王宮に咲くは神の花

ごいち

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第四章 三人目のハル・ウェルディス

三人目のハル・ウェルディス

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 与えられた固いパンを、石造りの壁の欠けたところを使って割る。
 日持ちがするように乾燥させたパンは、まるで石か粘土を噛むようだ。口の中でゆっくりと唾液をしみ込ませ、柔らかくなってから咀嚼して飲み込む。
 王宮で出されていたものに比べれば、味わいも甘みもないが、命を繋ぐ役目は果たしてくれる。シェイドは床に落ちたパンの屑を掻き集めて、板で塞がれた窓の隙間に撒いておいた。

 暫くすると掌ほどの大きさの隙間から鳥たちが姿を現し、そのパン屑を啄み始めた。
 寝台に腰かけてパンの残りを口に入れながら、シェイドは小鳥を脅かさぬよう静かに息を吐いた。

 この部屋に閉じ込められて四日ほどになる。

 元は砦の将校の部屋だったらしく、広めの部屋には様々な調度の痕跡があったが今は何もない。壁の一方に据え置いた寝台が残されているだけだ。
 すべての調度は運び去られ、三つある窓の内二つは、外の景色が見えぬよう板で完全に塞がれている。残る一つは風と光を通すために僅かな隙間が残されていたが、外を覗いても山の木々が見えるだけだ。

 窓は城壁の高い場所に在り、例え板を外すことに成功してもここから飛び降りることはできそうになかった。





 この部屋でシェイドに与えられたのは古びた大きな寝台と掛布、防寒のための毛皮が一枚だけだった。その他にはシャツ一枚ないため、シェイドは掛布を裸に巻きつけ、上から毛皮を羽織って寒さをしのいでいた。

 食事は一日一度か二度。保存用に作られた固いパンが一つと椀に入った水、それに時折火を通した豆か芋が添えられるだけの質素なものだ。持ってくるのは決まってあのニコという名の大男だった。

 少しでも状況を知りたくて、助けてもらった礼を口実に話しかけてみようとするのだが、ニコは極端に無口な男らしく、返事をする以外に声を発さない。
 それにシェイドの方も他人との会話は不得手だったので、試みはうまくいきそうにもなかった。

 日付を忘れないために、朝目覚めるたびに石壁の欠片で板に傷をつけている。四度目の朝が巡り、ところどころ焼け焦げた髪は不揃いなままだが、体についた傷は癒えつつあった。
 国王は果たして無事なのだろうか。窓の隙間からは塔の影すら見ることはできない。

 不意に明るい鳴き声が聞こえて、シェイドはハッと顔を上げた。
 昨日までは見なかった、鮮やかな瑠璃色の羽をもつ鳥が窓辺を訪れていた。――シェイドが待っていたものだ。

「チチチ……チチ……」

 鳥の声を真似て呼ぶと、小鳥は人間を怖れる様子もなく部屋の中に入り込み、シェイドの肩に止まった。掌にパンの欠片を載せると、少し大きなそれを啄ばもうと無邪気に格闘を始める。
 この鳥は、ミスル離宮の温室で見かけた鳥たちのうちの一羽だった。

「……チチチ……チチチチ……」

 鳴き真似すると小首を傾げながら嘴を近づけてくるのが愛らしい。
 人の手から餌をもらうことを知っている鳥は、膝の上に置いたパンの欠片を見つけ、のんびりとつつき始める。それを微笑ましく見ながら、シェイドは髪の束を細くとって歯で噛み切った。

 絹のように細く癖の少ない髪は、日に透かすと純白に見えるほど色がない。それを短く束ねて環を作り、餌に夢中の小鳥の足に結わえ付ける。美しい羽根を持つ鳥は特に気にする様子もなく、金糸の飾りを足に結ばせてくれた。

 一欠片分のパンを食べ終えると、満足したらしい小鳥は窓から去っていく。
 願わくば離宮に戻り、ここに囚われていることを誰かに知らせて欲しいと願いながら、シェイドは空に飛び立つ鳥の姿を見送った。




 窓の隙間から名残惜し気に空を眺めていると、隣の部屋に人の気配が感じられた。
 ここは続きの間になっていて、城砦の通路との間には執務室として使われたらしい一室がある。
 シェイドは足音を立てないよう素早く寝台に戻ると、体に毛皮を巻き付け直して唯一の出入り口である扉を見つめた。ニコがいつも食事を持ってくる時間にはまだ早い。

 樫の木で作られた頑丈な扉には、外から錠がかかっている。
 それが外される音が聞こえ、次いでゆっくりと扉が開いた。
 姿を見せたのはここ数日で見慣れた巨漢だ。だが今日はその後ろにもう一人の人物が続いた。

「陛、下……」

 思わず立ち上がって呼びかけそうになったが寸前で思いとどまった。よく似ているが別人だ。

 入ってきた男はそれを見て苦笑を漏らした。

「それほど似ているか」





 ゆったりとした様子で入ってきたのは、国王ジハードに酷似した長身の男だった。
 確か、ラナダーン・ハル・ウェルディスと名乗った男だ。年齢はジハードより一回り程も上だろうか。

 『ハル』は、ウェルディス王家直系に生まれた第一王子にのみ与えられる尊称である。
 ジハードは宮内府にシェイドの血統を認めさせた際に、その名に『ハル』の尊称を加えた。これは異例のことだ。

 王太子の座を約束された『ハル・ウェルディス』が二人。――そして今ここに、三人目の『ハル』の名を持つ男が立っていた。

 戦神ウェルディを彷彿とさせる、鋭く整った野性的な容貌。
 良く鍛えられた肉厚の長身。低く落ち着いた声。
 黙って並んでいたとしても、ジハードとこの男が兄弟であることは疑いようがない。
 壮年期に足を踏み入れている男とジハードに、年齢以外に違いがあるとすれば、それは髪と瞳の色だった。
 夜に見かけた時には気づかなかったが、ジハードのそれが闇夜の漆黒であるのに対し、この男は暗い褐色の髪を持ち、瞳の色はそれよりも幾分明るい茶色をしている。異民族の血が混ざっているのかもしれない。

「お前は、私たちとは全く似ても似つかないな。完全に北方人ではないか」

 ニコが持ち込んだ椅子に腰を下ろして、ラナダーンと名乗った男が嘲るように言った。鳩尾の辺りが緊張でぎゅっと締まるのをシェイドは感じたが、それを表情には出さなかった。
 王宮勤めをしていた頃のように、何を言われても動じぬよう表情を凍り付かせる。息を一つ吸って、低く強い声を出した。

「貴方がどのように思おうと、私が国王陛下の兄であり、第一王位継承権を認められている事実は揺るぎません」

 そうだ、交渉するための手持ちの札はこれ一枚しかない。
 シェイドは怖気づきそうになる自分を叱咤した。虫けらのように無為に殺されたくなければ、孔雀が羽を広げるように自分を強く大きく見せなければならない。
 男がそれを聞いて鼻で嗤った。

「こんな無様な王位継承者がいるものか。それにお前はあの男よりもずっと年下だろう」

 嘲弄するように言いながらも、ラナダーンは席を立とうとはしない。シェイドの持つ手札を頭から否定することはできずにいるのだ。
 その感触に力を得て、シェイドは尊大に顔を上げた。

 裸の身体には掛布を巻き付けただけ。顔も手足も痣だらけの上、髪は不揃いに焼け焦げている。
 顔と髪が白くなくとも、これ以上ないほど惨めで無様な姿だ。けれど委縮して黙っていては何もかも奪われるだけだ。

「私たちは年齢より若く見られるようですから、疑われるならお調べになると良いでしょう。私の母はベレス王の妾妃エレーナ・ファルディア。王宮の記録にも、宮内府の系譜にもはっきりと記されていることです」

 ――貴方が王宮に入れるものならば。
 言外にそう告げたシェイドに、ラナダーンがピクリと眉を寄せた。誰にも認められぬ日陰者はそちらの方だとの皮肉が通じたようだ。

「王位継承者の額環もないのにか?」

 ラナダーンの問いにシェイドは意識して口を結ぶと、答えを与えず沈黙を守った。





 一体何が幸いするかわからないものだ。
 あの時、白桂宮を追放されるのだと思ったシェイドは、寝室に王妃の指輪と王位継承者の額環を置き去りにしてきた。
 もしもそれを身に着けていたなら、シェイドは疾うに抹殺されていたことだろう。
 ラナダーンはジハードの命をも奪い、額環を手に『我こそは第一王位継承者のシェイド・ハル・ウェルディスだ』と名乗りを上げて出てゆけばよい。
 サラトリアがなんと叫ぼうと、旧国王派はこぞってラナダーンの足元に擦り寄り、己こそが新王権の下で甘い汁を吸おうと担ぎ上げたに違いないからだ。

 あの額環は白桂宮の中にある。
 鍵はグスタフの砦に逃げ込んだフラウが持って行ったし、国王の身分を表すジハードの指輪も領兵を動かすためにフラウが持ち去った。
 彼さえ無事に逃げきれていれば、当面この二つの至宝が敵の手に落ちる心配はなかった。

「お前の手には余る品だ、北方娼婦。大人しく私に献上せよ」

 蔑みの籠った声が低く恫喝した。
 怒りを抑え込むような低い声はますますジハードに似ている。シェイドは睨み据えてくる栗色の瞳から目を逸らさず、迎え撃つように視線を合わせた。

 額環の在り処を教えるわけにはいかない。ラナダーンがそれを手に入れれば最後、彼にはジハードとシェイドの二人を生かしておく理由がなくなるからだ。
 それだけは、何としても回避しなくてはならない。
 額環という餌を目の前に見せつけながら、少しでも状況が有利になるように運ばなければならなかった。そのためにはまず、ラナダーンとは対等の立場でなければ。

「北方娼婦と呼ぶのはおやめください。私は歴とした――」

「娼婦でなければ犬と呼んでやろうか! 身の程知らずの北方奴隷め!」

 突然、雷が落ちるようにラナダーンが叫び、椅子を蹴立てて飛び掛かってきた。

 掛布を巻き付けただけの不自由な姿では逃げる暇もなかった。大きな手に喉を一掴みにされ、そのまま寝台の上に倒れ込む。ギリギリと片手で絞めあげられて息もできない。
 もがいて両手でラナダーンの手を引き剥がそうとするが、指は万力のように喉に食い込み、叩こうが爪を立てようが、上から押さえ込んだ腕は揺るぎもしなかった。

「……ハ、ッ……ッ、!」

 血を堰き止められた顔が真っ赤に腫れあがり、目の前が黒く染まっていく。
 いっそこのまま殺してくれればいい。そう願いそうになる頭の片隅に、宝物のようにシェイドを抱き寄せた国王の面影が蘇る。

 ――まだ、死ねない。あの方の無事を確かめるまでは……。

 だが、シェイドが望むと望まざるとに関わらず、首を扼する手の力は緩むことがなかった。
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