王宮に咲くは神の花

ごいち

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第三章 ミスル離宮

対決

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 大使として諸外国に赴く話が出た時、すでにアリアは宮廷で言われる適齢期を過ぎていた。
 無論縁談はいくつもあったが、王太子がいつか自分を正妃に迎えてくれるものだと信じて、全て断ってきたのだ。大使の任も、王妃として相応しい外交経験を身につけさせようとの意向と信じて、疑いもせずに務めてきた。
 ――それなのに、この仕打ちだ。

 おそらく国王も望んでこんな女を王妃に就けたのではないに違いない。
 ならば役に立たない飾り物として、この小さな宮の中に一生押し込めておけば良い。華やかな表の世界に出ようなどとは思いもせぬように。

「では、北方諸国に赴いたときの話など致しましょうか」

 アリアの言葉に、王妃の隣に立つ従者が顔色を変えた。

 ヴァルダン家は元は王家と祖を同じくすると言われながらも、代々の当主が血統を重んじてこなかったために多くの下賤の血が混じっている。
 サラトリアやタチアナも、髪の色から察するに血筋卑しい母親から生まれたのだろう。傍らに立つ従者と同じように。

「北方の海を渡った先にある地は、どこもとても貧しいのです。何しろ一年の大半を大地が雪に覆われているので、作物がほとんど穫れません。ですから国を捨てた農奴たちが短い夏の間に大挙してウェルディリアに流れ込んでくるのです」

 アリアは王妃が動揺する様を見ようと思ったが、伏せがちの目はアリアを見ようともせず、扇で隠された口元はどんな表情を浮かべているのかを悟らせなかった。

 アリアは笑みを浮かべて続きを語る。世間知らずの姫君でも、何を言われているのかよく理解できるように。

「言葉も通じない農奴ですもの。彼らは皆、海を渡る船の上で身ぐるみを剥がされて、害になるものを持ち込んでいないか、体中を調べられるそうですよ。若い女も男も、皆……」

 海の旅は数日に及ぶ。その間、北方人達は逃げ場のない船の中で船員たちから辱めを受け、拒む者は冷たい海に放り込まれて命を落とす。
 ウェルディリアに到着した彼らを迎えるのは人買いだ。安宿に売られるか開墾地などの過酷な農場に送られるかがそこで選別される。どちらにしても犬並の扱いであることに変わりはない。

 ウェルディリアでは、北方人は家畜同然の生き物なのだ。その血を引く混血児達もまた。





「嫌ですわね。近頃は王都ばかりか王宮の中にまで、そういう卑しい輩が紛れ込んできているようで、獣臭くて困りますわ」

 痛烈な侮蔑の言葉に、白桂宮の従者が顔に朱を昇らせた。自分や王妃の事を当てこすられたと理解したのだ。
 傍らの王妃も内心さぞかし屈辱に震えているだろう。
 アリアはそう確信して様子を窺ったが、王妃の扇は微動だにせず、白い顔に血の気一つ昇らせた様子がなかった。伏せた目の長い睫一つ、揺るぐことさえない。

 そよ風一つ吹かなかったと、生きた彫刻のような王妃は静謐なままだった。

「……アリア様がお困りになることなど、何もございませんでしょう」

 やがて出てきた言葉には、先ほどからと同じく何の熱も感情も籠もってはいなかった。これほど感情を見せない人間が存在しているのを、アリアは初めて目の当たりにした。

「ナジャウ家ほどの名家なら、お困りになることなど何一つありません。目に触れたくないものならば、排除しておしまいになればよろしいのです」

 声はあまりにも淡々としていて。

 言われて暫く、アリアはその言葉が意味するところを理解できなかった。





 アリアは、タチアナに自戒を促そうとしたのだ。自分たちに卑しい北方の血が混ざっていることを忘れるな、と。
 それなのに当のタチアナが、目障りならば排除せよ、とはどういうことか。

 王家傍流たるナジャウ家の威信をかけて、ヴァルダンを排除してしまえと言ったのだろうか。――それができるものならとっくにしていると言いかけて、アリアは沈黙した。

 できないのだ。

 いくら家畜同然だと罵ろうと、ヴァルダンは今や国王の第一の側近だ。宮廷内に確固たる地位を築いている。
 腹の中で何と思っていようが、今のヴァルダンに表立って逆らえる貴族は一人もいない。

 一方、アリアの父カストロ公爵は、旧国王派の筆頭として王太子時代のジハードとは対立する立場にあった。
 ジハードが即位した現在、カストロはすでに宮廷内での実権のほとんどを失ってしまっている。

 ヴァルダン家のタチアナは王妃という輝かしい座を手に入れたが、今のアリアは失脚した公爵家の一人娘に過ぎない。
 王妃どころか、側室に選ばれることさえもう望めないだろう。
 国元を離れている間に、アリアの立場は大きく変わってしまっていたのだ。

「そんな……」

 アリアは言葉を失った。

 社交界のことさえまともに知らない箱入り令嬢を嘲笑ってやるつもりで来たというのに、こんな滑稽なことがあるだろうか。現国王の従姉であり、由緒正しい王族中の王族である自分が、こんな得体の知れぬ女の前で膝を折らねばならないとは。
 アリアは立ち上がると、大きく息をつきながら、座したままの王妃を見下ろした。

 不気味なほど生白い顔と、吹けば飛ぶような貧相な体。何一つとしてこの国の王妃に相応しくなどない。あの若く逞しい国王には何一つとして相応しくない。

 そう詰りかけて、アリアは気づいた。
 ショールを巻き付け、結い上げた髪で隠した首筋に、いくつかの鬱血の跡があることを。交合でつけられた愛撫の痕跡だ。

「……恥を知りなさい! この娼婦め!」

「……ッ!」

 思わずアリアは手元にあった茶器を投げつけていた。
 あの凜々しい国王ジハードが、こんな貧相な女を寝台で相手にするはずもない。ならばこの女は王妃という地位にありながら、従者と淫らな戯れに耽る淫婦ということだ。

 それ以外には考えられない。卑しい、獣同然の北方人の血を引いているのだから――。





 投げつけた茶器は庇うように飛び出してきた従者の背に当たって落ちた。
 口惜しいことに、王妃は微塵も動揺を見せることなく、今なお悠然と椅子にかけたまま逃げようともしていない。
 アリアは菓子を切り分けるためのナイフを手に取った。
 人前に出て王妃としての務めを果たす気もないのなら、いっそこの国から消え去ってしまえばいい。そうすれば相応しい人間のために王妃の座が開くのだから。





「――それで何をする気だ!」

 だが、背後からかかった雷鳴のような声に、アリアは手に持った刃物を取り落とした。
 振り返ればそこに居たのは、謁見の間で挨拶を交わした国王その人だった。

 外国での長い任務を労ってくれた従弟の顔はそこにはなかった。息を飲むほどの憤怒の表情に、アリアは声を失った。

 誤解だ、この女が不貞を働いたのを断罪しようとしていただけなのだ、そう言おうとするより早く、大股に近づいてきた国王が腕を振り上げ――。

「陛下ッ!」

 誰かの制止しようとする声が聞こえたが、次の瞬間、アリアは床に倒れ伏していた。
 頭が割れるように痛み、吐き気までする。眩暈がしてとても立ち上がれない。自分の身に何が起こったのかもわからなかった。

 霞む視界の中で、国王ジハードがアリアに背を向ける。

 誰かをまるで宝物のように腕に抱き上げて、振り返りもせず立ち去って行く後ろ姿が、涙で歪む視界におぼろに映った。
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