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第五章 王宮の花
策士の罠
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「――やっと言ったな、この強情者め!」
詰めていた息を吐き出して低く唸りながら、ジハードが上半身を起こした。
床に投げ出されそうになった体を、伸びてきた力強い腕が支える。膝の上に抱き上げられて、シェイドはこちらを見つめるジハードを呆然と見上げた。
目の下に隈を作り、頬が少し窶れていたが、どう見てもジハードは生きていた。
そしてシェイド自身もまた、体が自由にならないだけで命を失ってはいないらしい。
状況が全く理解できないでいるシェイドに、ジハードはからくりの種を明かした。
「お前が飲んだのは馬を手当てするときに使う鎮静剤だ。あと半日ほどは痺れが残って満足に動けやしないぞ」
だらりと脱力したままの身体を抱えて、ジハードは言った。
――鎮静剤……。
勿体ぶった様子で薬を出したサラトリアの顔を、シェイドは思い返した。
確かに彼は毒薬だとは言わなかった。
苦しまず、安らかに眠れる薬だと言ったのだ。
サラトリアがそういう人間だと知っていたはずなのに、また騙されたのだ。
シェイドが薬を残らず飲んだ時の慌てようも、あれもすべて芝居だったに違いない。
誰のために死ぬのかと問われ――。
ジハードの名を口走った記憶が、微かにある。
「俺が死んだと思って肝が冷えたか」
ファルディアでのやり取りを振り返るシェイドを、黒々とした瞳が見据えていた。
苦悩と狂おしいほどの情熱、そして怒りを湛えて。
「……同じ思いを、また俺にさせるつもりか。それで俺が幸せだと、まだ思うのか」
「…………」
数瞬前に味わった絶望と後悔がシェイドの胸に蘇った。
あんな苦しい思いを、ジハードに味合わせてしまったのか。
シェイドは瞬きもせずにジハードを見上げた。力の入らない手を伸ばしジハードに触れようとする。
それに気づいたジハードは、手を取って自分の首筋に触れさせた。
ジハード……。
声にならない声で、シェイドはその名を呼んだ。
温かい首筋に、確かに力強い命の脈動を感じる。――ジハードが生きている。生きて、ここにいる。
これ以上に嬉しいことも望むこともない。命は何にも代えがたいのだから。
微かに首を横に振ったシェイドを見て、ジハードの視線が和らいだ。
安堵したような溜息が漏れ、少し痩せた顔に笑みが浮かんだ。
「……謀るような真似をして、申し訳ございません」
傍らから届いた声に視線を向けると、ニコが大きな体を叶う限り小さく縮めて床に平伏していた。
砦の坑道で命を失ったとばかり思っていたが、生き延びて国王の麾下に入っていたらしい。
宮の奥からサラトリアとフラウが出てくるのも見えた。
「私は謝罪は致しませんよ。貴方様には真実しか申しておりませんから」
落ち着き払った声とともに、サラトリアが傍らにふわりと膝を突いた。ファルディアへの長旅の疲れなど微塵も感じさせない、目が覚めるような貴公子ぶりだ。
端正に整った口元に悪戯めいた笑みが浮かんだ。
「息絶えたかと思うほど、安らかにお眠りになれたでしょう。私が貴方様を背に負って、馬で一昼夜かけて神山を踏破する間も良くお休みでした。実に可愛らしい寝顔でしたよ」
平然と言い放つサラトリアに、シェイドは果たして怒っていいのか礼を言うべきなのか分からなくなった。
あの時、誰のために死ぬのかという問いにシェイドは答えてしまった。この青年はそれを聞き、意識を無くした自分を背負って神山の厳しい峰を越えたのだ。
もしもあの問いに答えなければ、王都に戻ってくることはなかったのだろうか。
――いや、サラトリアは初めからこうするつもりで、山岳に強い騎馬部隊を揃えてきたはずだ。そうでなければ、あの険しい山を越えることなどできないからだ。策士と評するより他ない。
言葉を詰まらせるシェイドに、サラトリアは蕩けるような甘い微笑みを浮かべて見せた。
「私が貴方様をお慕いしているという話も真実ですよ。私の手を取ってくださるのなら、いつでも喜んでヴァルダンにお迎えいたします。私の伴侶の席は永遠に貴方様のために空けてありますし、後継ぎを作る必要もございませんから」
「やめておけ」
ジハードが腕の中のシェイドを慌ててサラトリアから遠ざけた。
「あいつはとんでもない大悪党だぞ。言っておくが、グスタフの砦に戻って以降の計画はすべてあいつが立てたのだからな。悪知恵が働きすぎて油断も隙もない。あんな奴の側に居ると気が休まる時がないから、俺にしておけ」
言いざま、ジハードはシェイドを抱いたまま立ち上がった。
「――亡くなられたファルディア公は、先王の長子を産んだ栄誉を称えて王家の墓所に埋葬することにした。この鐘はそのための弔いの鐘だ。明日の正午に大神殿で葬送の儀を執り行う。……だからそれまでの間、お前には自分の役割を果たしてもらうぞ」
脱力してしがみつくこともできないシェイドを壊れ物のように抱き、ジハードは白桂宮の内へと足を向けた。
フラウが扉を開き、恭しく頭を下げている。
その前を通り過ぎて廊下を歩きながら、ジハードはシェイドの耳朶に唇をつけて囁いた。
「……まずは俺の生涯の伴侶であることを思い出してもらおうか」
詰めていた息を吐き出して低く唸りながら、ジハードが上半身を起こした。
床に投げ出されそうになった体を、伸びてきた力強い腕が支える。膝の上に抱き上げられて、シェイドはこちらを見つめるジハードを呆然と見上げた。
目の下に隈を作り、頬が少し窶れていたが、どう見てもジハードは生きていた。
そしてシェイド自身もまた、体が自由にならないだけで命を失ってはいないらしい。
状況が全く理解できないでいるシェイドに、ジハードはからくりの種を明かした。
「お前が飲んだのは馬を手当てするときに使う鎮静剤だ。あと半日ほどは痺れが残って満足に動けやしないぞ」
だらりと脱力したままの身体を抱えて、ジハードは言った。
――鎮静剤……。
勿体ぶった様子で薬を出したサラトリアの顔を、シェイドは思い返した。
確かに彼は毒薬だとは言わなかった。
苦しまず、安らかに眠れる薬だと言ったのだ。
サラトリアがそういう人間だと知っていたはずなのに、また騙されたのだ。
シェイドが薬を残らず飲んだ時の慌てようも、あれもすべて芝居だったに違いない。
誰のために死ぬのかと問われ――。
ジハードの名を口走った記憶が、微かにある。
「俺が死んだと思って肝が冷えたか」
ファルディアでのやり取りを振り返るシェイドを、黒々とした瞳が見据えていた。
苦悩と狂おしいほどの情熱、そして怒りを湛えて。
「……同じ思いを、また俺にさせるつもりか。それで俺が幸せだと、まだ思うのか」
「…………」
数瞬前に味わった絶望と後悔がシェイドの胸に蘇った。
あんな苦しい思いを、ジハードに味合わせてしまったのか。
シェイドは瞬きもせずにジハードを見上げた。力の入らない手を伸ばしジハードに触れようとする。
それに気づいたジハードは、手を取って自分の首筋に触れさせた。
ジハード……。
声にならない声で、シェイドはその名を呼んだ。
温かい首筋に、確かに力強い命の脈動を感じる。――ジハードが生きている。生きて、ここにいる。
これ以上に嬉しいことも望むこともない。命は何にも代えがたいのだから。
微かに首を横に振ったシェイドを見て、ジハードの視線が和らいだ。
安堵したような溜息が漏れ、少し痩せた顔に笑みが浮かんだ。
「……謀るような真似をして、申し訳ございません」
傍らから届いた声に視線を向けると、ニコが大きな体を叶う限り小さく縮めて床に平伏していた。
砦の坑道で命を失ったとばかり思っていたが、生き延びて国王の麾下に入っていたらしい。
宮の奥からサラトリアとフラウが出てくるのも見えた。
「私は謝罪は致しませんよ。貴方様には真実しか申しておりませんから」
落ち着き払った声とともに、サラトリアが傍らにふわりと膝を突いた。ファルディアへの長旅の疲れなど微塵も感じさせない、目が覚めるような貴公子ぶりだ。
端正に整った口元に悪戯めいた笑みが浮かんだ。
「息絶えたかと思うほど、安らかにお眠りになれたでしょう。私が貴方様を背に負って、馬で一昼夜かけて神山を踏破する間も良くお休みでした。実に可愛らしい寝顔でしたよ」
平然と言い放つサラトリアに、シェイドは果たして怒っていいのか礼を言うべきなのか分からなくなった。
あの時、誰のために死ぬのかという問いにシェイドは答えてしまった。この青年はそれを聞き、意識を無くした自分を背負って神山の厳しい峰を越えたのだ。
もしもあの問いに答えなければ、王都に戻ってくることはなかったのだろうか。
――いや、サラトリアは初めからこうするつもりで、山岳に強い騎馬部隊を揃えてきたはずだ。そうでなければ、あの険しい山を越えることなどできないからだ。策士と評するより他ない。
言葉を詰まらせるシェイドに、サラトリアは蕩けるような甘い微笑みを浮かべて見せた。
「私が貴方様をお慕いしているという話も真実ですよ。私の手を取ってくださるのなら、いつでも喜んでヴァルダンにお迎えいたします。私の伴侶の席は永遠に貴方様のために空けてありますし、後継ぎを作る必要もございませんから」
「やめておけ」
ジハードが腕の中のシェイドを慌ててサラトリアから遠ざけた。
「あいつはとんでもない大悪党だぞ。言っておくが、グスタフの砦に戻って以降の計画はすべてあいつが立てたのだからな。悪知恵が働きすぎて油断も隙もない。あんな奴の側に居ると気が休まる時がないから、俺にしておけ」
言いざま、ジハードはシェイドを抱いたまま立ち上がった。
「――亡くなられたファルディア公は、先王の長子を産んだ栄誉を称えて王家の墓所に埋葬することにした。この鐘はそのための弔いの鐘だ。明日の正午に大神殿で葬送の儀を執り行う。……だからそれまでの間、お前には自分の役割を果たしてもらうぞ」
脱力してしがみつくこともできないシェイドを壊れ物のように抱き、ジハードは白桂宮の内へと足を向けた。
フラウが扉を開き、恭しく頭を下げている。
その前を通り過ぎて廊下を歩きながら、ジハードはシェイドの耳朶に唇をつけて囁いた。
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