って線を描く。

 扉を囲うように弧を描くと、その三点に同じ印を。魔力を流し込み、完成させたのは人払いの魔術だ。

 彼はまずユリを背負って寮に常設されている保健室へと運び、次に学園のスタッフに声をかけた。

 ドレスから楽な格好へ着替えさせられ、ユリはカーテンに囲われた保健室のベッドで眠りについていた。

 ミーヴァはスタッフに言われ保健室で待機し、やがてやって来た寮長へ事情を聴かれ、「友人が魔獣と共にトイレに閉じ込められるという悪質な嫌がらせを受けた」と報告した。

 寮長はミーヴァから話を聞くと、学園の方でよく話し合うと言って退室していった。

『出来る限りの注意喚起と、先生方へも生徒指導への反映をお願いしておきます。理事長にもこのお話は伝えておきますね。では、お大事にね……』

 そう言って去っていった彼女からは、「完璧な改善は望めないだろう」という空気が漏れ出ていた。

 彼女自身、こういった問題を軽視したり容認しているわけではなさそうだった。

 きっと今までも今も、いじめや不必要な生徒同士の衝突を無くせるようにと尽力はしているのだろうが、それが叶わないでいる。そんな感じだ、とミーヴァは思った。

(どこに行ったって、結局自衛だよな……。―――学園全体が平民を愚弄してるわけじゃないってのは分かってる……中等部の時に見てきたし……。そもそもそういう体制だったら、平民の特待生制度なんて生まれる訳ないし。クソ……馬鹿な事する奴らって何で一定数湧くんだろ……。お前等皆同じ目に合えばいいんだ)

 ミーヴァは忌々し気に拳を握る。





 暫くすると、悪夢にうなされながら目を覚ましたユリが、ベッドから起き上がり個室から顔を覗かせた。

「あれ……体が軽い……。あれ? ミーヴァ……?」

「ユリ! 大丈夫か? どこも痛くないか?」

「う、うん。ありがとう。ミーヴァが運んでくれたの? それに治療まで……?」

「いや。治療は他の奴だ。運んだのは俺だけど……それよりもユリ」

 両肩をがしりと掴まれ、状況がつかめずに「ん?」とユリは目を丸くする。

「犯人分かるか? 俺が今からそいつらの口にレッドモス詰め込んできてやる……。いや。この際普通の蛾でもいい。俺、今からそういう魔術開発するから、ユリは思い当たる奴の名前全部書き留めといてくれ。怪しい奴の口に片っ端から詰め込んでやろう……」

(口に蛾を詰める………………なんて恐ろしい……)

 酷く危なげな目をし、恐ろしい言葉を口にする友人へユリは絶句する。

「もう八割方は出来てる。お前は忘れないうちに名前書いとけ。あと単に気に食わない奴がいたらそいつも入れとけ」

 保健室に常に配備しているの老年の女性医師が、柔らかい声で「フォルゴート殿」と呼びかける。

「ここでの会話、全て記録しておりますぞ」

「……」

 ミーヴァはぴたりと陰険な空気を纏うのをひっこめると、浮かせていた腰を椅子に掛け直し眼鏡をくいっと直した。

「そうそう。怒りに振り回されたらいけませんぞ。人は冷静でおらんと」

 彼の悪策を制止した医師は「ふぉっふぉ」と笑って茶をすすった。



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