王宮に咲くは神の花

ごいち

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第五章 王宮の花

上王の肖像

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 午前の謁見を終えたジハードは、足早に大広間を後にした。
 次に予定している会議の時刻まで、少しの余裕がある。その足は迷いもなく、宮殿の最奥にある小さな宮へと向かっていた。

 今日は白桂宮に絵師が来るはずの日だった。
 絵が仕上がるはまだ先のはずだが、どのように描かれているか見ておきたいと、ジハードは足を急がせる。
 だが光射す白桂宮のホールへと辿り着いた時、ジハードを待っていたのは描きかけの肖像画と、魅入られたようにそれを見つめる絵師の姿だけだった。

 空の椅子に豪奢な毛皮の外套を置いたまま、寸暇を惜しんで会いに来た相手は姿を消している。
 描かれているところを見たかったのにと思いつつ、ジハードは絵師の背中越しに絵を確かめた。



 肖像画は八割がた完成といったところだった。
 金と宝石で飾られた重厚な玉座に、一人の青年が浅く腰を掛けている姿だ。
 典雅に整った貌は白い頬に青い目、その肩から流れ落ちる髪は白金。若々しい細身の体に纏うのは儀礼用の礼装だ。
 格式高い衣装は、この国の国王が纏うべき正装を、細身の体形に合わせて少しばかり簡略化したものだった。色は瞳の色に合わせた深い青と透き通るような白を用い、そこに流麗な金糸模様が刺繍されている。
 見る者が見れば、その紋様はウェルディス王家とファラスの紋章を組み合わせたものだということがわかるはずだ。

「進み具合はどうだ?」

 ジハードが声をかけると、絵師はハッと正気に返って、慌てて絵の前から立ち上がった。
 見入るあまりに、国王が来たことにさえ気づいていなかったようだ。

「満足いく出来になりそうか」

 王の問いかけに、まだ若い絵師は苦渋を滲ませた顔で俯いた。

「……今の私では、王兄殿下のお姿をありのままに写し取るには力不足のようです」

 悔しそうな声が俯いた絵師の口から発される。
 ジハードはもう一度絵に目を向けた。



 等身大の絵の中からは、美貌の主がこちらを向いて微笑みかけていた。
 若い貴人の姿だ。ハッとするほど美しく、身分に相応しい気品も感じられる。――だが残念なことに、それらは実物には遠く及ばなかった。

 描かれるべき相手は、ただ美しいだけの人物ではないのだ。
 戦神の末裔であるウェルディス王家と、地上から消えた神秘の北方王朝。二つの類稀なる高貴な血によって生み出された奇跡は、花よりも麗しい姿と理知的で慈愛深い為政者の顔を持っている。

 間近で相対すれば、誰もが魅入られたように言葉を失い、自然と膝を突かずにはいられないだろう。
 顔をあげて目を向ければ畏れ多さに胸が早鐘を打ち、穏やかな声に耳をくすぐられると全身が震えを放って止まらなくなってしまう。
 そうして挨拶一つできずに蹲る者たちを、ジハードは何人も目にしてきた。

 何者にも侵しがたいその品格は、実際に対峙した者以外には想像もつかないに違いない。ましてや、それを紙の上に写し取ろうというのは無謀な試みとも言えた。

 重責に肩を落とすまだ若い絵師を、ジハードは少々の憐みをもって見下ろした。

「――御使いを描くのだと思え」

 力不足を嘆く絵師に、この麗人を最も近くで見つめ続けた国王は助言した。

「王を描こうと思うな。天から降りてきたばかりの御使いを描くつもりで、筆を滑らせてみるがいい。人ならぬ、尊き神への畏敬を描き出すのだと思って」

「は……ッ!」

 ジハードの言葉に小さく身を縮めて首肯した絵師は、考えこむように再び絵に向き合った。
 それを見ながら、ジハードは踵を返す。
 会議が始まる時刻は刻一刻と迫っているが、ここまで来た以上、会わずに戻るという選択肢はもう存在しなかったからだ。




 侍従の案内で、ジハードは中庭に足を向けた。
 退屈した幼い王子が遊びに行きたがったので、息抜きを兼ねて中庭を回っているのだと聞いたのだ。

 王都の短い秋は終わりを間近に控え、足元には赤や黄色に染まった葉が散っている。
 落ち葉が一面に広がるさまを、宮の主は天から贈られた織物のようだと愛でた。そのせいで、石畳の上以外は掃き清められずにそのままだ。
 ホールから離れた裏側に回ると、幼子のはしゃぐ声が聞こえた。

「ラナダーン王子、そんなに急ぐと足元が滑りますよ」

 木々のアーチの向こうから柔らかに忠告する声が聞こえてきた。次いで、楽しそうな幼児の笑い声が。
 ジハードは顔を綻ばせて、手を繋いで歩く二人の姿を後ろから眺めた。

 二歳の誕生日を過ぎたばかりの息子は、小さな手に白く優美な指を握り締め、まだ覚束ない足取りで懸命に歩いている。時折傍らを見上げる顔は紅潮して、嬉しさが溢れてくると言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。
 対する傍らの人物は、礼装の裾が汚れぬよう片手で軽く持ち上げながら、身を屈めて小さな王子と手を繋ぎ、柔らかな笑みを見せている。
 その微笑は慈しみと愛情に満ちていて、ジハードの胸を少しばかり焼き焦がした。

「あ! ちちうえ!」

 追いついてきたジハードに、幼い王子が先に気づいた。
 父の姿を発見して走り寄ってくるかと思いきや、王子はまるで傍らの人を独占するかのように、目の前の足に全身でしがみついた。
 ぷっと膨れた頬に、ジハードは思わず苦笑いを零す。

「足を離してください、ラナダーン。転んでしまいます」

 急にしがみつかれた相手が困惑の声を上げたが、小さな王子は所有権を示すかのように口を尖らせて離そうとしない。
 どうやら父王に張り合うつもりらしい。生意気なことだ。
 小さいくせにいっぱしの目利きだと呆れながら、ジハードは大股で二人に近寄り、我が子の黒髪をくしゃくしゃと混ぜた。

「父は伯父上と話がある。お前はフラウと一緒に、先に行っていなさい」

「参りましょう、ラナダーン殿下。お父上は大事なお話がおありですからね」

 ジハードの言葉を受けて、側に付き従っていたフラウが王子の体をひょいと抱え上げた。有無を言わさず庭の奥へと連れていく。母親を知らない小さな暴君の扱いにもすっかり慣れた様子だ。
 何か必死で抗議しているらしい王子の声を聞きながら、ジハードは探し求めた麗人の傍らに寄り添った。

「……今日も綺麗だ」

 何か気の利いたことを言おうと思ったのに、使い古した陳腐な褒め言葉しか出てこない。
 本人にはあまり自覚がないようだが、宮廷絵師が自らの描いた絵にさえ魅入られるほどの美しさなのだから、それを褒め称えずにいることなどできるはずがないのだ。
 ことに、光の下で見るジハードの伴侶は常にもまして輝かしかった。

 海よりも深い青をした双眸は、日射しを受けて金泥の虹彩がさらに鮮やかに見える。瞳を縁取る長い睫毛も、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
 そばかす一つない肌は磁器のように滑らかで、暗い室内よりも一層その白さや肌理の細かさがよくわかる。
 肩から流れ落ちる豊かな髪は、光輝く滝となって細身の体を守るように包み込んでいた。

 職人が丹精込めて仕立てた重厚な衣装も、額を飾る星青玉の金の環も必要ない。
 ただそこにあるだけで誰もが振り返り、感嘆の息を漏らし、膝を突いて恭しく仰ぎ見ずにはいられないのだから。
 ――ウェルディリアで初となる、金の髪の王を。




 春が来れば、ウェルディリアは史上初となる二君主制を敷くことになる。
 今描かせている肖像画は、歴代の王の絵姿を掲げた広間に飾るためのものだった。

 第三十二代国王ジハード・ハル・ウェルディス。そして、初代上王シェイド・ハル・ウェルディス。
 二人の王によって治められるこの国は、古き慣習を撤廃して生まれ変わる。
 髪の色や目の色に関わらず、すべての民が等しく国民として守られる国へ。
 ウェルディの民もファラスの民も、ともに手を携えて生きていく国へと、変わっていくのだ。




「上王礼装も良く似合っている。何度目にしても、地上に降り立った御使いそのものにしか見えないな。これほどに美しい王を戴けるとは、ウェルディリアの民は一人残らず果報者だ」

「ジハード」

 上王という新たな地位のために特別に作らせた礼服は、すらりとして中性的な肢体を包み込み、厳かにも神秘的にも見せていた。
 臆面もなく褒めちぎるジハードに、困ったような笑みが向けられる。
 その表情が幼い王子に向けられたものと変わりない気がして、臍を曲げた国王は、細身の体をぐいと自分に引き寄せた。
 柔らかな髪を鼻先で掻き分け、白い耳朶に唇を寄せて囁く。

「だが本当の果報者は俺だけだ。何も身につけぬ方が美しいと知っているのは、俺だけなのだからな」

「ジハード……」

 白い耳朶がほわりと赤みを帯びた。
 清廉なばかりだった横顔に、匂い立つような恥じらいの色が滲み出す。

「明るい陽の光の下で、その姿を見たいものだ。……俺だけの姿を」




 いつの間にか侍従たちは姿を消していた。余人がここへ足を踏み込まぬよう、人払いをしに行ったのだろう。ならば、遠慮はいらない。
 予定していた会議にはほんの少し遅れるだろうが、ほんの少しだ。有能すぎる腹心がうまく誤魔化してくれるだろうから、このまま出席せずにいたところで大きな支障はないに違いない。きっとそうだ。

「さぁ、見せてくれ。シェイド……」

「……ぁ……ジ、ジハード……こんな、ところで……ッ…………んっ……」

 舞い落ちる紅葉の中、甘い吐息が大気を震わせた。
 地上に降りた神の使いは、ジハードの前でだけ満開の花へと姿を変える。
 その花芯からたっぷり蜜を啜ってやろうと、ジハードは幾重にも重なった花弁に手をかけ、それをゆっくりと剥いでいった――。
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