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第一章 嵐の夜
内乱の予感
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外はまだ嵐が続いているようだ。朝までは後どれくらいだろうか。
半覚醒の状態で雷鳴の響く音を聞いていたシェイドは、体の奥に走った痛みと異物感に我に返った。
「動くな。……手当てをしているから、じっとしていろ」
反射的に起き上がろうとした背中を、大きな手が押さえつけた。
低く艶のある声には聞き覚えがある。王太子ジハードのものだ。
シェイドは諦めたように目を閉じ、柔らかい敷布を握りしめて寝台の上に伏せた。冷たい軟膏のようなものが、ジクジクと疼く場所に塗り込められている。
触れられる痛みはあったが、塗られた場所は感覚が麻痺したようになり、少しは苦痛が和らぐ感じがした。
細い息を吐いて、シェイドは気を失う前のことを思い返した。
罰を受けるために服を脱ぎ、命じられたとおりに寝台に這った。背中に鞭を与えられるとばかり思っていたのに、罰を受けたのは別の場所だった。
娼婦の腹から生まれた者に相応しい場所に罰を下されたのだと、そう思うしかない。
「かなり出血したから、今日はこのままじっとしていろ」
手当を終えた王太子が、下衣の乱れを直して掛け布までかけてくれた。
あれほどの怒りを示して罰を与えたというのに、手ずから手当までしてもらえるのが不思議なほどだ。些細な罰で気を失うという醜態が王太子を驚かせたのかも知れない。
今はもう憑きものが落ちたようにその声は穏やかさを取り戻し、王位を継ぐ者に相応しい威厳や慈悲さえ感じられた。
寛大な王太子はじっとしていろと言ってくれるが、ここは王太子の寝室のはずだ。自分のような身分の者が身を横たえていて良い場所ではない。
両手を突いてそろそろと起き上がろうとしたが、途端に下肢に走る痛みと目眩とで、結局仰向けに倒れてしまった。
汗を浮かべて荒い息をつくシェイドの胸を、寝台の端に腰掛けた王太子が制するように押さえた。
「動くなと言っただろうが。お前は俺の命令を何一つ聞こうとしないな」
叱責の言葉は辛辣だったが、何故か声音は優しく響いた。覗き込んでくる闇色の目が穏やかな光を帯びているせいもあるだろう。
僅かな戸惑いを見せた後、王太子が重たげに口を開いた。
「……お前は、本当に父王に忠誠を誓っていたのか」
「え……?」
思いもかけぬ言葉にシェイドは訝しげな声を上げたが、王太子はすぐに『いや、いい』と首を横に振った。
「もう分かっている。疑いをかけてすまなかったな」
大きな掌が汗を拭うように額に触れ、頬に張り付く髪を指先で払いのけた。
「もう目を閉じろ。朝になったら側仕えを寄越すから、それまでに少し眠っておけ。いいか、俺が戻るまでお前はこの寝台の中で体を休めておくんだ。……分かったな」
剣だこのあるゴツゴツした手が目を覆い、シェイドの瞼を閉じさせた。何か言いかけるシェイドを黙らせ、額の熱を測るように暫く手を置いたままにしている。その掌が余分な熱を吸い取って、必要な分の温もりを注いでくれたような気がした。
「……武運を祈っていてくれ」
離れていく王太子の声がしたが、その時にはもう目が開かなかった。疲れ切った体が深い眠りに引き込まれていく。
王太子の残していった気配に包まれて、シェイドは心地よい闇の中に意識を委ねていった。
夜が明ける前に最も気温が下がる頃、シェイドは目覚める。それは物心ついた頃から変わらぬ習慣だ。
温かく身を包み込む寝台で目覚めたシェイドは、見慣れぬ天蓋の模様を暗闇の中で見つめた。
――ここは、王太子宮殿の王太子の寝室、だ……。
意識がはっきりしてくるのと同時に、ほんの数時間前に起きたことが詳細に思い出された。寝台の中でそっと足を動かしてみると、痛みは僅かになっていて、ゆっくりとならば動けそうだ。
王太子からここで待てと言われたことは耳に残っている。
だがシェイドはゆっくりと体を起こすと、傷に響かぬようにそろそろと寝台を降りた。王太子の言葉の一つ一つが、今更ながらに恐ろしい予感を伴って迫ってきていた。
ここ数年の国王と王太子の不仲を知らぬ者は、宮廷の中には居ない。
かつてウェルディリアは大陸全土を統べる大帝国だった。しかし数百年の間に少しずつ国力を落とし、今では北の海岸線を除けば、三方を囲む山脈が事実上の国境線だ。
それも今の王の代になってからは夜盗山賊が山脈を越えて流れ込むようになっており、近いうちに山裾の領地は隣国に攻め取られるのではないかという噂まで立っている。
王太子ジハードはその危機を訴え、宮廷および軍部の大がかりな改革を叫んでいるが、改革を望まぬ国王と現在の要職に就く貴族達はそれに耳を貸そうとせず、反目は深まるばかりだと聞く。
地方では冬が来るたび餓死者が出ているが、王宮では三日と空けずに贅を尽くした夜会が開かれ、地方領主の中には不穏な動きを見せる者もいるとか。
内侍の司に籠もりきりのシェイドの耳にさえ聞こえてくるのだから、相当に深刻な状況ではあるのだろう。
そして、国王と王太子の不仲も、話に聞くよりずっと切迫しているのに違いない。
ジハードは、国王ではなく自分に忠誠を誓えと迫った。
それはつまり、国王と王太子はすでに敵対関係にあることを意味している。
内侍の司の長官を味方に引き入れることにどんな利があるか、考えればすぐにわかることだ。
王太子は新しい奥仕えを入宮させるという名目で、己の意のままに動く兵士をいくらでも奥宮殿内に抱え込めるようになる。
現に昨夜もサラトリアが二十人あまりの側仕えを連れて王太子宮殿に入ったが、それを何度か繰り返せば奥宮殿内を制圧する兵力を持つことは容易い。
これは、王太子による内乱の兆しだった。
シェイドはふらつく体を騙しながら、丁寧に畳まれた官服を着付けた。髪も適当に編み上げて崩れぬ程度に飾り紐で止める。
内侍の司の長官をあらわす頭布を被れば、奥宮殿内の何処にでも出入りは自由だ。与えられたこの地位をこれほどありがたいと思ったことはない。
夜が明ける前にこの事態を知らせ、そして戻ってこなければならなかった。
息を整え、まだ暗い廊下をゆっくりと歩き始める。
数歩歩き始めると、腰に巻いた長衣の中で内股を何かが伝い落ちるのがわかったが、屈んでそれを拭うような時間も体力も無かった。
足音を立てず、衣擦れの音さえも立てぬように。そして不審がられて誰何を受けぬよう、背を伸ばしてゆっくりと回廊を進んでいく。
奥宮殿の最奥にある、王の後宮へ向かって。
半覚醒の状態で雷鳴の響く音を聞いていたシェイドは、体の奥に走った痛みと異物感に我に返った。
「動くな。……手当てをしているから、じっとしていろ」
反射的に起き上がろうとした背中を、大きな手が押さえつけた。
低く艶のある声には聞き覚えがある。王太子ジハードのものだ。
シェイドは諦めたように目を閉じ、柔らかい敷布を握りしめて寝台の上に伏せた。冷たい軟膏のようなものが、ジクジクと疼く場所に塗り込められている。
触れられる痛みはあったが、塗られた場所は感覚が麻痺したようになり、少しは苦痛が和らぐ感じがした。
細い息を吐いて、シェイドは気を失う前のことを思い返した。
罰を受けるために服を脱ぎ、命じられたとおりに寝台に這った。背中に鞭を与えられるとばかり思っていたのに、罰を受けたのは別の場所だった。
娼婦の腹から生まれた者に相応しい場所に罰を下されたのだと、そう思うしかない。
「かなり出血したから、今日はこのままじっとしていろ」
手当を終えた王太子が、下衣の乱れを直して掛け布までかけてくれた。
あれほどの怒りを示して罰を与えたというのに、手ずから手当までしてもらえるのが不思議なほどだ。些細な罰で気を失うという醜態が王太子を驚かせたのかも知れない。
今はもう憑きものが落ちたようにその声は穏やかさを取り戻し、王位を継ぐ者に相応しい威厳や慈悲さえ感じられた。
寛大な王太子はじっとしていろと言ってくれるが、ここは王太子の寝室のはずだ。自分のような身分の者が身を横たえていて良い場所ではない。
両手を突いてそろそろと起き上がろうとしたが、途端に下肢に走る痛みと目眩とで、結局仰向けに倒れてしまった。
汗を浮かべて荒い息をつくシェイドの胸を、寝台の端に腰掛けた王太子が制するように押さえた。
「動くなと言っただろうが。お前は俺の命令を何一つ聞こうとしないな」
叱責の言葉は辛辣だったが、何故か声音は優しく響いた。覗き込んでくる闇色の目が穏やかな光を帯びているせいもあるだろう。
僅かな戸惑いを見せた後、王太子が重たげに口を開いた。
「……お前は、本当に父王に忠誠を誓っていたのか」
「え……?」
思いもかけぬ言葉にシェイドは訝しげな声を上げたが、王太子はすぐに『いや、いい』と首を横に振った。
「もう分かっている。疑いをかけてすまなかったな」
大きな掌が汗を拭うように額に触れ、頬に張り付く髪を指先で払いのけた。
「もう目を閉じろ。朝になったら側仕えを寄越すから、それまでに少し眠っておけ。いいか、俺が戻るまでお前はこの寝台の中で体を休めておくんだ。……分かったな」
剣だこのあるゴツゴツした手が目を覆い、シェイドの瞼を閉じさせた。何か言いかけるシェイドを黙らせ、額の熱を測るように暫く手を置いたままにしている。その掌が余分な熱を吸い取って、必要な分の温もりを注いでくれたような気がした。
「……武運を祈っていてくれ」
離れていく王太子の声がしたが、その時にはもう目が開かなかった。疲れ切った体が深い眠りに引き込まれていく。
王太子の残していった気配に包まれて、シェイドは心地よい闇の中に意識を委ねていった。
夜が明ける前に最も気温が下がる頃、シェイドは目覚める。それは物心ついた頃から変わらぬ習慣だ。
温かく身を包み込む寝台で目覚めたシェイドは、見慣れぬ天蓋の模様を暗闇の中で見つめた。
――ここは、王太子宮殿の王太子の寝室、だ……。
意識がはっきりしてくるのと同時に、ほんの数時間前に起きたことが詳細に思い出された。寝台の中でそっと足を動かしてみると、痛みは僅かになっていて、ゆっくりとならば動けそうだ。
王太子からここで待てと言われたことは耳に残っている。
だがシェイドはゆっくりと体を起こすと、傷に響かぬようにそろそろと寝台を降りた。王太子の言葉の一つ一つが、今更ながらに恐ろしい予感を伴って迫ってきていた。
ここ数年の国王と王太子の不仲を知らぬ者は、宮廷の中には居ない。
かつてウェルディリアは大陸全土を統べる大帝国だった。しかし数百年の間に少しずつ国力を落とし、今では北の海岸線を除けば、三方を囲む山脈が事実上の国境線だ。
それも今の王の代になってからは夜盗山賊が山脈を越えて流れ込むようになっており、近いうちに山裾の領地は隣国に攻め取られるのではないかという噂まで立っている。
王太子ジハードはその危機を訴え、宮廷および軍部の大がかりな改革を叫んでいるが、改革を望まぬ国王と現在の要職に就く貴族達はそれに耳を貸そうとせず、反目は深まるばかりだと聞く。
地方では冬が来るたび餓死者が出ているが、王宮では三日と空けずに贅を尽くした夜会が開かれ、地方領主の中には不穏な動きを見せる者もいるとか。
内侍の司に籠もりきりのシェイドの耳にさえ聞こえてくるのだから、相当に深刻な状況ではあるのだろう。
そして、国王と王太子の不仲も、話に聞くよりずっと切迫しているのに違いない。
ジハードは、国王ではなく自分に忠誠を誓えと迫った。
それはつまり、国王と王太子はすでに敵対関係にあることを意味している。
内侍の司の長官を味方に引き入れることにどんな利があるか、考えればすぐにわかることだ。
王太子は新しい奥仕えを入宮させるという名目で、己の意のままに動く兵士をいくらでも奥宮殿内に抱え込めるようになる。
現に昨夜もサラトリアが二十人あまりの側仕えを連れて王太子宮殿に入ったが、それを何度か繰り返せば奥宮殿内を制圧する兵力を持つことは容易い。
これは、王太子による内乱の兆しだった。
シェイドはふらつく体を騙しながら、丁寧に畳まれた官服を着付けた。髪も適当に編み上げて崩れぬ程度に飾り紐で止める。
内侍の司の長官をあらわす頭布を被れば、奥宮殿内の何処にでも出入りは自由だ。与えられたこの地位をこれほどありがたいと思ったことはない。
夜が明ける前にこの事態を知らせ、そして戻ってこなければならなかった。
息を整え、まだ暗い廊下をゆっくりと歩き始める。
数歩歩き始めると、腰に巻いた長衣の中で内股を何かが伝い落ちるのがわかったが、屈んでそれを拭うような時間も体力も無かった。
足音を立てず、衣擦れの音さえも立てぬように。そして不審がられて誰何を受けぬよう、背を伸ばしてゆっくりと回廊を進んでいく。
奥宮殿の最奥にある、王の後宮へ向かって。
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