王宮に咲くは神の花

ごいち

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最終章 神饌

閉ざされた宮3

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 ――太古の昔。



 豹の神は戦いに敗れ、獣の姿と黄金の瞳を喪って、人へと堕ちた。
 鬣のような黒髪と漆黒の目を持つ偉丈夫に姿を変え、その手に神々の王から下賜された剣と盾とを携えて、豹は自らの治める地に王国を築く。
 腹に呑んだ花の種を守るために。

 豹王の傍には、大きくなった腹を大切そうに撫でる妃たちが仕えていた。
 王と似た面差しと浅黒い肌、黒い髪に黒い瞳を持つ豹神の眷属たち。彼らは、男神の力が眠るこの地に城を構え、男神の血統を守るために血族婚を繰り返した。

 王国が始まった当初、特に血が濃い子らの中には、豹王やその眷属の記憶をそのままに持つ者もいた。
 しかし世代を重ねるうちにその血も薄まってしまい、神話はただの伝説に、記憶は淡く消えゆく夢の一幕へと変わっていく。
 変わらずに残ったのは、王統を守るための掟だけだ。
 ――黒い髪、黒い瞳を持つ者以外を玉座に据えてはならぬ、と。



 テオドールの脳裏に流れ込んでくる記憶は、ここから時代を下っていく。



 ある時代のこと。
 北の大地から花の神々の遠い末裔が、この地に嫁いでやってきた。
 花の女が生んだ子は、産声を上げるなり雪の中に放り出されて死んでしまう。
 けれど、その子の中に眠っていた神なる花の種が、死んだ赤子を宿主として吹きすさぶ雪の中で芽を出した。

 芽吹いた花は成長し、人の姿を借りて青々とした蔓を伸ばし、やがて可憐な蕾を宿す若木となった。
 玉座に就いたウェルディの現身たる王は、若木のために庭を造り、己の側で咲くようにと命じる。その庭で、王は太古の神話と同じように蕾を抉じ開け、花はそれに応えて蜜を零した。

 滴る蜜を存分に啜り、その引き換えに王は大地から取り戻した神の力を花に注ぎ与える。
 地上に祝福を与える神々の王を、再びこの地上に甦らさんがために。

 それから何人もの王が、花を甦らせるために生まれては消えた。
 次の王も、その次の王も――。彼らは内なるウェルディの血に突き動かされるように、花に恋し、その蜜を啜っては消えていく。
 そして――。




 テオドールの意識は、そこからさらに何百年も後の時代を垣間見る。この地に最後の王が現れた時のことを。




 優しげな顔をした女が、二人の赤子に乳をやっている。黒い髪に、暗い色の瞳を持つ男児たち。
 女は自らの子を玉座に就かせようと企み、生まれたばかりの王の子と我が子を取り換えてしまう。
 我が子の瞳だけが、青年に達する頃には明るい榛色に変わることを知りもせず――。

 やがて豹神の血を持たぬ男が玉座に就いた時、宮の扉は蔓に閉ざされ、大地の恵みは気脈を断った。








「わぁあッ!?……どうかお許しをッ! お許しを……ッ!」

 怯え切った悲鳴にテオドールは正気に返った。

 寝室を覗いた兵士たちが両手に抱えた宝を投げ捨てて、後をも見ずに逃げ出していく。
 その後ろ姿が消えるのを見送ってから、テオドールは寝台を振り返った。

 人ならぬ――若く美しい神がそこに居た。

 人と同じ五体を持っていたとて、これを人間と見紛う者は居るまい。
 一目見ただけで、生身の人間には到底持ち得ぬ気品がその正体を物語っている。

 朝の光のように輝く白金の髪。透き通るような白い肌に若木のような伸びやかな肢体。
 そして神々しいまでの高貴な美貌。

 それはまさに花の王とも呼ぶべき、絢爛たる神の姿だった。





 寝台の上に半身を起こした神は、青く澄んだ瞳を開いてテオドールの目を見つめていた。
 額の星青石と同じ色の瞳には、黄金の虹彩が幽かに揺らめいている。その虹彩いろがテオドールにすべてを悟らせた。

「ご寝所をお騒がせして申し訳ございません」

 一歩下がって床に跪き、低く頭を垂れて、テオドールは宮に入り込んだ無礼を詫びた。

 ――伝説に語られる通り、ここは神の住まう宮だった。
 そのことに気づいた者たちは、取るものも取らずに皆逃げ去ったらしい。それもそうだろう。
 テオドールたちはウェルディの末裔と言われた王を殺し、封印された扉を押し破って、財宝を盗み取ろうとこの禁域へ侵入したのだから。

 さらさらと絹が擦れる微かな音が耳に届いた。
 目覚めたばかりの神が白い素足を床に下ろして、寝台から降り立つところだった。
 その姿の優雅さと厳粛さに、テオドールは息をのむ。

 足首に届く長い白金の髪が、窓から差し込む光で虹のように煌めいていた。
 額の宝環と、緩く纏った薄衣以外に身を飾るものは何一つないが、それで十分だ。
 大仰な宝石も金糸の刺繍を施した法衣も、この神には必要ない。
 ただその身がそこにあるだけで、人ならざる者であることを表すのに何の不足もない。

「……アルグレッドは……?」

 風に揺れる鈴のような声だった。テオドールは深く身を折ったまま粛々と答えた。

「ウェルディリアの最後の王として、天に召されております」

「……そう……」

 短い返答にはかすかに憐憫の響きが感じられた。
 ――テオドールは、脳裏に流れ込んできた最後の光景を思い出す。





 どれほど懸命に想いを捧げても、日に日に弱っていく神の化身。
 悲しげに透き通る微笑。
 貴方が悪いのではない――そう語りかける神は、日ごとに眠りの時間が長くなっていく。

 ついに腕の中でその鼓動が止まり、白い体が冷たくなっていくのを感じた時、アルグレッドは真実を悟らざるを得なかった。
 己の中には、ウェルディの血が流れていないのだということを。

 足掻いて、足掻いて。
 血を吐くほどに奔走しても、大地は沈黙したまま。ウェルディリアの民にかつてと同じ恵みを与えることはなかった。制御するものを失ったかのように、荒れ続ける空、海、大地――。

 絶望の中、滅びを覚悟した最後の『王』は薄々気付いていたのだろう。
 自分がいったい誰と取り換えられたのかを――。





「花の御方」

 テオドールは手を伸ばし花神を呼んだ。薄衣の裾を掬い取って、恭しく唇に押し当てる。

 冷たい唇に唇を触れ合わせたその瞬間、流れ込んできた記憶がテオドールに何もかもを悟らせた。
 目の前にいるのは、神々の王ファラスの名を継ぐべき、白い蔓花の王。
 甘やかな蜜を溜めた花弁と、清々しい芳香を放つ青葉を持ち、この地に豊穣の恵みをもたらし続けてきた神なる花だ。

 その神王の側に寄り添うことが許されるのは、尊き黒豹の神ウェルディの末裔だけ。
 王家の男たちは大地に散ったウェルディの力を吸い上げ、それを神に捧げる役目を担う。一度は喪われた神の花を、もう一度この地上で咲かせるために。
 それができるのは、ウェルディの血を受け継ぐ者だけだった。

「長い間お傍を離れ、申し訳ありませんでした」

 テオドールは深々と首を垂れ、神に奏上する。

 ウェルディリア王国の最後の『王』は世を去ってしまったが、――ウェルディの血統を正しく継ぐ者は、まだここに残っていた。
 テオドールの体内を巡る血が、自らが名乗るべき名を教えた。

「どうか、これよりは私を『ジハード』とお呼びください」

 黒い瞳を持つ若者は、神の前に進み出て自らの運命を選び取った。




 歴代の王たちと同じだ。
 一目その姿を目にしただけで、テオドールの魂は花の蔓に絡め取られてしまった。
 体の中に眠るウェルディの血が騒ぎたてる。――この花を我が物にせよ、そして力を捧げよ、と。

「ジハード……」

 神が名を呼んだ。遠い昔を懐かしむように。
 テオドールは今しがた見てきた記憶を反芻する。

 かつて、この神にも自らを人間だと信じる時代があったのだ。
 その時代に神を愛し、神に愛された唯一の伴侶の名。それが、後に身を捧げる者――神饌しんせんの呼び名となった。
 『ジハード』を名乗る者だけが、神に触れることを許される。そうして命の限り神を愛し、神の血肉となることを許されるのだ。





 顔を上げて見上げるテオドールの前に、優美な白い手が差し出された。

「新たなるジハード……私は貴方のものです」

 王たちの命を刈り取ってきた白い御手。
 その手をテオドールは敬意とともに両手で預かり、手の甲に忠誠の印を落とした。
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