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第二章 とんでもない相手を好きになり
癒しの歌声
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胃の腑が捩れ、平衡感覚が失われる。
巨大な籠の中で振り回されるような揺れがグレウスを襲い、現れた時と同じように唐突に止んだ。
「……?」
状況を把握しようと辺りを見回し、グレウスは血の気を引かせた。
足の下に大地がない……!
体は宙に浮き、遥か下方に森や平原が広がっている。鳥の鳴き声がしたかと思えば、渡り鳥が連なって体の下を飛んでいた。
「ぅ、わぁああッ!」
落ちる――!
そう思ったグレウスの手を、誰かが掴んで握りしめた。
「落ち着け。お前を落としたりはせぬ」
ぐらりと傾いた体が、確かな平衡を取り戻した。
握り合った手を通して、冷たく痺れるような感覚が流れ込んでくる。体の周りを薄い雲母のような煌めきが舞い、グレウスの体に近づくと弾かれたように散っていった。
手をしっかりと握り直して、グレウスは隣に並んで空を往くオルガを見た。
二人は宙に浮いていた。
目に馴染んだ黒いローブの背中が形を変え、黒い翼となって真昼の空を羽ばたいている。
グレウスの視線に気づくと、ローブの翼をはためかせたオルガは、何でもないことのように『空を飛ぶための魔導具だ』と教えた。
「お前の魔法防御は時に厄介だな。魔導具の助けを借りていてさえ、手を触れ合わせていなければ落としてしまいそうだ」
「魔法防御……?」
初めて聞く言葉に、グレウスは聞き返した。
薄く笑みを浮かべたオルガが、そうだと頷く。
「お前はあらゆる魔法を無効化する強力な対魔法障壁を、自分の周囲に常時自動発現させている。選定の珠も、お前に触れられたのでは沈黙を守る以外にあるまい。そのせいで一見魔力が無いように見えるだけの話だ」
言われて、グレウスにもやっと合点がいった。
鍛冶屋を営む両親は、グレウスが近くにいると火魔法の調子が悪くなるからと、工房の中には滅多と入らせてくれなかった。
選定の珠は僅かな光も帯びず、これほど真っ黒になったのは初めてだと司祭を驚かせた。
それに夏至の花火事故の際――。
同僚たちが治療師の手当てを受けて次々と回復していく中、グレウス一人が治癒魔法の恩恵を受けられずに死に瀕した。
「――あの時……」
おぼろな記憶が、意識すると同時に次々と鮮明になっていく。
城の治療室で、弟が手を握って泣いていた。
周りの同僚がしっかりしろと何度も呼びかけ、口の中や傷口に薬草を押し込んできたが、焼け石に水だと話す治療師の声も聞こえた。
その声が不意に止み、辺りが急な静寂に包まれた時――。
『グレウス……お前を死なせたりするものか』
聞き覚えのない低い声が耳に届いた。
空いた片手を冷たい手に取られ、指を絡めて繋がれた。その触れ合った指の間から、冷たく痺れるような感覚が流れ込んでくる。
不思議なその感覚は腕や胸に伸び、血が巡るように全身へと広がって……。
少しすると、冷たい痺れに洗い流されたかのように、痛みが和らぎ始めた。
顔に巻かれた包帯の隙間から、グレウスは自分の手を握った相手を見上げた。長い黒髪に白い美貌を持つ魔導師だ。
唇から零れるのは、歌うような癒しの呪文。星のような煌めきが全身から舞い上がり、グレウスの体を覆っていく。
煌めきが弾かれ、宙に散って霧散しても、魔導師は絶え間なく癒しの歌を唱え続ける。
額にびっしりと汗をかき、唱える声が掠れても、けっして諦めようとせず。
やがて力負けしたかのように、グレウスの傷が再生を始めた。
ピリピリとした痛みとむず痒さを伴いながら、爛れて剥き出しだった肉を皮膚が覆っていく。吹き飛ばされて折れた骨が繋がり、裂けた筋肉も元通りに。
しかしグレウスの傷が治るにつれ、魔導師の美貌は生気を失い青白く変わっていった。まるで命の灯をグレウスに注ぎ込むかのようだ。グレウスが回復するほど、魔導師の声は掠れて弱々しいものになっていく。それでも彼は癒しの歌を止めようとはしない。
最後に魔導師は、グレウスの顔の包帯を剥がして額に手を触れた。だが、その表情が苦しげに歪む。
命に関わる負傷を癒すのに、持てる魔力を使い果たしてしまったのだとわかった。
星のように眩しかった煌めきは、もはや小さな雲母のようにささやかなものに変わっていた。時折大きく輝こうとするが、グレウスに触れると儚く消えてしまう。
魔導師はそれでも諦めなかった。肩で息をつき、なおも呪文を唱えようとする。
真っ青になった唇で、玉の汗を浮かべながら。
『も……う……』
グレウスは動くようになった手をどうにか上げて、額にかざされた手をとった。
まだ意識は朦朧としていたが、死力を尽くして命を救われたことだけは理解できた。もう十分だ。
『あり、が、とう……』
顔の火傷が引き連れるのを感じながら、無限の感謝を込めてその手に口づける。
『グレウス……』
黒髪の魔導師は泣きそうな顔で少し笑った。それから――。
『さぁ、もう眠りに就け。眠りから覚めれば、お前はすべて忘れている』
最後に祈るようにそう唱えて、グレウスの目を閉じさせた。
「……あの時、俺を助けてくれたのは貴方だったのか……」
繋いだ手を握り締め、グレウスはまっすぐにオルガを見つめた。
指から流れ込んでくる冷たい痺れにも覚えがある。どうして忘れてしまっていたのかが不思議なほどだ。
オルガは細い眉を片方上げると、不機嫌そうに答えた。
「私以外にお前の傷を治せるほどの術者がいないのだから仕方あるまい。それに命の危機を救うのは、許嫁として当然の責務だ」
「許嫁!?」
思いもかけない単語に、グレウスはオウム返しに叫んだ。
オルガは珍しく『しまった』という顔をすると、慌てて顔を背けてしまった。
「どういうことです!? 俺、俺と、貴方が……!?」
「話は後だ! そら、あれを見ろ。国境が見えてきたぞ」
あからさまに話題を逸らす様子で、オルガが前方を指さした。
そこにはラデナとの国境と思しき深い谷と、両側に砦を備えた橋、そして同じように空の上に浮かぶ三人の男の姿があった。
皇帝ディルタス、議長コンラート。
そしてその二人に押さえられて見えない床に膝を突く、ゼフィエル・ラデナの姿だ。
巨大な籠の中で振り回されるような揺れがグレウスを襲い、現れた時と同じように唐突に止んだ。
「……?」
状況を把握しようと辺りを見回し、グレウスは血の気を引かせた。
足の下に大地がない……!
体は宙に浮き、遥か下方に森や平原が広がっている。鳥の鳴き声がしたかと思えば、渡り鳥が連なって体の下を飛んでいた。
「ぅ、わぁああッ!」
落ちる――!
そう思ったグレウスの手を、誰かが掴んで握りしめた。
「落ち着け。お前を落としたりはせぬ」
ぐらりと傾いた体が、確かな平衡を取り戻した。
握り合った手を通して、冷たく痺れるような感覚が流れ込んでくる。体の周りを薄い雲母のような煌めきが舞い、グレウスの体に近づくと弾かれたように散っていった。
手をしっかりと握り直して、グレウスは隣に並んで空を往くオルガを見た。
二人は宙に浮いていた。
目に馴染んだ黒いローブの背中が形を変え、黒い翼となって真昼の空を羽ばたいている。
グレウスの視線に気づくと、ローブの翼をはためかせたオルガは、何でもないことのように『空を飛ぶための魔導具だ』と教えた。
「お前の魔法防御は時に厄介だな。魔導具の助けを借りていてさえ、手を触れ合わせていなければ落としてしまいそうだ」
「魔法防御……?」
初めて聞く言葉に、グレウスは聞き返した。
薄く笑みを浮かべたオルガが、そうだと頷く。
「お前はあらゆる魔法を無効化する強力な対魔法障壁を、自分の周囲に常時自動発現させている。選定の珠も、お前に触れられたのでは沈黙を守る以外にあるまい。そのせいで一見魔力が無いように見えるだけの話だ」
言われて、グレウスにもやっと合点がいった。
鍛冶屋を営む両親は、グレウスが近くにいると火魔法の調子が悪くなるからと、工房の中には滅多と入らせてくれなかった。
選定の珠は僅かな光も帯びず、これほど真っ黒になったのは初めてだと司祭を驚かせた。
それに夏至の花火事故の際――。
同僚たちが治療師の手当てを受けて次々と回復していく中、グレウス一人が治癒魔法の恩恵を受けられずに死に瀕した。
「――あの時……」
おぼろな記憶が、意識すると同時に次々と鮮明になっていく。
城の治療室で、弟が手を握って泣いていた。
周りの同僚がしっかりしろと何度も呼びかけ、口の中や傷口に薬草を押し込んできたが、焼け石に水だと話す治療師の声も聞こえた。
その声が不意に止み、辺りが急な静寂に包まれた時――。
『グレウス……お前を死なせたりするものか』
聞き覚えのない低い声が耳に届いた。
空いた片手を冷たい手に取られ、指を絡めて繋がれた。その触れ合った指の間から、冷たく痺れるような感覚が流れ込んでくる。
不思議なその感覚は腕や胸に伸び、血が巡るように全身へと広がって……。
少しすると、冷たい痺れに洗い流されたかのように、痛みが和らぎ始めた。
顔に巻かれた包帯の隙間から、グレウスは自分の手を握った相手を見上げた。長い黒髪に白い美貌を持つ魔導師だ。
唇から零れるのは、歌うような癒しの呪文。星のような煌めきが全身から舞い上がり、グレウスの体を覆っていく。
煌めきが弾かれ、宙に散って霧散しても、魔導師は絶え間なく癒しの歌を唱え続ける。
額にびっしりと汗をかき、唱える声が掠れても、けっして諦めようとせず。
やがて力負けしたかのように、グレウスの傷が再生を始めた。
ピリピリとした痛みとむず痒さを伴いながら、爛れて剥き出しだった肉を皮膚が覆っていく。吹き飛ばされて折れた骨が繋がり、裂けた筋肉も元通りに。
しかしグレウスの傷が治るにつれ、魔導師の美貌は生気を失い青白く変わっていった。まるで命の灯をグレウスに注ぎ込むかのようだ。グレウスが回復するほど、魔導師の声は掠れて弱々しいものになっていく。それでも彼は癒しの歌を止めようとはしない。
最後に魔導師は、グレウスの顔の包帯を剥がして額に手を触れた。だが、その表情が苦しげに歪む。
命に関わる負傷を癒すのに、持てる魔力を使い果たしてしまったのだとわかった。
星のように眩しかった煌めきは、もはや小さな雲母のようにささやかなものに変わっていた。時折大きく輝こうとするが、グレウスに触れると儚く消えてしまう。
魔導師はそれでも諦めなかった。肩で息をつき、なおも呪文を唱えようとする。
真っ青になった唇で、玉の汗を浮かべながら。
『も……う……』
グレウスは動くようになった手をどうにか上げて、額にかざされた手をとった。
まだ意識は朦朧としていたが、死力を尽くして命を救われたことだけは理解できた。もう十分だ。
『あり、が、とう……』
顔の火傷が引き連れるのを感じながら、無限の感謝を込めてその手に口づける。
『グレウス……』
黒髪の魔導師は泣きそうな顔で少し笑った。それから――。
『さぁ、もう眠りに就け。眠りから覚めれば、お前はすべて忘れている』
最後に祈るようにそう唱えて、グレウスの目を閉じさせた。
「……あの時、俺を助けてくれたのは貴方だったのか……」
繋いだ手を握り締め、グレウスはまっすぐにオルガを見つめた。
指から流れ込んでくる冷たい痺れにも覚えがある。どうして忘れてしまっていたのかが不思議なほどだ。
オルガは細い眉を片方上げると、不機嫌そうに答えた。
「私以外にお前の傷を治せるほどの術者がいないのだから仕方あるまい。それに命の危機を救うのは、許嫁として当然の責務だ」
「許嫁!?」
思いもかけない単語に、グレウスはオウム返しに叫んだ。
オルガは珍しく『しまった』という顔をすると、慌てて顔を背けてしまった。
「どういうことです!? 俺、俺と、貴方が……!?」
「話は後だ! そら、あれを見ろ。国境が見えてきたぞ」
あからさまに話題を逸らす様子で、オルガが前方を指さした。
そこにはラデナとの国境と思しき深い谷と、両側に砦を備えた橋、そして同じように空の上に浮かぶ三人の男の姿があった。
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