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第三章 けだものでも、まおうでも
反省会
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明るい太陽の光が真上から照り付ける草原に、膝を揃えて座った影が三つ並んだ。
グレウスの隣に座ったヴァルファーレンに向けて、黒衣を纏った長身から良く通る声が発される。
「まったくもってお前には失望したぞ、ヴァルファーレン。外見でしか人を判断できぬとは、魔導皇参謀の目玉はいつから節穴に成り下がった?」
冷え切った声を耳にして、初夏の真昼間だというのに、グレウスの背中を言いようもない寒気が走った。
言われる当のヴァルファーレンは、その比ではあるまい。
「ももももうしわけございません。と、とととしおいて、すっかりおとろえましてございます。おおおおゆるしくださいいいいぃ」
これほど小さくなれるのかというほど体を縮めて、建国当時からの生き残りである老エルフは額を地面にこすりつけた。いや、頭突きして額を土に埋めた。
歯の根も合わないようで、法衣の背中がブルブルと震え続けている。
聖教会の長である聖教皇ヴァルファーレンは、かつて魔導皇アスファロトの参謀を務めたエルフだった。
ハーフエルフだったアスファロトの死後も、転生の秘術を用いた主君が甦る日のために、自身に延命の呪をかけ続けて命を繋いでいたのだという。
そして十数年前、ヴァルファーレンはかつての主君に瓜二つの皇子をついに見出した。しかも時期を同じくして黒竜の封印も解けかかっている。
ヴァルファーレンは、その皇子エルロイドこそが主君の生まれ変わりだと信じ込んだ。
再び皇帝として君臨させるためには、竜を従える雄々しい姿を万人に見せつけ、玉座の穢れを払わねばならない、と――。
ある意味では大した忠臣だが、しかしオルガが向ける視線は冷ややかだ。
「だいたいお前は私がハーフエルフだと知っていたはずだ。ならば父方のエルフではなく、母方のダークエルフの姿で生まれてきたとしても気付くべきではないのか。しかも言うに事欠いて、私を魔王崩れだと」
「まっま、ま、まことにめんぼくしだいもございませんんん」
聞けば、魔導皇アスファロトの人生はずいぶん複雑だったようだ。
昔この大陸ではあまりにも多くの種族が暮らしていたために、争いが絶えなかった。
そこで光を纏うエルフと闇を奉ずるエルフは協定を組み、それぞれの血縁の中から最も優れた勇者同士を娶せて、生まれてきた子を統治者にすることに決めた。それがアスファロトだ。
エルフたちが望んだとおり、アスファロトは強大な魔力を持つ光と闇のハーフエルフとして生まれた。
魔力任せの限度を知らない戦いぶりにより、陰で魔王と呼ばれながら、アスファロトはこの地を平定して数多の種族が共存できる国を創り上げる。多くの臣下に恵まれ、何人もの妃と子らにも恵まれた。
だがあまりにも大きな魔法を行使し続けたため、アスファロトの寿命は思いがけないほど早く尽きてしまった。
死の間際、アスファロトは幾人かの側近を呼び寄せ、自らに転生の秘術を用いたことを告げる。命があれば、いつか平和になった後の世で再び巡り合おうと約束して。
アスファロトの死後、国が安定するのを見守ってから、黒竜のアロイーズと幾人かのエルフは永い眠りに就くことにした。しかしヴァルファーレンは眠りに就くことを拒み、いつか戻る主に玉座を差し出すために、聖教会を設立し聖教皇として君臨したのだ。
――時代を経るうちに、伝説は独り歩きを始める。
アスファロトの物語は、世界を滅ぼさんとする魔王とその配下である残虐非道な黒竜を、清く正しい銀のハーフエルフが打ち滅ぼしたという英雄譚に変わってしまった。
ヴァルファーレンはそれを知っていたが、魔王の伝説を利用するためにあえて訂正しなかった。
現皇帝を魔王の手先であると断じることで、甦ったアスファロトの即位に正当性を持たせようとしたのだ。
それを告白して、ヴァルファーレンは『もうしわけございません』と額をさらに土に埋めた。
「アロイーズ。お前もだ」
次の矛先は、反対側の隣にいる黒竜に向けられた。
キュ、と小さく鳴いて、黒竜が身を縮める。
「ヴァルファーレンの口車に乗って洞穴を出てくるとは。迎えに行くまで待てと命じた私の言葉を忘れたか」
『ギュ……』
岩のような巨体を小さく縮めたお座りの姿勢で、黒い竜は長い首を垂れて頭を低くした。まるで親に叱られた子どもの姿だ。
反省しきりの様子だが、オルガの小言は止まらない。
「しかもあの飛び方は何事だ。ゴルディナは魔法防御を持っているんだぞ。怪我でもしたらいったい誰が治癒魔法をかけると思っている」
「ご、ごるでぃなしょうぐん……!?」
黒竜の反対側でヴァルファーレンが土から顔を抜いてグレウスを振り返った。
「まさか……きでんは、ごるでぃなしょうぐん……」
「黙れヴァルファーレン! グレウスは昔のことは何一つ覚えていない。ゴルディナのことは言わなくていい!」
しまった、という顔で、オルガが年老いたエルフを黙らせる。
グレウスは密かに溜め息を吐いた。どうやらこの妻は、まだ隠し事があったらしい。
話の流れから察するに、グレウス自身もかつてのアスファロトの臣下だったようだ。
オルガの言う通り前世の記憶など欠片もないが、隣でお座りをしている凶暴そうな竜がやたら親しげに額を舐めてくるので、顔見知りなのは確からしい。えらく懐かれているようだが、頭をうっかり噛み潰されそうで怖いので、舐めるのは止めてもらいたい。
思えばあの洞穴で、グレウスの匂いを嗅いだこの竜は何かを訴えるように鳴いていた。見るからに凶暴そうに見えたが、考えてみると誰にも攻撃を加えていない。尻尾や頭を振り上げていたのも、再会を喜んで大はしゃぎだったと言われればそんな気もする。
地面すれすれの低空飛行や左右に傾く飛び方も、久々に人を乗せて飛んだのが楽しかったのかもしれない。
「もう、わかったよ。お前、結構いい奴なんだな」
グレウスは固い竜の鼻っ面を撫でた。
オルガに叱られているのでおとなしくお座りをしているが、尾は嬉しそうに左右に振られている。
そのうち岩が飛んで来そうで怖いから落ち着いてもらいたい。
「それから、グレウス」
ついに来た、とグレウスは草地の上で身を正した。
「お前、は……!」
オルガが声を途切れさせた。
怒れば怒るほど冷静になり、地を這うような低い声で淡々と責めるオルガだが、さすがに今度ばかりは冷静さを失っているようだ。
さぞかし怒っているのだろうと、グレウスは反省する。
出発前にはエルロイドの魔法にかかってオルガの口に盛大にぶっぱなし、洞穴に着いてはヴァルファーレンに先を越されて黒竜を止められず、挙句に帝都の近くで騒ぎを起こしてアロイーズを衆目に晒してしまった。
今頃帝都は大変な騒ぎになっているだろう。遠目からでも黒い竜が怖ろしい速さで接近してくるのは、物見の兵たちが見たはずだ。魔王の竜が復活したと、誤った伝説を信じる民衆が恐怖に駆られているに違いない。
混乱を防ぐための特別任務だっただろうに、結局何の役にも立たなかった。
「こんなことになってしまい、本当に申し訳……」
ヴァルファーレンと同じように、地面に深々と頭をめり込ませたら許してくれるだろうか。
勢いをつけて身を屈めかけたとき、グレウスの肩をオルガの手が押さえた。
「……!?」
驚く暇もなく、オルガの両腕がグレウスの首に回され、強く抱きしめられた。冷たい頬がグレウスの首元に埋まる。
「……無茶をするな……また私を独りにするつもりか……!」
胸を絞られるような切ない声が聞こえた。
夏至の大怪我の時と同じように、オルガの手が震えていた。
――冷静さを失うほど、心配させたのだ。
それが伝わってきて、グレウスは安心させるようにオルガの体を抱き寄せた。
ゴルディナは、アスファロトを置いて先に逝ってしまったようだ。
アスファロトにとって、ゴルディナは特別な存在だったのだろう。だからこそ、生まれ変わってからも探さずにはいられなかったのだ。
亡霊のように姿を消して街を彷徨い、見つかる保証もない相手をたった一人で探し続ける……。
それはどんなにつらく苦しい日々だっただろう。
グレウスはオルガを抱きしめ、首筋に顔を埋めた。
「……二度と離れません。何があってもしぶとく生きて、いつまでも貴方の側にいますから……」
前世の記憶はなかったが、そう誓わずにはいられなかった。
「あ、あ――、諸君。そろそろ城に帰らんかな。昼時をだいぶ過ぎたので空腹で目が回りそうだよ」
この場の空気にまったくそぐわない、間延びした声が聞こえた。
皇帝ディルタスだ。
いつからここにいたのか、退屈そうに草むらの上にしゃがみこんでいる。そういえばいつの間にか、草地に倒れていたエルロイドの姿もない。
「気を失ったエルロイドは治療室に預けてきたし、そのでっかい竜には竜舎を作るように手配してきたぞ。貴族院と聖教会にも適当な話をしてある。――もうこの草っ原にいる必要はないのではないかな」
自分はちゃんと仕事をしたぞと、どこか自慢げに言う。こういう愛嬌のあるところが、皇帝という地位にありながら身分の上下を問わずに大勢から好かれている。
グレウスは、凡庸に見えると思った最初の印象を訂正した。ディルタスほど有能かつ大物な皇帝は他にいないだろう。
なにせこの場にいるのは、魔導皇の生まれ変わりに、八百年生きた老エルフ。見た目は獰猛な竜だ。
それを目の前にして、まったくいつもと同じ調子でいられるのだから、並大抵の胆力ではない。
きっと世界がひっくり返っても、ディルタスの周りだけは安泰に違いない。
「お――……ぃ……!」
遠くから蹄の音とともに呼び声が聞こえた。
顔を向けると、二頭の空馬を連れたカッツェが馬を走らせてくるところだった。替え馬と風魔法を駆使しながら、最速でここまで戻ってきたらしい。
アッテカ山で散り散りになった魔導師たちのことまでは知らないが、ひとまず全員無事に帝都に帰還できそうだ。
「帰りましょうか」
グレウスは首にしがみついたままのオルガに声をかけて立ち上がった。
オルガは今になって恥ずかしくなったのか、グレウスの首にしがみついたまま顔を上げようとしない。グレウスは耳のあたりに口づけして、その体を大切そうに横抱きにした。姫君を恭しく抱き上げるように。
地面に座り込んだヴァルファーレンが、悲しい顔でそれを見上げていた。元主君のこんな姿は見たくなかったのに違いない。
前世の記憶がなくて幸いだと、グレウスは思う。
腕に抱いているのが伝説の魔導皇だと知っていたら、こんな言葉はとても口にできないからだ。
「……俺も腹が減りました。照り焼きを食べたくなったので、昼食は屋台にでも寄りませんか」
遅くなった昼食は安っぽい庶民の味でどうかと、グレウスは腕に抱えた魔王に提案した。
グレウスの隣に座ったヴァルファーレンに向けて、黒衣を纏った長身から良く通る声が発される。
「まったくもってお前には失望したぞ、ヴァルファーレン。外見でしか人を判断できぬとは、魔導皇参謀の目玉はいつから節穴に成り下がった?」
冷え切った声を耳にして、初夏の真昼間だというのに、グレウスの背中を言いようもない寒気が走った。
言われる当のヴァルファーレンは、その比ではあるまい。
「ももももうしわけございません。と、とととしおいて、すっかりおとろえましてございます。おおおおゆるしくださいいいいぃ」
これほど小さくなれるのかというほど体を縮めて、建国当時からの生き残りである老エルフは額を地面にこすりつけた。いや、頭突きして額を土に埋めた。
歯の根も合わないようで、法衣の背中がブルブルと震え続けている。
聖教会の長である聖教皇ヴァルファーレンは、かつて魔導皇アスファロトの参謀を務めたエルフだった。
ハーフエルフだったアスファロトの死後も、転生の秘術を用いた主君が甦る日のために、自身に延命の呪をかけ続けて命を繋いでいたのだという。
そして十数年前、ヴァルファーレンはかつての主君に瓜二つの皇子をついに見出した。しかも時期を同じくして黒竜の封印も解けかかっている。
ヴァルファーレンは、その皇子エルロイドこそが主君の生まれ変わりだと信じ込んだ。
再び皇帝として君臨させるためには、竜を従える雄々しい姿を万人に見せつけ、玉座の穢れを払わねばならない、と――。
ある意味では大した忠臣だが、しかしオルガが向ける視線は冷ややかだ。
「だいたいお前は私がハーフエルフだと知っていたはずだ。ならば父方のエルフではなく、母方のダークエルフの姿で生まれてきたとしても気付くべきではないのか。しかも言うに事欠いて、私を魔王崩れだと」
「まっま、ま、まことにめんぼくしだいもございませんんん」
聞けば、魔導皇アスファロトの人生はずいぶん複雑だったようだ。
昔この大陸ではあまりにも多くの種族が暮らしていたために、争いが絶えなかった。
そこで光を纏うエルフと闇を奉ずるエルフは協定を組み、それぞれの血縁の中から最も優れた勇者同士を娶せて、生まれてきた子を統治者にすることに決めた。それがアスファロトだ。
エルフたちが望んだとおり、アスファロトは強大な魔力を持つ光と闇のハーフエルフとして生まれた。
魔力任せの限度を知らない戦いぶりにより、陰で魔王と呼ばれながら、アスファロトはこの地を平定して数多の種族が共存できる国を創り上げる。多くの臣下に恵まれ、何人もの妃と子らにも恵まれた。
だがあまりにも大きな魔法を行使し続けたため、アスファロトの寿命は思いがけないほど早く尽きてしまった。
死の間際、アスファロトは幾人かの側近を呼び寄せ、自らに転生の秘術を用いたことを告げる。命があれば、いつか平和になった後の世で再び巡り合おうと約束して。
アスファロトの死後、国が安定するのを見守ってから、黒竜のアロイーズと幾人かのエルフは永い眠りに就くことにした。しかしヴァルファーレンは眠りに就くことを拒み、いつか戻る主に玉座を差し出すために、聖教会を設立し聖教皇として君臨したのだ。
――時代を経るうちに、伝説は独り歩きを始める。
アスファロトの物語は、世界を滅ぼさんとする魔王とその配下である残虐非道な黒竜を、清く正しい銀のハーフエルフが打ち滅ぼしたという英雄譚に変わってしまった。
ヴァルファーレンはそれを知っていたが、魔王の伝説を利用するためにあえて訂正しなかった。
現皇帝を魔王の手先であると断じることで、甦ったアスファロトの即位に正当性を持たせようとしたのだ。
それを告白して、ヴァルファーレンは『もうしわけございません』と額をさらに土に埋めた。
「アロイーズ。お前もだ」
次の矛先は、反対側の隣にいる黒竜に向けられた。
キュ、と小さく鳴いて、黒竜が身を縮める。
「ヴァルファーレンの口車に乗って洞穴を出てくるとは。迎えに行くまで待てと命じた私の言葉を忘れたか」
『ギュ……』
岩のような巨体を小さく縮めたお座りの姿勢で、黒い竜は長い首を垂れて頭を低くした。まるで親に叱られた子どもの姿だ。
反省しきりの様子だが、オルガの小言は止まらない。
「しかもあの飛び方は何事だ。ゴルディナは魔法防御を持っているんだぞ。怪我でもしたらいったい誰が治癒魔法をかけると思っている」
「ご、ごるでぃなしょうぐん……!?」
黒竜の反対側でヴァルファーレンが土から顔を抜いてグレウスを振り返った。
「まさか……きでんは、ごるでぃなしょうぐん……」
「黙れヴァルファーレン! グレウスは昔のことは何一つ覚えていない。ゴルディナのことは言わなくていい!」
しまった、という顔で、オルガが年老いたエルフを黙らせる。
グレウスは密かに溜め息を吐いた。どうやらこの妻は、まだ隠し事があったらしい。
話の流れから察するに、グレウス自身もかつてのアスファロトの臣下だったようだ。
オルガの言う通り前世の記憶など欠片もないが、隣でお座りをしている凶暴そうな竜がやたら親しげに額を舐めてくるので、顔見知りなのは確からしい。えらく懐かれているようだが、頭をうっかり噛み潰されそうで怖いので、舐めるのは止めてもらいたい。
思えばあの洞穴で、グレウスの匂いを嗅いだこの竜は何かを訴えるように鳴いていた。見るからに凶暴そうに見えたが、考えてみると誰にも攻撃を加えていない。尻尾や頭を振り上げていたのも、再会を喜んで大はしゃぎだったと言われればそんな気もする。
地面すれすれの低空飛行や左右に傾く飛び方も、久々に人を乗せて飛んだのが楽しかったのかもしれない。
「もう、わかったよ。お前、結構いい奴なんだな」
グレウスは固い竜の鼻っ面を撫でた。
オルガに叱られているのでおとなしくお座りをしているが、尾は嬉しそうに左右に振られている。
そのうち岩が飛んで来そうで怖いから落ち着いてもらいたい。
「それから、グレウス」
ついに来た、とグレウスは草地の上で身を正した。
「お前、は……!」
オルガが声を途切れさせた。
怒れば怒るほど冷静になり、地を這うような低い声で淡々と責めるオルガだが、さすがに今度ばかりは冷静さを失っているようだ。
さぞかし怒っているのだろうと、グレウスは反省する。
出発前にはエルロイドの魔法にかかってオルガの口に盛大にぶっぱなし、洞穴に着いてはヴァルファーレンに先を越されて黒竜を止められず、挙句に帝都の近くで騒ぎを起こしてアロイーズを衆目に晒してしまった。
今頃帝都は大変な騒ぎになっているだろう。遠目からでも黒い竜が怖ろしい速さで接近してくるのは、物見の兵たちが見たはずだ。魔王の竜が復活したと、誤った伝説を信じる民衆が恐怖に駆られているに違いない。
混乱を防ぐための特別任務だっただろうに、結局何の役にも立たなかった。
「こんなことになってしまい、本当に申し訳……」
ヴァルファーレンと同じように、地面に深々と頭をめり込ませたら許してくれるだろうか。
勢いをつけて身を屈めかけたとき、グレウスの肩をオルガの手が押さえた。
「……!?」
驚く暇もなく、オルガの両腕がグレウスの首に回され、強く抱きしめられた。冷たい頬がグレウスの首元に埋まる。
「……無茶をするな……また私を独りにするつもりか……!」
胸を絞られるような切ない声が聞こえた。
夏至の大怪我の時と同じように、オルガの手が震えていた。
――冷静さを失うほど、心配させたのだ。
それが伝わってきて、グレウスは安心させるようにオルガの体を抱き寄せた。
ゴルディナは、アスファロトを置いて先に逝ってしまったようだ。
アスファロトにとって、ゴルディナは特別な存在だったのだろう。だからこそ、生まれ変わってからも探さずにはいられなかったのだ。
亡霊のように姿を消して街を彷徨い、見つかる保証もない相手をたった一人で探し続ける……。
それはどんなにつらく苦しい日々だっただろう。
グレウスはオルガを抱きしめ、首筋に顔を埋めた。
「……二度と離れません。何があってもしぶとく生きて、いつまでも貴方の側にいますから……」
前世の記憶はなかったが、そう誓わずにはいられなかった。
「あ、あ――、諸君。そろそろ城に帰らんかな。昼時をだいぶ過ぎたので空腹で目が回りそうだよ」
この場の空気にまったくそぐわない、間延びした声が聞こえた。
皇帝ディルタスだ。
いつからここにいたのか、退屈そうに草むらの上にしゃがみこんでいる。そういえばいつの間にか、草地に倒れていたエルロイドの姿もない。
「気を失ったエルロイドは治療室に預けてきたし、そのでっかい竜には竜舎を作るように手配してきたぞ。貴族院と聖教会にも適当な話をしてある。――もうこの草っ原にいる必要はないのではないかな」
自分はちゃんと仕事をしたぞと、どこか自慢げに言う。こういう愛嬌のあるところが、皇帝という地位にありながら身分の上下を問わずに大勢から好かれている。
グレウスは、凡庸に見えると思った最初の印象を訂正した。ディルタスほど有能かつ大物な皇帝は他にいないだろう。
なにせこの場にいるのは、魔導皇の生まれ変わりに、八百年生きた老エルフ。見た目は獰猛な竜だ。
それを目の前にして、まったくいつもと同じ調子でいられるのだから、並大抵の胆力ではない。
きっと世界がひっくり返っても、ディルタスの周りだけは安泰に違いない。
「お――……ぃ……!」
遠くから蹄の音とともに呼び声が聞こえた。
顔を向けると、二頭の空馬を連れたカッツェが馬を走らせてくるところだった。替え馬と風魔法を駆使しながら、最速でここまで戻ってきたらしい。
アッテカ山で散り散りになった魔導師たちのことまでは知らないが、ひとまず全員無事に帝都に帰還できそうだ。
「帰りましょうか」
グレウスは首にしがみついたままのオルガに声をかけて立ち上がった。
オルガは今になって恥ずかしくなったのか、グレウスの首にしがみついたまま顔を上げようとしない。グレウスは耳のあたりに口づけして、その体を大切そうに横抱きにした。姫君を恭しく抱き上げるように。
地面に座り込んだヴァルファーレンが、悲しい顔でそれを見上げていた。元主君のこんな姿は見たくなかったのに違いない。
前世の記憶がなくて幸いだと、グレウスは思う。
腕に抱いているのが伝説の魔導皇だと知っていたら、こんな言葉はとても口にできないからだ。
「……俺も腹が減りました。照り焼きを食べたくなったので、昼食は屋台にでも寄りませんか」
遅くなった昼食は安っぽい庶民の味でどうかと、グレウスは腕に抱えた魔王に提案した。
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