王宮に咲くは神の花

ごいち

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第三章 ミスル離宮

明けゆく夜

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「………………」

 肩で息をついてそこに立っていたのは、国王ジハードだった。
 目立たぬ黒い騎馬服に身を包んでいても、それが誰かを見誤ることなどありえない。豊かな黒髪、豹を思わせる鋭い黒瞳。均整の取れた筋肉質な長身は、地上に降臨した若き軍神ウェルディそのものだ。

 なんと堂々として、凜々しい姿だろう。

 シェイドは感嘆の息をついた。漆黒の旅装に身を包み、夜の闇をきっと風のように駆けてきたのだろう。それはまるで物語の中で語られるような光景だったに違いない。
 二度と会うことはないと覚悟したせいか、その姿はいつもにも増して神々しく、涙ぐみそうなほど慕わしくも思えた。

「シェ、イ……ド……」

 扉を開けて歩み寄ろうとしていたジハードが、虚を突かれたように目を見開いて足を止めた。
 信じられないものを見たように、まじまじとシェイドの顔を見つめる。目を逸らしてしまうのが惜しくて、シェイドもジハードを見つめ続けた。

 時が止まったような一瞬の後、国王は顔を赤く染めて駆け寄ってきた。

「シェイド……!」

 立ち尽くすシェイドを、ジハードが強く抱き寄せた。
 夜風に吹かれたジハードの上着は冷えていて、寄せられた頬も凍るように冷たい。けれど、体を離したいとは思わなかった。温もりを分け与えるように自分からも身を寄せ、逞しい背にそっと手を回す。
 駆け通しで来たのか、シェイドを固く抱きしめるジハードの呼吸はまだ荒い。厚い上着を通してさえ、重なりあった体から早鐘を打つ鼓動までもが伝わってくるようだった。

 やがて、感極まったような声がシェイドの耳を擽った。

「……俺が来るのを待っていてくれたのか……」

 ジハードが冷たい唇をこめかみに押し当てながら、興奮を隠さぬ声で言った。

「お前が微笑むところを初めて見た……嬉しいぞ……」

 歓喜に満ちた言葉を聞いて初めて、シェイドは自分がジハードとの再会を喜んでいたことに気がついた。

 もう一度だけ会いたい。だがもう二度と会うことはない。
 そう覚悟していた分、王都を遠く離れた砦で思いがけず再会を許されたことが、心の底から嬉しかった。
 こうやって腕に抱きしめられ、力強い胸の鼓動を聞いていると心が休まる。怖ろしいと思う気持ちも、解放されたいという願いも、いつの間にかすっかり薄れて消えていた。
 まっすぐに駆け寄ってきてくれたジハードの姿を思い出すと、胸の内が灯を宿したように温かく感じられる。

 会えて良かったと、ジハードも少しは思ってくれたのだろうか。
 もしもそうなら、追放されることをもう寂しいとは思うまい。この穢れた身には余るほどの温もりを与えて貰ったのだから。
 この先どのような最期を迎えるのだとしても、命が尽きるその瞬間まで、この温もりを決して忘れまいとシェイドは心に誓った。

「……私も……もう一度陛下にお会いできて、嬉しいです……」

 回した腕に力を込める。
 あれほど冷えて凍えそうだった体が、ジハードに包み込まれて温みを帯び始めていた。





 砦で手早く食事を済ませると、シェイドはジハードと共にもう一度馬車の中に戻った。
 人数の増えた騎馬隊を従えて、六頭立ての馬車は夜の街道をひた走る。冷たい夜風は変わらず吹き込んで来たが、二人で身を寄せ合っていると寒さは感じなかった。

 ジハードの息づかいや胸の鼓動を聞くうちに、ガタガタと揺れる馬車の振動さえ心地よくなり、いつの間にかシェイドは眠ってしまっていた。
 目的地に着いたと揺り起こされたのは真夜中近い時刻だったはずだ。ジハードに支えられて館の中に入り、そのまま寝台の中に入って眠ってしまったので、後は良く覚えていない。
 次に目が覚めたのは、夜明けの少し前だ。日が昇る直前に少しばかり冷たさを増す空気が、シェイドに目覚めを促す。こればかりは物心ついた時からの変わらぬ習性だ。

 鎧戸が閉められた暗闇の中、ぽかりと目を開いたシェイドは隣で眠るジハードに気付いて、その姿を確かめておこうと目を凝らした。

 安らかな寝息を立てて眠る若い神の顔。
 鼻梁は高く、額はすっきりと秀でて、目元は彫りが深く鋭い。密に揃った長い睫が黒々とした影を落としている。
 波打つ漆黒の髪は王太子であった頃よりも長く伸び、今は肩に掛かるほどだ。背を覆うほど豊かになれば、ますます生きた軍神そのものの姿になるに違いない。
 少し高い頬骨としっかりした顎が、高貴さだけでなく精悍さも感じさせた。美しいだけでなく、野性的で男らしく整った顔立ちだ。形の良い肉厚な唇からは、静かな寝息が漏れていた。

 ジハードに口づけされる時、シェイドはいつも呼吸ごと奪われるような感覚に翻弄される。
 吐く息さえ己の自由にならず、何もかも支配を受けているのだと実感させられるような気がして、口づけされるのが好きではなかった。
 なのに今は、薄く開いた唇を見つめていると、自分から唇を重ねたい衝動に襲われた。

 唇を合わせて熱を感じ、柔らかさを堪能し、吐息を分かち合い、胸の鼓動を重ねる……。
 口づけが奪い合うものになるのか、与え合うものになるのかは、心の持ち方一つだったのだと気が付いた。

「…………もっと早くに気付いていれば……」

 苦く笑って、シェイドは夜着に包んだ体を遠ざけた。
 昨夜は触れられることさえなかった。役目を解かれた今になって、温もりを惜しんでもどうにもなりはしない。
 何処へ連れてこられたのかは分からないが、ジハードが目覚めるまでに見苦しくないよう支度を調えておかなければ。

「……っ!」

 そのまま寝台を降りようとしたシェイドは、不意に腕を掴まれて息が止まりそうなほど驚いた。

「あっ……!?」

 そのまま強引に引き寄せられ、元の場所へと戻される。
 ジハードの腕の中、額と額が触れ合うほど近い場所に抱きすくめられた。

 目を閉じたままのジハードが、甘えるように頬を摺り寄せてきた。

「……黙って出て行くのは止めてくれないか。目が覚めて腕の中が空だと知った時に、寂しくてやりきれなくなる」

 寝起きの掠れた声でジハードに言われて、シェイドは困惑に目を瞬かせた。
 同じ寝台で寝起きするようになって三ヶ月以上が過ぎていたが、こんなことを言われたのは初めてだ。

 シェイドは毎朝一人で先に目覚め、起きればすぐに湯殿を使いに行く。
 湯浴みを終えて出てくると、目を覚ましたジハードは大抵食堂で待っており、そのままともに朝食を摂るのがいつもの流れだ。
 その行動を、今まで一度も咎められたことはなかった。

 ジハードは駄々をこねる子供のように続けた。

「俺が起きるまでは側にいてくれ。そうでないなら、せめて俺を起こして朝の挨拶をしてくれ。……お前の顔を一番に見るのが、俺ではなく侍従なのが我慢ならん」

 まだ眠気が強いらしく目を閉じたまま話すジハードを、シェイドは不思議なものを見るように凝視した。

 いったい国王は何を言っているのだろうか。
 奥侍従は役目が終われば速やかに主人の寝室を出て行くのが決まりだ。朝方まで同じ寝台で眠ること自体が本来おかしいというのに。
 国王の今の言葉は、寵愛深い妾妃にでもかけてやるべき言葉ではないのか。
 しかも、白桂宮を出されたはずの今になって、何故そんなことを言うのだろう。

 疑問に思う間にもジハードの両腕はシェイドを強く抱き、頭を引き寄せて唇を奪う。温かいジハードの唇を感じて、シェイドは両目を瞼の下に隠した。





 触れたいと思いながらも、自分からはできなかった口づけをシェイドは貪る。
 唇を薄く開いて啄むと、それに応えるように優しく何度も吸い返された。

「ん……」

 ジハードの手がシェイドの長い髪をかき上げる。
 掌で頭を一度包み込んだ後、その手は首筋から肩、肩から腕へと降りていき、今度はシェイドの右手に触れた。
 あるべき物がそこにないことを確かめる仕草に、シェイドはどきりとした。

「……額環と指輪がないのはなぜだ」

 唇を離して問うジハードの声音は穏やかだったが、少しばかりの叱責の響きもあった。
 しばしの逡巡の後、シェイドは言葉を飾らずありのままを告げた。

「お暇をいただいたものと思い……寝室に置いて参りました」

「……お前に暇を出す日など来ない」

 勝手な行動を厳しく責められるかと思ったが、ジハードの声は溜息交じりだった。触れていた手でシェイドの手を握り、指を絡めて握ってくる。
 包み込むように大きな手の感触が慕わしくて、シェイドは応えるように手を握り返していた。

「……ミスルの離宮へ行くと言ってあったのに、耳に入っていなかったな」

 どこか済まなさそうな声の響きに一瞬首を傾げた後、シェイドは事の顛末を察して頬を赤らめた。

 ジハードから告げられたことを聞いていなかったとすれば、それはシェイドがすっかり正気を失っている時に伝えられたのだ。
 快楽の頂に際限なく放り上げられ、声も涸れるほど啼き咽んだ後の、目は開いていても心は彼方へと飛び去って自失してしまっているときに告げられたのに違いない。そうでなければ、こんな大事な話を聞いて忘れられるはずがない。

「……存じておりませんでした」

 正気の時に言ってくれていれば、こんな思い違いをすることはなかったのに。
 少しばかり恨めしく思ってしまうのは、きっと自分が思っていた以上に白桂宮を追放されることが辛かったからだ。

 解放の日を待ち望んで指折り数えていたはずなのに、いざその瞬間になると世界中から見捨てられたような寂しさがあった。寄る辺を失い、何処に足を置いて立てばいいのかもわからない。
 覚悟をつけていたなどというのは、自分を誤魔化すための嘘だ。昼も夜もなくあれほど激しく求められていたのに、前触れもなく放り出されたと思いこんで、不安で心細くて堪らなかった。

「暇を出されたと思って……少しくらいは、それを残念だと思ってくれたか」

 ちょうど思っていたことを言い当てられたような気がして、シェイドは答えられずに口ごもった。
 ジハードは熱を帯びた頬に唇を寄せると、答えを聞こうとはせずに身を起こした。

「時間がない。起きて着替えよう」
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