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第三章 けだものでも、まおうでも
魔導皇アスファロト
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「降りろッ! 今すぐ竜を地上に降ろせ――ッ!」
竜の後ろ脚にしがみついたまま、グレウスはヴァルファーレンに向かって叫んだ。
蹴り落されるかと思ったが、黒竜は脚にグレウスをしがみつかせたまま、翼をはためかせて飛んでいる。
しかしさすがに均衡がとりにくいのか、飛行は時折大きく傾き、高度も地上すれすれになった。
いつ地面に叩きつけられるかと慄きながら、グレウスは説得を試みる。
「こんな状態で竜が帝都に入れば、民衆が恐慌状態に陥る! 怪我人や死人も出るだろう! 猊下! 貴方はそれでいいのか!」
声も限りに叫んだが、風のせいで竜の頭の方までは声が届かないのかもしれない。ヴァルファーレンからの応えはなかった。
竜の飛行速度は速く、帝都の外側にある城壁がぐんぐん近づいてくる。オルガが魔導具で飛行した時よりも速度は上かもしれない。
「猊下! 聖教会はディルタス陛下と敵対するおつもりか!?」
ヴァルファーレンが長として就く聖教会は、魔法研究の専門機関であると同時に、魔導皇アスファロトを至高の存在として崇める魔導師の集団だ。
長い間、聖教皇の姿は秘中の秘として隠されてきた。聖教会に所属する卿たちでさえ、姿を見た者はほとんどいないはずだ。一説には、建国初期に存在したエルフの生き残りではないかとも言われていた。
その真偽は定かではないが、先程の言葉が真実ならば看過することはできない。
聖教会が魔導皇アスファロトの復活を望み、それを実現させようとするのならば、彼らにとって現皇帝ディルタスは障害となる。聖教会はディルタスの敵に回ったと考えねばならない。
そしてそれは、ディルタスを皇帝の座に就けたオルガとも敵対するということだ。
「聖教皇猊下!!」
グレウスは叫ぶ。
先刻、ヴァルファーレンはグレウスのことを『魔王崩れの手先』と呼んだ。
それが誰のことを指すのかは明白だ。
――伝説の黒竜は実在し、復活を果たした。
魔導皇アスファロトの復活もただの絵空事では済まないかもしれない。
もし、そうなれば――。
復活したアスファロトは、自身が倒したはずの魔王と呼ばれる存在を見逃すだろうか。
強大な魔力を持ち、黒い髪と赤い瞳を持つオルガを、果たして守るべき自国の民だと認識してくれるだろうか。
見た目がどうであれ、オルガは断じて魔王などではないというのに。
「降ろせ! 地上に降ろせ――ッ!」
グレウスは両腕でしがみついたまま、岩のような竜の脚に頭を打ち付けた。
額が破れて血が流れたが、構うものではない。
このまま竜が帝都の城に降り立ち、オルガを爪にかけようとするのなら、たとえ手足を食い千切られたとしても阻止せねばならない。
なんとしても、帝都に辿り着かせてはならなかった。
『ギャッ、ギャア!』
脚で暴れられるのは、竜にとっても災難だったらしい。
帝都の周囲を囲む城壁の手前で、竜は左右にふらつきながらも地面に降り立った。
地上に着いた途端、グレウスは体の平衡を失って草の上に転がる。
『ギャァアアアッ!』
竜が長い首を撓めて足元のグレウスを覗き込み、腹立たしげにガチガチと鋭い歯を鳴らした。
食らいつかれるかと思った、その時――。
「どうなさいました、猊下!?」
聞き覚えのある澄んだ声が聞こえた。
顔を上げたグレウスの目に映ったのは、馬を従えて佇むエルロイドの姿だった。
「――お出迎え、痛み入ります。アスファロト様」
竜の背から降り立ったヴァルファーレンは、エルロイドの前に進み出ると、恭しく膝をついた。
アスファロトと呼ばれたエルロイドは、恐怖心を隠し切れない顔で黒い竜を見やった。
「……その、生き物は……?」
「伝説に謳われる黒竜、貴方様の忠実なしもべでございます。貴方様の復活を予期して封印が解け始めていたのを、私が迎えに行って起こしてまいりました。……さ、御手を伸ばされませ」
ヴァルファーレンが促す。
翼を畳んだ黒竜は警戒するように地面に四つ足を着き、頭をエルロイドに向けていた。
フッ、フッ、と匂いを嗅ぐような鼻息が聞こえる。
グレウスは竜の注意がエルロイドの方に向いている間に、気配を殺しながらそっと距離をとった。
帝都の城壁はすぐ目の前だ。
エルロイドを乗せてここまで来た馬は、巨大な竜の姿にすっかり怯え切っている。手綱いっぱいまで後ろに下がって今にも逃げ出しそうだ。
あの手綱を奪って馬を確保できれば、このまま帝都に駆け込んで危険を知らせることができる。ここにいる二人の魔導師に阻止されず、竜がグレウスに関心を向けなかったらの話だが――。
対峙している二人と一頭の視界に入らないよう回り込みながら、グレウスは緊迫した場面を見守った。
ヴァルファーレンが言う。
「竜に触れれば、貴方様の前世の記憶もきっと甦ることでしょう。そうすれば八百年もの長きにわたって貴方様の復活を待ち続けた私のことも、きっと思い出されるはず。貴方様は魔導皇アスファロト陛下でございます。どうぞ怖れず、この竜に触れてください……」
聖教皇に促されて、白い法衣の袖が持ち上がった。
エルロイドが震える手を竜へと伸ばす。
竜もまた警戒も露わに身を低くしたまま、首を伸ばしてエルロイドの方へと顔を近づけた。
ブルブルと震えるエルロイドの指先を、顔を近づけた竜が匂いを確かめるように嗅いだ。その途端――。
『ギッ! ギギィッ……!』
怒りも露わに牙を剥き出しにした竜が、突然後ろ脚で立ち上がった。
威嚇するように大きく翼を広げ、足を踏み鳴らす。あたりの空気が凍り付くように冷たくなった。
「ど、どうしたのだ、竜よ! お前の主人がわからないのか!?」
ヴァルファーレンが焦ったように呼びかけたが、怒り狂う竜にその声は届かない。
唸り声を上げながら頭を大きく振り上げ、頭上でガチガチと歯を打ち鳴らす。広げた翼で風を巻き起こし、太い尾は苛立ちをぶつけるように地面に叩きつけられた。一瞬体が浮き上がりそうなほどの地響きに襲われる。
馬はもう恐慌状態だった。首を振るい、野生に返ったように走り出す。
「アッ……!」
手綱を握ったままだったエルロイドは地面に倒れ、そのまま草の上を引きずられた。
倒れた拍子に手綱が離れ、馬は走り去っていく。
「アスファロト様!」
叫んで、エルロイドを助けに駆け寄ったヴァルファーレンの上に、翼を広げた巨大な竜の影が落ちた。
グレウスの背を悪寒が走り抜ける。
地上のどこを探しても、この竜より強大で獰猛な生き物は存在するまい。
どんな武器を携えていたとしても、人間などには太刀打ちできない怪物だ。
首がしなり、長く太い尾が大きく振り上げられる。牙が生え揃った大口が開き、今にも二人の魔導師を呑み込まんと迫っていく――。
「ッ……く!」
とっさにグレウスは走り出した。
敵か味方か、そんなことを考える余裕はない。人が竜に食い殺されようとしている。助けなければ――!
竜から二人を庇うように立ち塞がろうとした、その目の前に。
見慣れた黒衣の背中が、前触れもなく現れた。
長い黒髪が、グレウスの眼前で夜の帳のように光を吸い込む。
「……脅かすのはそのくらいにしておけ、アロイーズ。それとも私の雷を喰らいたいか……?」
底冷えする静かな恫喝が、黒い竜の動きをぴたりと止めた。
竜の後ろ脚にしがみついたまま、グレウスはヴァルファーレンに向かって叫んだ。
蹴り落されるかと思ったが、黒竜は脚にグレウスをしがみつかせたまま、翼をはためかせて飛んでいる。
しかしさすがに均衡がとりにくいのか、飛行は時折大きく傾き、高度も地上すれすれになった。
いつ地面に叩きつけられるかと慄きながら、グレウスは説得を試みる。
「こんな状態で竜が帝都に入れば、民衆が恐慌状態に陥る! 怪我人や死人も出るだろう! 猊下! 貴方はそれでいいのか!」
声も限りに叫んだが、風のせいで竜の頭の方までは声が届かないのかもしれない。ヴァルファーレンからの応えはなかった。
竜の飛行速度は速く、帝都の外側にある城壁がぐんぐん近づいてくる。オルガが魔導具で飛行した時よりも速度は上かもしれない。
「猊下! 聖教会はディルタス陛下と敵対するおつもりか!?」
ヴァルファーレンが長として就く聖教会は、魔法研究の専門機関であると同時に、魔導皇アスファロトを至高の存在として崇める魔導師の集団だ。
長い間、聖教皇の姿は秘中の秘として隠されてきた。聖教会に所属する卿たちでさえ、姿を見た者はほとんどいないはずだ。一説には、建国初期に存在したエルフの生き残りではないかとも言われていた。
その真偽は定かではないが、先程の言葉が真実ならば看過することはできない。
聖教会が魔導皇アスファロトの復活を望み、それを実現させようとするのならば、彼らにとって現皇帝ディルタスは障害となる。聖教会はディルタスの敵に回ったと考えねばならない。
そしてそれは、ディルタスを皇帝の座に就けたオルガとも敵対するということだ。
「聖教皇猊下!!」
グレウスは叫ぶ。
先刻、ヴァルファーレンはグレウスのことを『魔王崩れの手先』と呼んだ。
それが誰のことを指すのかは明白だ。
――伝説の黒竜は実在し、復活を果たした。
魔導皇アスファロトの復活もただの絵空事では済まないかもしれない。
もし、そうなれば――。
復活したアスファロトは、自身が倒したはずの魔王と呼ばれる存在を見逃すだろうか。
強大な魔力を持ち、黒い髪と赤い瞳を持つオルガを、果たして守るべき自国の民だと認識してくれるだろうか。
見た目がどうであれ、オルガは断じて魔王などではないというのに。
「降ろせ! 地上に降ろせ――ッ!」
グレウスは両腕でしがみついたまま、岩のような竜の脚に頭を打ち付けた。
額が破れて血が流れたが、構うものではない。
このまま竜が帝都の城に降り立ち、オルガを爪にかけようとするのなら、たとえ手足を食い千切られたとしても阻止せねばならない。
なんとしても、帝都に辿り着かせてはならなかった。
『ギャッ、ギャア!』
脚で暴れられるのは、竜にとっても災難だったらしい。
帝都の周囲を囲む城壁の手前で、竜は左右にふらつきながらも地面に降り立った。
地上に着いた途端、グレウスは体の平衡を失って草の上に転がる。
『ギャァアアアッ!』
竜が長い首を撓めて足元のグレウスを覗き込み、腹立たしげにガチガチと鋭い歯を鳴らした。
食らいつかれるかと思った、その時――。
「どうなさいました、猊下!?」
聞き覚えのある澄んだ声が聞こえた。
顔を上げたグレウスの目に映ったのは、馬を従えて佇むエルロイドの姿だった。
「――お出迎え、痛み入ります。アスファロト様」
竜の背から降り立ったヴァルファーレンは、エルロイドの前に進み出ると、恭しく膝をついた。
アスファロトと呼ばれたエルロイドは、恐怖心を隠し切れない顔で黒い竜を見やった。
「……その、生き物は……?」
「伝説に謳われる黒竜、貴方様の忠実なしもべでございます。貴方様の復活を予期して封印が解け始めていたのを、私が迎えに行って起こしてまいりました。……さ、御手を伸ばされませ」
ヴァルファーレンが促す。
翼を畳んだ黒竜は警戒するように地面に四つ足を着き、頭をエルロイドに向けていた。
フッ、フッ、と匂いを嗅ぐような鼻息が聞こえる。
グレウスは竜の注意がエルロイドの方に向いている間に、気配を殺しながらそっと距離をとった。
帝都の城壁はすぐ目の前だ。
エルロイドを乗せてここまで来た馬は、巨大な竜の姿にすっかり怯え切っている。手綱いっぱいまで後ろに下がって今にも逃げ出しそうだ。
あの手綱を奪って馬を確保できれば、このまま帝都に駆け込んで危険を知らせることができる。ここにいる二人の魔導師に阻止されず、竜がグレウスに関心を向けなかったらの話だが――。
対峙している二人と一頭の視界に入らないよう回り込みながら、グレウスは緊迫した場面を見守った。
ヴァルファーレンが言う。
「竜に触れれば、貴方様の前世の記憶もきっと甦ることでしょう。そうすれば八百年もの長きにわたって貴方様の復活を待ち続けた私のことも、きっと思い出されるはず。貴方様は魔導皇アスファロト陛下でございます。どうぞ怖れず、この竜に触れてください……」
聖教皇に促されて、白い法衣の袖が持ち上がった。
エルロイドが震える手を竜へと伸ばす。
竜もまた警戒も露わに身を低くしたまま、首を伸ばしてエルロイドの方へと顔を近づけた。
ブルブルと震えるエルロイドの指先を、顔を近づけた竜が匂いを確かめるように嗅いだ。その途端――。
『ギッ! ギギィッ……!』
怒りも露わに牙を剥き出しにした竜が、突然後ろ脚で立ち上がった。
威嚇するように大きく翼を広げ、足を踏み鳴らす。あたりの空気が凍り付くように冷たくなった。
「ど、どうしたのだ、竜よ! お前の主人がわからないのか!?」
ヴァルファーレンが焦ったように呼びかけたが、怒り狂う竜にその声は届かない。
唸り声を上げながら頭を大きく振り上げ、頭上でガチガチと歯を打ち鳴らす。広げた翼で風を巻き起こし、太い尾は苛立ちをぶつけるように地面に叩きつけられた。一瞬体が浮き上がりそうなほどの地響きに襲われる。
馬はもう恐慌状態だった。首を振るい、野生に返ったように走り出す。
「アッ……!」
手綱を握ったままだったエルロイドは地面に倒れ、そのまま草の上を引きずられた。
倒れた拍子に手綱が離れ、馬は走り去っていく。
「アスファロト様!」
叫んで、エルロイドを助けに駆け寄ったヴァルファーレンの上に、翼を広げた巨大な竜の影が落ちた。
グレウスの背を悪寒が走り抜ける。
地上のどこを探しても、この竜より強大で獰猛な生き物は存在するまい。
どんな武器を携えていたとしても、人間などには太刀打ちできない怪物だ。
首がしなり、長く太い尾が大きく振り上げられる。牙が生え揃った大口が開き、今にも二人の魔導師を呑み込まんと迫っていく――。
「ッ……く!」
とっさにグレウスは走り出した。
敵か味方か、そんなことを考える余裕はない。人が竜に食い殺されようとしている。助けなければ――!
竜から二人を庇うように立ち塞がろうとした、その目の前に。
見慣れた黒衣の背中が、前触れもなく現れた。
長い黒髪が、グレウスの眼前で夜の帳のように光を吸い込む。
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