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第二章 ジハード王の婚姻
婚礼の日
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儀式の始まりを告げる鐘の音が聞こえた。
冷たい寝台の中で一晩中眠れずにいたシェイドの元を、小さなノックの音とともに侍従が訪れた。
「お目覚めでいらっしゃいますか、殿下。そろそろお支度を始めてもよろしいでしょうか」
気遣うような優しい声音は、王太子宮殿で目覚めたときから身の回りの世話をしてくれている、フラウという名の青年のものだ。二十歳を過ぎたばかりの温和な物腰をした青年は、波打つ明るい色の髪を持っており、北方人の血を引いていることが窺える。
疲れの滲む息を漏らしながら、シェイドは寝台から身を起こした。
「隣の部屋に湯桶を用意してございますので、お使いください。その間に朝食のご用意を致しておきます」
女物の室内履きを履いて、続きの間になっている隣の部屋に行ってみると、部屋には暖炉の火が暑苦しいほど焚かれ、大きな湯桶いっぱいに湯が満たされていた。
婦人用の寝間着を脱ぎ落とし、貴人の裸体を隠すための幕を潜って湯桶の中に小さくしゃがみ込む。冷えた手足が湯の温かさにピリピリしたのも初めのうちだけだ。数日前から降り続いた雪が、いくら暖炉の火を大きくしても熱を奪っていってしまう。
シェイドは体を清めると、早々に湯桶から上がって暖炉の前の椅子に腰を下ろした。気配を察したフラウが、間を置かずに朝食を運んでくる。小卓の上にパンと果物と、湯気を立てるいくつかの飲み物が用意されていた。
食欲など無いが、儀式の途中で倒れるわけにも行かないので、牛の乳を温めて蜂蜜を垂らした飲み物を取って口をつける。
「ご朝食の後、御衣装を改めまして馬車で大神殿に向かいます。大神殿で正午から宣誓の儀、その後は国王陛下とともに王宮に入られて戴冠の儀がございます。戴冠の儀の後は……」
「もう結構です」
濡れた髪に焼き鏝を当てて乾かしながら話しかける侍従の言葉を、シェイドは遮った。
「都度、何をするか言ってください。そのようにしますから」
不機嫌な声が出たが、取り繕うことさえ煩わしかった。黙り込んだシェイドに侍従は小さく返事をして、重苦しい雰囲気の中、腰まで伸びた長い白金の髪を見事に巻いていく。
今日は国王ジハードと、ヴァルダンの斎姫であるタチアナ・ヴァルダンの婚姻の日だった。
国王ジハードの即位式の喧噪に紛れ、フラウとともに王宮からヴァルダンの屋敷へと送り出されたシェイドは、ここで半年間の令嬢教育を受けた。
身につけるものは全て女物。女性らしい所作、言葉の選び方、衣装の身に付け方から化粧の仕方までみっちりと指南され、合間にヴァルダンの家系図や歴史、王妃たる人間に相応しい素養までも念入りに教育された。
愚かしいことだと思わずにはいられない。
病弱だという噂のタチアナは、おそらく婚姻を前に亡くなってしまったのだろう。王太子だったジハードは、国王弑逆という大罪に荷担してまで後押ししたヴァルダンに、何か明らかな形で褒賞を与えねばならなかったのに違いない。双方の間には、タチアナを王妃に迎えるという口約束があったのだろう。
だがタチアナは死に、国王とヴァルダンは身代わりを立てる必要に迫られた。誰でも良いと言うわけではない。この秘密を決して外に漏らさぬ人間が必要だった。そして、シェイドがそれに適任だったと言うわけだ。
今日の婚姻の儀が無事に終われば、すぐにでも殺されるのだと、シェイドは覚悟している。
内侍の司で密かに宮廷を観察してきたシェイドだからこそ、自分が今どのような立場にあるかも推察できる。
前国王が実の息子に殺されたという事実を知る上に、身分低い妾妃の腹から生まれた現国王の腹違いの兄だ。ジハードにとって生かしておいておく利点は一つもない。それゆえ、身代わりに選ばれたのだ。
どのみち生かしておけぬ命ならば、せいぜい役に立ってから死ねという、そういう思惑なのだろうと理解している。
タチアナは成人することも危ぶまれた病弱な斎姫で、例え生きていたとしても、王妃としての責務を果たすことも子を成すこともできなかったはずだ。そしていつ死んだと公表しても、皆ああそうかと思うだけだ。
この無意味な婚姻によって、タチアナの名は第三十二代国王ジハードの一人目の正妃として系譜に刻まれ、ヴァルダン家は王家の姻戚として名を残す。必要なことはそれだけだ。
今日という日が終われば、全てから解放される。
そう思うことだけが、シェイドの正気を保たせていた。
ぴったりとした絹の下着を身につけ、腰には体つきを女性らしく見せるためのコルセットを巻き、用意された純白の婚礼衣装に袖を通す。
上半身を覆う上質の絹は柔らかい襞を幾重にも描いて、膨らみのない胸元に女性らしい曲線を生み出した。高い襟は、冬の寒さから貴人を守ると同時に、喉元を隠すためのものでもある。シェイドの喉は男としてはかなり目立たぬ方だったが、視線が鎖骨の辺りに向くように、大粒の真珠が首飾りのように縫い付けられいた。
腰は体の線に沿って細く絞られ、膝から下はたっぷりの大きな襞とレースが足下を隠している。後ろの裾は家格の高さを示して、長く床を埋めていた。肩から背中に流れ落ちるレースがその裾の上をふわりと覆っている。国家の紋章が飾り編みされた、王妃となるもの以外には身につけることが許されぬ意匠が、そのレースには編み込まれていた。
色の白い面に白粉は必要なかったが、肌も眉も睫も白いシェイドの顔立ちがはっきりするよう、化粧も施された。眉と目元に陰影をつけ、血色がよく見えるように頬と唇に紅を入れると、シェイドの侍従時代をよく知るものたちでさえ、正体を見破ることはもはやできないだろう。雪の女王のような、冷たく冴え冴えとした貴婦人の貌になった。
礼装を着付けた後、焼き鏝を当てて巻いた髪を高く結い上げられ、真珠の飾りをつけたピンがそれを形良く留めた。髪にこの日のために温室で育てた大輪の花を飾り、肘から先が広がった袖の下に長い絹の手袋を嵌めれば、非の打ち所無く高貴な花嫁が完成した。
冷たい寝台の中で一晩中眠れずにいたシェイドの元を、小さなノックの音とともに侍従が訪れた。
「お目覚めでいらっしゃいますか、殿下。そろそろお支度を始めてもよろしいでしょうか」
気遣うような優しい声音は、王太子宮殿で目覚めたときから身の回りの世話をしてくれている、フラウという名の青年のものだ。二十歳を過ぎたばかりの温和な物腰をした青年は、波打つ明るい色の髪を持っており、北方人の血を引いていることが窺える。
疲れの滲む息を漏らしながら、シェイドは寝台から身を起こした。
「隣の部屋に湯桶を用意してございますので、お使いください。その間に朝食のご用意を致しておきます」
女物の室内履きを履いて、続きの間になっている隣の部屋に行ってみると、部屋には暖炉の火が暑苦しいほど焚かれ、大きな湯桶いっぱいに湯が満たされていた。
婦人用の寝間着を脱ぎ落とし、貴人の裸体を隠すための幕を潜って湯桶の中に小さくしゃがみ込む。冷えた手足が湯の温かさにピリピリしたのも初めのうちだけだ。数日前から降り続いた雪が、いくら暖炉の火を大きくしても熱を奪っていってしまう。
シェイドは体を清めると、早々に湯桶から上がって暖炉の前の椅子に腰を下ろした。気配を察したフラウが、間を置かずに朝食を運んでくる。小卓の上にパンと果物と、湯気を立てるいくつかの飲み物が用意されていた。
食欲など無いが、儀式の途中で倒れるわけにも行かないので、牛の乳を温めて蜂蜜を垂らした飲み物を取って口をつける。
「ご朝食の後、御衣装を改めまして馬車で大神殿に向かいます。大神殿で正午から宣誓の儀、その後は国王陛下とともに王宮に入られて戴冠の儀がございます。戴冠の儀の後は……」
「もう結構です」
濡れた髪に焼き鏝を当てて乾かしながら話しかける侍従の言葉を、シェイドは遮った。
「都度、何をするか言ってください。そのようにしますから」
不機嫌な声が出たが、取り繕うことさえ煩わしかった。黙り込んだシェイドに侍従は小さく返事をして、重苦しい雰囲気の中、腰まで伸びた長い白金の髪を見事に巻いていく。
今日は国王ジハードと、ヴァルダンの斎姫であるタチアナ・ヴァルダンの婚姻の日だった。
国王ジハードの即位式の喧噪に紛れ、フラウとともに王宮からヴァルダンの屋敷へと送り出されたシェイドは、ここで半年間の令嬢教育を受けた。
身につけるものは全て女物。女性らしい所作、言葉の選び方、衣装の身に付け方から化粧の仕方までみっちりと指南され、合間にヴァルダンの家系図や歴史、王妃たる人間に相応しい素養までも念入りに教育された。
愚かしいことだと思わずにはいられない。
病弱だという噂のタチアナは、おそらく婚姻を前に亡くなってしまったのだろう。王太子だったジハードは、国王弑逆という大罪に荷担してまで後押ししたヴァルダンに、何か明らかな形で褒賞を与えねばならなかったのに違いない。双方の間には、タチアナを王妃に迎えるという口約束があったのだろう。
だがタチアナは死に、国王とヴァルダンは身代わりを立てる必要に迫られた。誰でも良いと言うわけではない。この秘密を決して外に漏らさぬ人間が必要だった。そして、シェイドがそれに適任だったと言うわけだ。
今日の婚姻の儀が無事に終われば、すぐにでも殺されるのだと、シェイドは覚悟している。
内侍の司で密かに宮廷を観察してきたシェイドだからこそ、自分が今どのような立場にあるかも推察できる。
前国王が実の息子に殺されたという事実を知る上に、身分低い妾妃の腹から生まれた現国王の腹違いの兄だ。ジハードにとって生かしておいておく利点は一つもない。それゆえ、身代わりに選ばれたのだ。
どのみち生かしておけぬ命ならば、せいぜい役に立ってから死ねという、そういう思惑なのだろうと理解している。
タチアナは成人することも危ぶまれた病弱な斎姫で、例え生きていたとしても、王妃としての責務を果たすことも子を成すこともできなかったはずだ。そしていつ死んだと公表しても、皆ああそうかと思うだけだ。
この無意味な婚姻によって、タチアナの名は第三十二代国王ジハードの一人目の正妃として系譜に刻まれ、ヴァルダン家は王家の姻戚として名を残す。必要なことはそれだけだ。
今日という日が終われば、全てから解放される。
そう思うことだけが、シェイドの正気を保たせていた。
ぴったりとした絹の下着を身につけ、腰には体つきを女性らしく見せるためのコルセットを巻き、用意された純白の婚礼衣装に袖を通す。
上半身を覆う上質の絹は柔らかい襞を幾重にも描いて、膨らみのない胸元に女性らしい曲線を生み出した。高い襟は、冬の寒さから貴人を守ると同時に、喉元を隠すためのものでもある。シェイドの喉は男としてはかなり目立たぬ方だったが、視線が鎖骨の辺りに向くように、大粒の真珠が首飾りのように縫い付けられいた。
腰は体の線に沿って細く絞られ、膝から下はたっぷりの大きな襞とレースが足下を隠している。後ろの裾は家格の高さを示して、長く床を埋めていた。肩から背中に流れ落ちるレースがその裾の上をふわりと覆っている。国家の紋章が飾り編みされた、王妃となるもの以外には身につけることが許されぬ意匠が、そのレースには編み込まれていた。
色の白い面に白粉は必要なかったが、肌も眉も睫も白いシェイドの顔立ちがはっきりするよう、化粧も施された。眉と目元に陰影をつけ、血色がよく見えるように頬と唇に紅を入れると、シェイドの侍従時代をよく知るものたちでさえ、正体を見破ることはもはやできないだろう。雪の女王のような、冷たく冴え冴えとした貴婦人の貌になった。
礼装を着付けた後、焼き鏝を当てて巻いた髪を高く結い上げられ、真珠の飾りをつけたピンがそれを形良く留めた。髪にこの日のために温室で育てた大輪の花を飾り、肘から先が広がった袖の下に長い絹の手袋を嵌めれば、非の打ち所無く高貴な花嫁が完成した。
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