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第三章 けだものでも、まおうでも
不穏な影
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「只今戻りました!」
大急ぎで戻って士官室の扉を開けたグレウスは、厳しい表情のカッツェに迎えられた。
「待っていたぞ、ロア副団長。皇帝陛下のお召しがあった。今から陛下の執務室に参る」
どうやら昼休憩で席を外している間に、緊急の呼び出しがあったようだ。
近衛騎士団団長のカッツェは、謁見用の準正装に身を包んでいる。グレウスは借りてきた本を机の上に置くと、慌てて上着をカッツェと同じ準正装に着替えた。
髪を手早く整え、胸に役職を示す徽章を着けて、白い手袋を嵌める。
ディルタスはあまり身分に拘らない気さくな人柄だが、今回は皇帝としての正式な命令のようだ。
身支度を整えると、カッツェが先に立って歩き始めた。
「分室に行っていたのか」
廊下を歩きながら、カッツェが訊ねた。グレウスが本を持って帰室したことで、行き先を察したのだろう。城にも図書室はあるが基本的に皇族や貴族のためのものなので、グレウスのような騎士は立ち入りが禁止されている。
「はい、少し学びたいことがありまして」
「どうだった?」
前を向いたまま、カッツェは言葉少なく問うた。
どうだと問われても、グレウスには質問の意味が良くわからない。
学びたいことは学べたのかという意味だろうか。それにしては雰囲気が妙だ。
「え……っと」
どう答えたものかと戸惑う気配を察知したらしい。
カッツェは足を止めると、周囲を見回して太い柱の陰にグレウスを引き込んだ。
顔を寄せ、声を潜めて問う。
「……分室の責任者はエルロイド卿だ。卿の様子はどうだった? 何か変わったことはなかったか」
カッツェの深刻な表情に、グレウスも気を引き締めた。ただごとではない雰囲気だ。
記憶を振り返ってみたが、怪しいと感じるようなことには思い当たらないが……。
「特に変わったことは無いと思いますが、エルロイド卿に何か問題でも……?」
グレウスが小声で聞き返すと、カッツェはもう一度視線だけで周囲を見回した。
騎士団長のカッツェは、団長職にあるだけでなく伯爵家の当主でもある。軍部絡みの情報と貴族社会での裏事情など、双方の界隈に詳しい。
カッツェは声を出さずに、唇だけを動かして伝えた。
『聖教会には気をつけろ』
そう口を動かしながら、カッツェは自分の額を指さした。昨年の夏至の事件で、グレウスが火傷を負った場所だ。
カッツェはそれ以上は何も言わず、柱の影から出ると謁見の間に向かって歩き始めた。
グレウス・ロアは、昨年近衛騎士団副団長に就任し、妻を迎えた。
オルガ・ユーリシス。先帝の第八皇子にして、絶大無比の魔力を誇るアスファロス皇国の真の皇帝だ。
神秘的なほど美しいグレウスの妻は、長い黒髪に鮮やかな赤い瞳を持ち、不吉とされる黒いローブを好んで身に着ける。
そのため、口さがない貴族たちの間では『黒の魔王』などとあだ名されているが――オルガの実力と性格を知るものからすれば、実にぴったりの二つ名である。
もっとも当の本人は、黙っていれば手に入るはずだった皇帝の椅子を蹴り、平民出身のグレウスの妻に収まって満足している様子だ。魔王などという物騒な響きからは程遠く、普段は有り余る魔力を街の屋台で買い食いするのに使うなど、自由気ままな生活をしている。
少々難のある性格をしているので機嫌を損ねないようにするのは必須だが、それ以外は至って平和と言えるだろう。
グレウスの最愛の妻である。
身分違いの二人が結婚することになったきっかけは、昨年の夏に起こった花火の暴発事故だった。
城では毎年夏至に祭典が行われるが、用意されていた花火が突然爆発したのだ。
警護に当たっていた近衛騎士団には多くの負傷者があり、皇族を庇って怪我を負ったグレウスもそのうちの一人だった。
ほとんどの近衛兵が治療を専門とする魔導師の手で速やかに回復したが、グレウスだけはそうはいかなかった。
魔法を無効化する体質のため、通常の治癒魔法が効かなかったのだ。
薬草を用いた治療では効果が乏しく、このままでは騎士団唯一の犠牲者となるかに思われたとき――、それを救ったのがオルガだった。
この話は皇帝ディルタスの知るところとなり、お膳立てされて、去年の秋に二人は正式に結ばれることになったのだ。
当初はとんでもないことになったと思ったものだが、今となってはディルタスに感謝しきりである。
その夏至の事件だが、公式には事故だったと発表されている。
皇族を狙った暗殺ではないかとの見方は初期からあったが、花火を管理していた職人たちが爆発事故で命を落としたために、詳細が不明のままだったのだ。
そろそろ一年ほどになるが、今になって調査に進展があったのだろうか。
グレウスはふと、分室の主を思い出した。
あの時もし、皇帝ディルタスとその皇子の命が失われていたのだとしたら、皇帝の座は唯一残った皇族であるエルロイド卿のものとなったはずだ。
穏やかで清廉な空気を醸していたエルロイド卿が、皇位を狙う。
あり得ないと考えかけて、グレウスは思い直した。オルガと同じ顔の人物だ。何を考えていても不思議はない。
怪しいと言うなら、聖教会も同様だ。
ディルタス皇帝は魔法に頼らない国づくりを目指している。魔法の研鑽と魔導皇への信奉を第一義とする聖教会とは、即位以来折り合いが悪い。
エルロイド卿を皇帝の座に就けようと聖教会が関与するのも、あり得ない話ではない。
カッツェが言った『聖教会には気をつけろ』とは、そういう意味だろうか……。
「――というわけで、そなたら二人にバルバドス領アッテカにある洞穴を見てきてもらいたい」
不意にディルタスの言葉が耳に飛び込んできて、グレウスはハッとなった。
カッツェに連れられて謁見の間に着いたところまでは覚えているが、謁見が始まった記憶がない。いつの間にディルタスの話が始まっていたのか。
思い出そうとしたが、記憶があいまいではっきりしなかった。膝をついた姿勢のまま、グレウスは慌てて周囲を見回す。
「はッ!」
斜め前でカッツェが首肯するのが聞こえた。
任務の内容はさっぱりわからなかったが、グレウスも同じように頭を下げた。
頭を下げた拍子に、くらりと目眩がした。まるで熱でもあるかのように頭の芯が鈍く痛む。
ついさっきまでは異常などなかったのに、いったいどうしたのか。
「事は一刻を争う。馬や携行品の用意は城で整えさせるので、夕刻までには出立してもらいたい。夜を超えての任務になるので、すまんが今すぐ準備にかかってくれ」
ディルタスの声はこんな時でも穏やかだ。
一刻を争うと言いながら、泰然として人に安心感を与える声だ。ディルタスという皇帝の資質の一つだろう。
「承知いたしました。では、失礼いたします!」
退室を許可する合図と同時に、カッツェがきびきびと立ち上がった。
グレウスもふらつきを隠しながら、一礼して後に続く。
回廊に出たところで、カッツェがグレウスを振り返った。
大急ぎで戻って士官室の扉を開けたグレウスは、厳しい表情のカッツェに迎えられた。
「待っていたぞ、ロア副団長。皇帝陛下のお召しがあった。今から陛下の執務室に参る」
どうやら昼休憩で席を外している間に、緊急の呼び出しがあったようだ。
近衛騎士団団長のカッツェは、謁見用の準正装に身を包んでいる。グレウスは借りてきた本を机の上に置くと、慌てて上着をカッツェと同じ準正装に着替えた。
髪を手早く整え、胸に役職を示す徽章を着けて、白い手袋を嵌める。
ディルタスはあまり身分に拘らない気さくな人柄だが、今回は皇帝としての正式な命令のようだ。
身支度を整えると、カッツェが先に立って歩き始めた。
「分室に行っていたのか」
廊下を歩きながら、カッツェが訊ねた。グレウスが本を持って帰室したことで、行き先を察したのだろう。城にも図書室はあるが基本的に皇族や貴族のためのものなので、グレウスのような騎士は立ち入りが禁止されている。
「はい、少し学びたいことがありまして」
「どうだった?」
前を向いたまま、カッツェは言葉少なく問うた。
どうだと問われても、グレウスには質問の意味が良くわからない。
学びたいことは学べたのかという意味だろうか。それにしては雰囲気が妙だ。
「え……っと」
どう答えたものかと戸惑う気配を察知したらしい。
カッツェは足を止めると、周囲を見回して太い柱の陰にグレウスを引き込んだ。
顔を寄せ、声を潜めて問う。
「……分室の責任者はエルロイド卿だ。卿の様子はどうだった? 何か変わったことはなかったか」
カッツェの深刻な表情に、グレウスも気を引き締めた。ただごとではない雰囲気だ。
記憶を振り返ってみたが、怪しいと感じるようなことには思い当たらないが……。
「特に変わったことは無いと思いますが、エルロイド卿に何か問題でも……?」
グレウスが小声で聞き返すと、カッツェはもう一度視線だけで周囲を見回した。
騎士団長のカッツェは、団長職にあるだけでなく伯爵家の当主でもある。軍部絡みの情報と貴族社会での裏事情など、双方の界隈に詳しい。
カッツェは声を出さずに、唇だけを動かして伝えた。
『聖教会には気をつけろ』
そう口を動かしながら、カッツェは自分の額を指さした。昨年の夏至の事件で、グレウスが火傷を負った場所だ。
カッツェはそれ以上は何も言わず、柱の影から出ると謁見の間に向かって歩き始めた。
グレウス・ロアは、昨年近衛騎士団副団長に就任し、妻を迎えた。
オルガ・ユーリシス。先帝の第八皇子にして、絶大無比の魔力を誇るアスファロス皇国の真の皇帝だ。
神秘的なほど美しいグレウスの妻は、長い黒髪に鮮やかな赤い瞳を持ち、不吉とされる黒いローブを好んで身に着ける。
そのため、口さがない貴族たちの間では『黒の魔王』などとあだ名されているが――オルガの実力と性格を知るものからすれば、実にぴったりの二つ名である。
もっとも当の本人は、黙っていれば手に入るはずだった皇帝の椅子を蹴り、平民出身のグレウスの妻に収まって満足している様子だ。魔王などという物騒な響きからは程遠く、普段は有り余る魔力を街の屋台で買い食いするのに使うなど、自由気ままな生活をしている。
少々難のある性格をしているので機嫌を損ねないようにするのは必須だが、それ以外は至って平和と言えるだろう。
グレウスの最愛の妻である。
身分違いの二人が結婚することになったきっかけは、昨年の夏に起こった花火の暴発事故だった。
城では毎年夏至に祭典が行われるが、用意されていた花火が突然爆発したのだ。
警護に当たっていた近衛騎士団には多くの負傷者があり、皇族を庇って怪我を負ったグレウスもそのうちの一人だった。
ほとんどの近衛兵が治療を専門とする魔導師の手で速やかに回復したが、グレウスだけはそうはいかなかった。
魔法を無効化する体質のため、通常の治癒魔法が効かなかったのだ。
薬草を用いた治療では効果が乏しく、このままでは騎士団唯一の犠牲者となるかに思われたとき――、それを救ったのがオルガだった。
この話は皇帝ディルタスの知るところとなり、お膳立てされて、去年の秋に二人は正式に結ばれることになったのだ。
当初はとんでもないことになったと思ったものだが、今となってはディルタスに感謝しきりである。
その夏至の事件だが、公式には事故だったと発表されている。
皇族を狙った暗殺ではないかとの見方は初期からあったが、花火を管理していた職人たちが爆発事故で命を落としたために、詳細が不明のままだったのだ。
そろそろ一年ほどになるが、今になって調査に進展があったのだろうか。
グレウスはふと、分室の主を思い出した。
あの時もし、皇帝ディルタスとその皇子の命が失われていたのだとしたら、皇帝の座は唯一残った皇族であるエルロイド卿のものとなったはずだ。
穏やかで清廉な空気を醸していたエルロイド卿が、皇位を狙う。
あり得ないと考えかけて、グレウスは思い直した。オルガと同じ顔の人物だ。何を考えていても不思議はない。
怪しいと言うなら、聖教会も同様だ。
ディルタス皇帝は魔法に頼らない国づくりを目指している。魔法の研鑽と魔導皇への信奉を第一義とする聖教会とは、即位以来折り合いが悪い。
エルロイド卿を皇帝の座に就けようと聖教会が関与するのも、あり得ない話ではない。
カッツェが言った『聖教会には気をつけろ』とは、そういう意味だろうか……。
「――というわけで、そなたら二人にバルバドス領アッテカにある洞穴を見てきてもらいたい」
不意にディルタスの言葉が耳に飛び込んできて、グレウスはハッとなった。
カッツェに連れられて謁見の間に着いたところまでは覚えているが、謁見が始まった記憶がない。いつの間にディルタスの話が始まっていたのか。
思い出そうとしたが、記憶があいまいではっきりしなかった。膝をついた姿勢のまま、グレウスは慌てて周囲を見回す。
「はッ!」
斜め前でカッツェが首肯するのが聞こえた。
任務の内容はさっぱりわからなかったが、グレウスも同じように頭を下げた。
頭を下げた拍子に、くらりと目眩がした。まるで熱でもあるかのように頭の芯が鈍く痛む。
ついさっきまでは異常などなかったのに、いったいどうしたのか。
「事は一刻を争う。馬や携行品の用意は城で整えさせるので、夕刻までには出立してもらいたい。夜を超えての任務になるので、すまんが今すぐ準備にかかってくれ」
ディルタスの声はこんな時でも穏やかだ。
一刻を争うと言いながら、泰然として人に安心感を与える声だ。ディルタスという皇帝の資質の一つだろう。
「承知いたしました。では、失礼いたします!」
退室を許可する合図と同時に、カッツェがきびきびと立ち上がった。
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