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第二章 とんでもない相手を好きになり
隣国からの来訪者
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実り多い秋は慌ただしく過ぎ、風は日ごとにが冷たさを増していく。
季節が変わっても、グレウスの生活は充実していた。朝晩が冷え込むようになった分、身を寄せ合って眠る温もりはますます心地よく、オルガもまんざらでもない様子で日々を過ごしている。
騎士団長のカッツェが慌てた様子で士官室に飛び込んできたのは、そんな冬の初めのことだった。
「グレウス! グレウスは居るか!」
騎士団長のカッツェは伯爵家の当主でもある。四十代の若さではあるが年齢よりもずっと老成しており、状況の判断が的確で取り乱すことは滅多とない。
そのカッツェが血相を変えて走ってきたので、士官室の空気は緊張を帯びた。
十人近くいる士官たちが席を立って迎える中、カッツェは机を離れて前に出たグレウスに厳しい顔で対峙した。
「拙いことになった。ラデナの王子が乗り込んできたらしい……!」
士官室の中に微かなざわめきが広がった。
だがグレウスには何のことだかわからない。
「ラデナの王子殿下、ですか?」
それがそんなに重大なことなのかと、オウム返しに尋ねる。
男らしい顔に焦燥感を滲ませて、カッツェは重々しく頷いた。
ラデナ王国は、アスファロス皇国の南東側に位置している。
暖かい海に面しており、幾つもの漁港と荒波から守られた大きな貿易港が屋台骨の、小さな商業国家だ。
かつてはここも、アスファロス皇国の領土だった。
その昔、アスファロスは大陸全土を領土とする巨大な大帝国だったが、財力と権力を身に着けた地方領主が半ば造反するような形で独立を果たし、現在は峻険な山々に囲まれた平野部のみがアスファロス皇国の領土だ。
ラデナも同様にして建国された国だった。
現在のラデナ王は、元はと言えばアスファロスの地方領主の一族である。交易などで財を蓄え、幾度も功績を上げて臣籍降嫁を受けたことで、王を名乗るだけの権威を手にして独立を果たした。ラデナ王国は、今ではアスファロスと対等の立場にある友好国という位置づけだ。
グレウスのような平民層にとっては、強かで計算高い商人の国という印象が強い。
「ラデナがどうかしたんですか?」
天才的な魔法の使い手であったオルガが無能者と判定されて以降、国境周辺には小競り合いが頻発している。オルガの魔力は周辺諸国にとって侮りがたい脅威であり、戦争の抑止力にさえなっていたようだ。
しかしそんな中でも、ラデナとの関係はおおむね良好だったとグレウスは認識している。
ラデナとの国境は、峻険な山々と深い谷川に隔てられ、唯一の交易路である橋の両側にはそれぞれの国が砦を築いて国境を守っている。いざという時には橋そのものを落として国境を維持できるので、互いに侵攻しにくく平和を維持しやすかったはずだ。
アスファロスは権威の象徴として、魔導皇の血を引く皇族を何人かラデナに輿入れさせ、海に面したラデナからはさまざまな輸入品が流れてくる。
ディルタスの代になってからは、ラデナとの国交はさらに深まり、技術者などの招聘も進んだと聞いている。
その友好国の王子が『乗り込んできた』というのは、穏やかならない言い方だ。
カッツェはどこから説明したものかと逡巡したようだが、説明よりも対策を優先することにしたらしい。
背筋を伸ばすと、上官としてグレウスに命令した。
「ロア副団長! 本日只今より、貴君には自宅勤務を命ずる! 必要な書類は後程届けさせるので、直ちに城を退出し自宅にて待機するように!」
「はッ! グレウス・ロア、直ちに退出いたします!」
どうやら、グレウスが城に居残っている状態が拙いようだ。
それだけを呑み込んで、グレウスは取るものも取りあえず帰り支度を始めた。と言っても、掛けてあった乗馬用の上着と手袋を身に着けるだけだ。
「正門や貴賓殿の方は通るな。少し遠回りになるが西の通用門から出て、市街を抜けてから帰れ」
「わかりました。そうします」
中隊長以下も事情を把握しており、何も知らないのはグレウスだけのようだ。渡された上着を羽織る暇も惜しんで、士官室を後にする。
冬で良かったとフードを頭から被って顔を隠しながら、グレウスは大股に厩舎を目指した。
幸い、厩舎までの回廊では誰とも行き会わなかった。
もうすぐ昼時で、厩番も持ち場を離れているらしい。無人の厩舎で手早く鞍をつけ、グレウスは忠告された通りに西の通用門から城を出た。
正門がある城の北側は、由緒正しい貴族たちの大邸宅が並んでいる。グレウスに与えられた屋敷があるのも、その一角だ。
反対に、城に奉公する下働きや商人の馬車のための通用門がある西側は、歴史ある大きな商家が軒を連ね、さらに先に進むと平民たちが住む城下の街がある。グレウスの実家があるのもこのあたりだ。
オルガと結婚して以来、グレウスは一度も実家に帰っていなかった。
皇族との婚姻はこれ以上ない名誉ではあるが、基本的に同性婚である。そのため中には相手の元皇族の黙認の元、他所に別宅を持つ不心得な者もいる。
互いに望まぬ政略結婚なのだから仕方がないとも言えるが、万が一そのことが公になれば、『妻』となった元皇族が不名誉をこうむることは間違いない。
グレウスはその疑いを避けるために、仕事が終わればどこにも寄らずに直帰することにしていた。なお、これはオルガを怖れる近衛騎士団の総意でもある。
そういうわけで、グレウスはここのところ実家に顔を見せていなかった。
兵舎の一室を借りていた頃には、月に一度は帰省して仕送りなどもしていたのだが、ここ二か月ほどはそれも途絶えている。
遠回りついでに寄ってみるかと、グレウスは馬の足を向けた。
富裕層の住宅街と下町とは、街を流れる川が区画を分けている。
人通りが多い下町の屋台街に着いて、グレウスは馬から降りた。ここを通るのも久しぶりだ。
グレウスは魔力を全く持たない『無能者』だったのと、幼い頃からとにかく元気で力が有り余っていたため、家業の手伝いはお使いが多かった。
顔馴染みのお使い先では駄賃を貰えることも度々あり、それで屋台の肉の串を買って帰るのが、子どもの頃の一番の楽しみだった。
「親父さん、串を十本ばかり貰えるか」
懐かしくなったグレウスは、実家への手土産にしようと屋台の一つを覗いた。
屋敷では城から紹介された腕利きの料理人が食事を用意してくれるが、たまにはこういった安い肉の味が恋しくなる。
屋台の肉は硬くて噛み応えがあり、臭みを消すためにスパイスをかなり利かせてある。それがまた、肉を食べたという気分にさせてくれるのだ。
「アンタ運がいいよ。ついさっき肉が焼けて店開きしたばかりだ。焼きたてを紙に巻いてやるから待ってな」
「ありがたい。頼むよ」
香ばしい匂いのする肉串が、数本ずつ纏められて持ち帰り用の紙に巻かれていく。
それを見ながら、グレウスは自分の屋敷の分も用意してもらおうと考えた。
急に帰宅することになったので、昼食の用意がないはずだ。
厨房に迷惑を掛けたく無いし、それにオルガにもこの肉の串を見せてやりたい。
お城育ちのオルガには、屋台の肉の味など想像もつかないだろう。
これは人間の食べ物かと、不審そうに見るかもしれない。――と考えたところで、グレウスの脳裏に串にかぶりつくオルガの姿が浮かんできた。
そう言えば昔々に出会った時、グレウスは持っていた焼き肉の串を差し出して求婚したはずだった。
覚えているのは、びっくりしたように赤い目を丸く開いたところまで。その先がどうしても思い出せない。
あの後、オルガはなんと返事をしてくれたのだったか……。
「追加で二本――」
失った記憶に首をひねりながら、追加の串を頼んだとき。グレウスは突然、屋台の前に人がいたことに気が付いた。
「……ッ!?」
剣士でもあるグレウスは、人の気配には敏感な方だ。
客が誰もいない屋台だと思っていたのに、すぐ間近に人がいて、それに気づかなかったことに驚いた。
だがそれ以上にグレウスを動揺させたのは、黒いフードを目深に被った長身の気配に、あまりにも覚えがあったことだ。
「オ……」
まさかそんなことがありえるかと思いながら、顔の見えない相手に声を掛けようとする。
しかしフードの人物はグレウスを避けるように、くるりと身を翻した。
「待ってください、あの……!」
「ちょっと旦那! お代を置いてってくれ!」
離れていく相手を引き留めようとしたが、逆に自分が屋台の主に引き留められた。
財布を出して串の代金を払うころには、黒いフードは雑踏に紛れて影も形もなくなっていた。
そこらを歩く街の人間よりは頭一つ分高かったはずなのに、どこにも見当たらない。
「知り合いでもいたのかい?」
紙に巻いた串を纏めながら、店主が尋ねた。
グレウスはハッとなって、屋台の店主を問いただした。
「今向こうに行った客の顔を見たか? 黒いフードを被った、背の高い……」
「何のことだか……今日の客は旦那が一人目だよ。言っただろ、さっき店を開けたばっかりだって」
「え?」
串の束を渡しながら、店主はさも不思議そうな顔をした。
すぐ前にいたフードの客に、店主は気づかなかったとでも言うのだろうか。
首を傾げる店主の手元には、グレウスが支払ったものとは別に串一本分の小銭が置かれている。どう見てもさっきの客の分だ。
だが、店主の顔つきは嘘を言っているようには見えない。まるで串を売り終えた途端、もう一人いた客の存在を丸ごと忘れてしまったかのようだ。
「……オルガ……?」
雑踏に消えた黒い背中を探すように、グレウスはもう一度街の通りを眺め渡した。
季節が変わっても、グレウスの生活は充実していた。朝晩が冷え込むようになった分、身を寄せ合って眠る温もりはますます心地よく、オルガもまんざらでもない様子で日々を過ごしている。
騎士団長のカッツェが慌てた様子で士官室に飛び込んできたのは、そんな冬の初めのことだった。
「グレウス! グレウスは居るか!」
騎士団長のカッツェは伯爵家の当主でもある。四十代の若さではあるが年齢よりもずっと老成しており、状況の判断が的確で取り乱すことは滅多とない。
そのカッツェが血相を変えて走ってきたので、士官室の空気は緊張を帯びた。
十人近くいる士官たちが席を立って迎える中、カッツェは机を離れて前に出たグレウスに厳しい顔で対峙した。
「拙いことになった。ラデナの王子が乗り込んできたらしい……!」
士官室の中に微かなざわめきが広がった。
だがグレウスには何のことだかわからない。
「ラデナの王子殿下、ですか?」
それがそんなに重大なことなのかと、オウム返しに尋ねる。
男らしい顔に焦燥感を滲ませて、カッツェは重々しく頷いた。
ラデナ王国は、アスファロス皇国の南東側に位置している。
暖かい海に面しており、幾つもの漁港と荒波から守られた大きな貿易港が屋台骨の、小さな商業国家だ。
かつてはここも、アスファロス皇国の領土だった。
その昔、アスファロスは大陸全土を領土とする巨大な大帝国だったが、財力と権力を身に着けた地方領主が半ば造反するような形で独立を果たし、現在は峻険な山々に囲まれた平野部のみがアスファロス皇国の領土だ。
ラデナも同様にして建国された国だった。
現在のラデナ王は、元はと言えばアスファロスの地方領主の一族である。交易などで財を蓄え、幾度も功績を上げて臣籍降嫁を受けたことで、王を名乗るだけの権威を手にして独立を果たした。ラデナ王国は、今ではアスファロスと対等の立場にある友好国という位置づけだ。
グレウスのような平民層にとっては、強かで計算高い商人の国という印象が強い。
「ラデナがどうかしたんですか?」
天才的な魔法の使い手であったオルガが無能者と判定されて以降、国境周辺には小競り合いが頻発している。オルガの魔力は周辺諸国にとって侮りがたい脅威であり、戦争の抑止力にさえなっていたようだ。
しかしそんな中でも、ラデナとの関係はおおむね良好だったとグレウスは認識している。
ラデナとの国境は、峻険な山々と深い谷川に隔てられ、唯一の交易路である橋の両側にはそれぞれの国が砦を築いて国境を守っている。いざという時には橋そのものを落として国境を維持できるので、互いに侵攻しにくく平和を維持しやすかったはずだ。
アスファロスは権威の象徴として、魔導皇の血を引く皇族を何人かラデナに輿入れさせ、海に面したラデナからはさまざまな輸入品が流れてくる。
ディルタスの代になってからは、ラデナとの国交はさらに深まり、技術者などの招聘も進んだと聞いている。
その友好国の王子が『乗り込んできた』というのは、穏やかならない言い方だ。
カッツェはどこから説明したものかと逡巡したようだが、説明よりも対策を優先することにしたらしい。
背筋を伸ばすと、上官としてグレウスに命令した。
「ロア副団長! 本日只今より、貴君には自宅勤務を命ずる! 必要な書類は後程届けさせるので、直ちに城を退出し自宅にて待機するように!」
「はッ! グレウス・ロア、直ちに退出いたします!」
どうやら、グレウスが城に居残っている状態が拙いようだ。
それだけを呑み込んで、グレウスは取るものも取りあえず帰り支度を始めた。と言っても、掛けてあった乗馬用の上着と手袋を身に着けるだけだ。
「正門や貴賓殿の方は通るな。少し遠回りになるが西の通用門から出て、市街を抜けてから帰れ」
「わかりました。そうします」
中隊長以下も事情を把握しており、何も知らないのはグレウスだけのようだ。渡された上着を羽織る暇も惜しんで、士官室を後にする。
冬で良かったとフードを頭から被って顔を隠しながら、グレウスは大股に厩舎を目指した。
幸い、厩舎までの回廊では誰とも行き会わなかった。
もうすぐ昼時で、厩番も持ち場を離れているらしい。無人の厩舎で手早く鞍をつけ、グレウスは忠告された通りに西の通用門から城を出た。
正門がある城の北側は、由緒正しい貴族たちの大邸宅が並んでいる。グレウスに与えられた屋敷があるのも、その一角だ。
反対に、城に奉公する下働きや商人の馬車のための通用門がある西側は、歴史ある大きな商家が軒を連ね、さらに先に進むと平民たちが住む城下の街がある。グレウスの実家があるのもこのあたりだ。
オルガと結婚して以来、グレウスは一度も実家に帰っていなかった。
皇族との婚姻はこれ以上ない名誉ではあるが、基本的に同性婚である。そのため中には相手の元皇族の黙認の元、他所に別宅を持つ不心得な者もいる。
互いに望まぬ政略結婚なのだから仕方がないとも言えるが、万が一そのことが公になれば、『妻』となった元皇族が不名誉をこうむることは間違いない。
グレウスはその疑いを避けるために、仕事が終わればどこにも寄らずに直帰することにしていた。なお、これはオルガを怖れる近衛騎士団の総意でもある。
そういうわけで、グレウスはここのところ実家に顔を見せていなかった。
兵舎の一室を借りていた頃には、月に一度は帰省して仕送りなどもしていたのだが、ここ二か月ほどはそれも途絶えている。
遠回りついでに寄ってみるかと、グレウスは馬の足を向けた。
富裕層の住宅街と下町とは、街を流れる川が区画を分けている。
人通りが多い下町の屋台街に着いて、グレウスは馬から降りた。ここを通るのも久しぶりだ。
グレウスは魔力を全く持たない『無能者』だったのと、幼い頃からとにかく元気で力が有り余っていたため、家業の手伝いはお使いが多かった。
顔馴染みのお使い先では駄賃を貰えることも度々あり、それで屋台の肉の串を買って帰るのが、子どもの頃の一番の楽しみだった。
「親父さん、串を十本ばかり貰えるか」
懐かしくなったグレウスは、実家への手土産にしようと屋台の一つを覗いた。
屋敷では城から紹介された腕利きの料理人が食事を用意してくれるが、たまにはこういった安い肉の味が恋しくなる。
屋台の肉は硬くて噛み応えがあり、臭みを消すためにスパイスをかなり利かせてある。それがまた、肉を食べたという気分にさせてくれるのだ。
「アンタ運がいいよ。ついさっき肉が焼けて店開きしたばかりだ。焼きたてを紙に巻いてやるから待ってな」
「ありがたい。頼むよ」
香ばしい匂いのする肉串が、数本ずつ纏められて持ち帰り用の紙に巻かれていく。
それを見ながら、グレウスは自分の屋敷の分も用意してもらおうと考えた。
急に帰宅することになったので、昼食の用意がないはずだ。
厨房に迷惑を掛けたく無いし、それにオルガにもこの肉の串を見せてやりたい。
お城育ちのオルガには、屋台の肉の味など想像もつかないだろう。
これは人間の食べ物かと、不審そうに見るかもしれない。――と考えたところで、グレウスの脳裏に串にかぶりつくオルガの姿が浮かんできた。
そう言えば昔々に出会った時、グレウスは持っていた焼き肉の串を差し出して求婚したはずだった。
覚えているのは、びっくりしたように赤い目を丸く開いたところまで。その先がどうしても思い出せない。
あの後、オルガはなんと返事をしてくれたのだったか……。
「追加で二本――」
失った記憶に首をひねりながら、追加の串を頼んだとき。グレウスは突然、屋台の前に人がいたことに気が付いた。
「……ッ!?」
剣士でもあるグレウスは、人の気配には敏感な方だ。
客が誰もいない屋台だと思っていたのに、すぐ間近に人がいて、それに気づかなかったことに驚いた。
だがそれ以上にグレウスを動揺させたのは、黒いフードを目深に被った長身の気配に、あまりにも覚えがあったことだ。
「オ……」
まさかそんなことがありえるかと思いながら、顔の見えない相手に声を掛けようとする。
しかしフードの人物はグレウスを避けるように、くるりと身を翻した。
「待ってください、あの……!」
「ちょっと旦那! お代を置いてってくれ!」
離れていく相手を引き留めようとしたが、逆に自分が屋台の主に引き留められた。
財布を出して串の代金を払うころには、黒いフードは雑踏に紛れて影も形もなくなっていた。
そこらを歩く街の人間よりは頭一つ分高かったはずなのに、どこにも見当たらない。
「知り合いでもいたのかい?」
紙に巻いた串を纏めながら、店主が尋ねた。
グレウスはハッとなって、屋台の店主を問いただした。
「今向こうに行った客の顔を見たか? 黒いフードを被った、背の高い……」
「何のことだか……今日の客は旦那が一人目だよ。言っただろ、さっき店を開けたばっかりだって」
「え?」
串の束を渡しながら、店主はさも不思議そうな顔をした。
すぐ前にいたフードの客に、店主は気づかなかったとでも言うのだろうか。
首を傾げる店主の手元には、グレウスが支払ったものとは別に串一本分の小銭が置かれている。どう見てもさっきの客の分だ。
だが、店主の顔つきは嘘を言っているようには見えない。まるで串を売り終えた途端、もう一人いた客の存在を丸ごと忘れてしまったかのようだ。
「……オルガ……?」
雑踏に消えた黒い背中を探すように、グレウスはもう一度街の通りを眺め渡した。
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