王宮に咲くは神の花

ごいち

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第三章 ミスル離宮

生まれた日

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 ジハードは背を伸ばし、顔を上げた。
 ここへ連れてきたのは、シェイドを死なせるためではない。伝えなければならないことがある。

 軽く息を吸うと、ジハードは天地にあまねく宣言するように、力強く声を発した。

「誰にも望まれずに生まれてくる人間などいない。お前は父母に望まれてこの世界に生まれてきた。その花も、北方人たちも、誰かに望まれたからこそ生まれてきたんだ。全ての命はただ一つの例外もなく、全て神から祝福されるべきものだ」

 ジハードは足を一歩踏み出した。
 怖れるようにシェイドが一歩後ずさる。鋏を握る手に力がこもったが、ジハードは頑なな心を解きほぐすように、シェイドを見つめて笑みを浮かべた。

 それを目にしたシェイドに迷いが生じたのを確かめて、ジハードは内心で小さな安堵の息をつく。
 頭布で自らを外界から遮断していた頃のシェイドではもうない。白桂宮での三カ月は無駄ではなかった。
 今シェイドはジハードの言葉を聞き、ジハードの姿を見てくれている。

 確信を得て、ジハードは生け垣の花を指し示した。

「この花ももう禁種ではなくなった。毒だと言われていた蜜は、痛みを和らげるための薬になる。医術に欠かせぬものであることを証明して、二年前に禁種は解かせた」

 まだ王太子だった時代に、ジハードは他国に薬師を派遣して『シェイド』の毒について綿密に調べさせた。その結果、人を虜にして廃人にすると言われた毒は、適量を与えれば苦痛を散らす薬となり、これを用いることで多くの医術を試みることができるとわかった。
 そもそもこれを使った王族が命を落としたのは、研究が不十分なまま、痛みを消すために過剰な量を用いたのが原因だ。

 百五十年前の王は、花を根こそぎ焼き払って封印するのではなく、その恩恵を安全に得られるように研究を進めさせるべきだったのだ。

 禁種の指定を解いたからこそ、この離宮には庭園を埋め尽くさんばかりの『シェイド』が花を開かせている。
 ここから運ばせた茎が、白桂宮の湯殿を豊かな芳香で満たしてくれた。茎には心を落ち着かせ、病の元となる汚れを寄せ付けぬ力がある。花は目を楽しませ、香りは心を豊かにする。
 国中でこの花が咲き誇る日もそう遠くはない。





 ジハードはゆっくりともう一歩近づいた。

 シェイドは動かず、立ち尽くしていた。シェイドに伝えておかねばならないことは、まだまだある。

「北方人たちの生き方も、これからどんどん変わっていくだろう。神殿も髪や目の色に関わらず誕生の祝福を授けるようになった。外見で民を二つに割ることは国に不利益しかもたらさないからだ。北方人の血を引く者たちも、この国に住まう以上はウェルディリアの国民であり、俺の民だ。俺が国王の座にあるうちに、国土のすべてにこの考えを浸透させてみせる」

 ジハードが北方人の問題を自らの責務として捉えるようになった切っ掛けは、シェイドの存在だった。

 北方の血を引く人間がこの国で受け続けてきた苛烈な差別を撤廃させるべく、ジハードは何年もかけて法の整備に地道に取り組んできた。
 かつて数多くあった北方人を奴隷として扱う娼館は、今はもう王都の中には存在しない。地方ではまだ北方人や混血児を『物』として扱う習慣が残っているが、通達と視察を繰り返すことで徐々に改善している。
 己の在位の内に、この国から『北方人』という名称そのものが消えるよう、ジハードは戦い続けるつもりだった。

 そして、その戦いを続けるためにも、シェイドには傍らにいてもらいたかった。

「どんな姿を持っていても、もう蔑まれることはない。理不尽な扱いを受けることもない。どの民も、俺の前では等しく守るべき俺の民だ」

 もはやそれはシェイドやフラウのためだけではなかった。
 ジハードの中にはそれこそが自国のあるべき姿として、確固たる信念となって存在していたのだ。




 実の父親をその手にかけてまで玉座に就くのは、いったい何のためか。
 何度も繰り返した自身への問いに、いつしか答えははっきりと形を示し始めた。
 それはこの国を守るためだ。この国に生きる人間を守り、この国に繁栄の道を歩ませるためだ。
 それは孤独で長い戦いになるだろう。だからこそ、傍らにはいてほしい人間がいる。

「……俺にお前のことも守らせてくれないか。そして、俺の隣で新しい国を作るための手助けをして欲しい」

 ゆっくりと歩み寄るジハードから、シェイドはもう逃げなかった。
 涙を湛えた青い瞳は、耳に入った言葉を反芻するように小刻みに揺れていた。
 まだジハードの言葉の全てを信じることなどできないのだろう。今までこの国が歩んできた歴史と、シェイドが受けた扱いを思えば当然のことだ。

 ジハードは静かに手を伸ばし、シェイドが握る鋏を掴み取った。関節が白くなるほど固く握りしめられていたが、指を一本ずつ剥がして放させると、奪い返そうとはしなかった。内心で汗を浮かべながら、ジハードはそれを悟らせないように笑みを浮かべて見せた。

「ここに跪け」

 命じると、操り人形のようにぎこちない動きでシェイドが膝をついた。

 ジハードは右手の中指に嵌めた国王の指輪に口づけをした。そしてその手を、シェイドの白い額に押し当てた。

「……シェイド・ハル・ウェルディス。――国王ジハード・ハル・ウェルディスの名において、汝に誕生の祝福を与える。汝の生が千の愛と万の幸福で満たされるよう、ウェルディに篤く祈願しよう」

 神殿で神官が祝福を与える時の祝詞を、ジハードは厳かに口にした。
 この幸薄く育った兄に今から溢れんばかりの幸福が訪れるよう、心の底からの祈りを込めて。





 額にあてた掌を静かに下ろすと、現れたシェイドの頬には新しい涙が伝っていた。
 多くの北方人がそうであったように、これはシェイドが生まれて初めて受けた言祝ぎだったはずだ。
 シェイドに必要だったのは、額を飾る王族の証でも、絶え間ない愛の言葉でもない。生まれてきたことを、誰かから祝福されることだったのだ。

 自失していた青い瞳に理性の光が戻り、底に金泥を含んだ湖面のような双眸が、ジハードをまっすぐに見上げていた。その目に、いつも消えずにこびりついていた怯えたような陰はもうなかった。

 雪の降る日に生まれた化け物はもういない。
 ここにいるのは、ウェルディに祝福されて生まれてきた一人の人間だけだった。

「――今日がお前の生まれた日だ。誕生日おめでとう、シェイド」

 両方の頬に、祝福の口づけを与える。
 シェイドは両目を閉じ、胸の前で指を組んで、敬虔にそれを受けた。

 遠い空の上に逃げていた鳥たちが舞い戻り、色とりどりの羽を散らして抱き合う二人を祝福した。
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