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九重の姫は栄華を掴み取る
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東宮の膝を枕にして、緋立は力が入らぬ体を小さく丸めていた。
気をやりすぎて何度か意識が飛んだせいか、全身がまだ小刻みに震え、気怠く痺れている。頭を膝に預けるなど畏れ多いことだと思うのに、指一本動かせる気がしなかった。
整いきらぬ息を細く震わせる緋立の眼前に、きらきらと小さな輝きを放つ一枚の料紙が広げられた。
『せめて水面の影だけでもと手を伸ばせば、思いもよらず天の月が舞い降りた。あまりの喜びに、どう言葉にすればよいのか見当もつかぬことだ――』
緋立がついに一度も開くことなく、中を見ぬままにしていた東宮からの文だった。
帰りの牛車の中ででも書いたものだろうか。気品ある手蹟が、感情の高まりを表すようにところどころ乱れている。
技巧を凝らした内容でもない、率直に思いを綴っただけの歌。
緋立はもっと早くにこれを見るべきだったのだ。そうすれば東宮の真意に気付くことができた。
東宮が望んでいたのは、初めから緋立本人だったのだ。
しかし、いかに東宮といえど、臣下である九重緋立に閨に侍れと命ずることはできない。
ならばその面影だけでもと妹姫の出仕を勧めても、当の緋立が是と言わない。それどころか、手の届かぬ仏門の奥へ送り込むと言う。
思い余って忍んで行けば、そこで待っていたのは美しい姫姿に装った九重緋立その人だった――。
二つ目の文にはますます募る愛しさが、三つ目の文にはすれ違いで会えぬ寂しさが綴られていた。
返事を任せた女房は、これらの文に何と書いて送ったのだろうか。京を去ると決めた時に件の女房にも暇を出したので、今はもう知るすべがない。
四つ目の文は、他に親しくする相手がいるのではないかと、嫉妬を覗かせる内容だった。
そして――。
東宮から私的に届いた最後の文には、こう書かれてあった。
『左大臣家の娘を女御として迎えることにした』と。
緋立は手を伸ばし、最後の文を手に取った。
何度目を走らせても、墨の跡は違う文字に化けはしない。
『左大臣家の娘を女御として迎えることにした』――冷たいほど整った手蹟から、不実な緋立への怒りが透けて見える。
女御の入内は中納言からも聞いた話だ。それを東宮自らの文で知らされたからと言って、今さら悲嘆に暮れる必要などどこにもない。
祝いの言葉を述べるべきだと頭では思うのに、喉がつかえて声が出せなかった。
凍り付いたように最後の文を見つめ続ける緋立の手から、東宮はその文を取り上げた。
「――その顔を見てみたかった」
頭上から降ってきた言葉に、緋立は俯いて顔を隠した。
宮中では表情を冷たく凍らせて『近衛府の凍る君』などと呼ばれている自分だが、油断するとすぐに心の裡が面に出るのは自覚している。
今はさぞかし醜い顔をしているのだろう。数にもならぬ身で、東宮の元に堂々と入内できる姫君を羨み、妬んでいるのだから。
黙り込んだまま一言も発さぬ緋立に、東宮はやれやれと溜息を一つ吐いた。
やがていつもの穏やかな声で、東宮は緋立に声を掛けた。
「女御として入内するのは、其方も良く知る龍田の君だ」
言葉が耳に届き、緋立は外つ国の言葉を聞いたかのように目を瞬いた。
何を言われたのかさっぱり理解できない。
東宮はそんな緋立に少し微笑うと、物わかりの悪い童に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「彼の姫はあまり身分が高くないので、後宮で要らぬ苦労をせぬように左大臣家の養女にした。新嘗祭が終わった後の吉日に、淑景舎の女御として宮中に入ることが決まっている。――良いか、緋立。これはもう決まっておるのだ」
最後の一言を格別強い調子にして、東宮は言い切った。
緋立は床に手を突き、体を起こした。東宮の顔を仰ぎ見る。
一体何が決まったと言うのだろうか。少し笑みを浮かべた東宮の顔を見つめてみても、答えは示されない。
緋立は所在無げに辺りを見回した。
よく見れば、この部屋の主は女人のようだ。燈台の灯りに美麗な蒔絵が施された調度が浮かび上がる。屏風には、十二単を纏った宮女たちの華やかな姿が色とりどりに描かれていた。
何気なく御帳台の上を見上げて、緋立はアッと声をあげそうになった。そこに飾られていたのは鏡だ。
見間違うはずもない、物心ついたころからずっと側にあった、明神が宿る銅鏡だった。
「あの鏡は――」
先んじて吉野へ送ったはずの銅鏡がなぜ此処にあるのか。
それを問おうとした緋立の言葉を、外からの従者の声が遮った。
「大宮様、そろそろ空が白んでまいりました。急ぎ宮中へお戻りを」
呆然と振り仰いだ緋立の顔を、立ち上がった東宮は会心の笑みとともに見下ろす。
支度を命じられて入ってきたのは乳兄弟の隼人だった。泣き出しそうな顔の従者の手には、新しく仕立てられた華やかな小袿と、見慣れた長い髢が載せられていた。
ここに至って、緋立は己がすっかり追いこまれていることを、やっと悟った。
一番の腹心である隼人をとっくに懐柔されていたのだ。
緋立の行動はすべて東宮に筒抜けだったはずだ。
朝にならねば届かぬはずの知らせを待つまでもなく、いつどのように京を出るかをすべて把握した上で、東宮は罠を張ってこの屋敷に緋立を誘い込んだのだ。
「此処は左大臣家の別邸だ。九重の屋敷は盗人が出て物騒ゆえ、入内の日までこの屋敷で心安んじて過ごすが良い。九重の家の者もこちらに移してあるから心配はいらぬ」
別邸の従者に支度を手伝わせながら、東宮は高貴の人らしい虫も殺さぬ笑みを浮かべて言った。
盗人というのが誰を指すのかは考えるまでもない。何も知らぬ哀れな中納言のことだろう。東宮はすべてを知っているらしい。
隼人を始めとする主だった家人も、明神が宿る銅鏡も、すべて東宮の手の中だ。
そのことに気が付いても、もう遅い。退路は既に断たれている――。
手早く身支度を終えた東宮は、床に座り込んだまま動けない緋立を振り返ると、手を伸ばして頬に触れた。
口元から笑みが消え、両目がまっすぐに緋立を射抜く。
低く押し殺した声で東宮は囁いた。
「緋立……其方が私を厭うて京を捨てるなら、耐えて手放してやるつもりであった。だがそうでないのだから、もう逃がしはせぬ」
声は情欲を孕んで掠れている。東宮が胸に秘める想いの激しさを、緋立は垣間見たような気がした。
魑魅魍魎が跋扈する宮中で、東宮は柔和な貌の裏に激情を隠し生きてきた。
その素顔の一端を、緋立にだけ見せたのだ。
なりふり構わず策を講じ、情熱のありったけをこめて、緋立を手の中に奪い取ることで。
東宮が逃がさぬと言葉にした以上、どれほど足掻いても逃げられはすまい。――そして、緋立にももう逃げるつもりはなかった。
泣き笑いで微笑んで、緋立は頬の手に掌を重ねた。
「どうぞ……私のことは、龍田とお呼びください」
東宮が驚いたように軽く目を見開き、次いで滲むような笑みを零れさせた。
この笑みが、東宮が心から浮かべる本当の笑みなのだろう。
「龍田……」
束の間の別れを惜しむように、東宮が身を屈めて唇を寄せてくる。
緋立は伸び上がって、自分からその唇に接吻した。奥ゆかしい黒方の香が鼻を擽るのを感じて、胸の奥から得も言われぬ幸福感が湧き上がる。
東宮が身分も性も関係なく生身の緋立を求めたように、緋立の望みも東宮の側に居ることだ。
男の身で入内するなど正気の沙汰ではないが、恋とは人を狂わせるもの。それがこれほど幸福なものならば、狂気に溺れるのも悪くはない。
それに――。
明神の加護もまだ失われてはいないはずだ。
それが証拠に、緋立は『女』としてこれ以上望むべくもない、女御という地位を手に入れたのだから。
加護の恩恵はきっと東宮と都を守ってくれるに違いない。
「どうか、御身に末永くお仕えさせてください……」
九重の龍田の願いを受けて、緋に染まった吉野の山がザワリと揺れた。
聞き入れたぞと、山の明神が応えたようにも見えたが、京の都にそれを知るものはいなかった――。
気をやりすぎて何度か意識が飛んだせいか、全身がまだ小刻みに震え、気怠く痺れている。頭を膝に預けるなど畏れ多いことだと思うのに、指一本動かせる気がしなかった。
整いきらぬ息を細く震わせる緋立の眼前に、きらきらと小さな輝きを放つ一枚の料紙が広げられた。
『せめて水面の影だけでもと手を伸ばせば、思いもよらず天の月が舞い降りた。あまりの喜びに、どう言葉にすればよいのか見当もつかぬことだ――』
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しかし、いかに東宮といえど、臣下である九重緋立に閨に侍れと命ずることはできない。
ならばその面影だけでもと妹姫の出仕を勧めても、当の緋立が是と言わない。それどころか、手の届かぬ仏門の奥へ送り込むと言う。
思い余って忍んで行けば、そこで待っていたのは美しい姫姿に装った九重緋立その人だった――。
二つ目の文にはますます募る愛しさが、三つ目の文にはすれ違いで会えぬ寂しさが綴られていた。
返事を任せた女房は、これらの文に何と書いて送ったのだろうか。京を去ると決めた時に件の女房にも暇を出したので、今はもう知るすべがない。
四つ目の文は、他に親しくする相手がいるのではないかと、嫉妬を覗かせる内容だった。
そして――。
東宮から私的に届いた最後の文には、こう書かれてあった。
『左大臣家の娘を女御として迎えることにした』と。
緋立は手を伸ばし、最後の文を手に取った。
何度目を走らせても、墨の跡は違う文字に化けはしない。
『左大臣家の娘を女御として迎えることにした』――冷たいほど整った手蹟から、不実な緋立への怒りが透けて見える。
女御の入内は中納言からも聞いた話だ。それを東宮自らの文で知らされたからと言って、今さら悲嘆に暮れる必要などどこにもない。
祝いの言葉を述べるべきだと頭では思うのに、喉がつかえて声が出せなかった。
凍り付いたように最後の文を見つめ続ける緋立の手から、東宮はその文を取り上げた。
「――その顔を見てみたかった」
頭上から降ってきた言葉に、緋立は俯いて顔を隠した。
宮中では表情を冷たく凍らせて『近衛府の凍る君』などと呼ばれている自分だが、油断するとすぐに心の裡が面に出るのは自覚している。
今はさぞかし醜い顔をしているのだろう。数にもならぬ身で、東宮の元に堂々と入内できる姫君を羨み、妬んでいるのだから。
黙り込んだまま一言も発さぬ緋立に、東宮はやれやれと溜息を一つ吐いた。
やがていつもの穏やかな声で、東宮は緋立に声を掛けた。
「女御として入内するのは、其方も良く知る龍田の君だ」
言葉が耳に届き、緋立は外つ国の言葉を聞いたかのように目を瞬いた。
何を言われたのかさっぱり理解できない。
東宮はそんな緋立に少し微笑うと、物わかりの悪い童に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「彼の姫はあまり身分が高くないので、後宮で要らぬ苦労をせぬように左大臣家の養女にした。新嘗祭が終わった後の吉日に、淑景舎の女御として宮中に入ることが決まっている。――良いか、緋立。これはもう決まっておるのだ」
最後の一言を格別強い調子にして、東宮は言い切った。
緋立は床に手を突き、体を起こした。東宮の顔を仰ぎ見る。
一体何が決まったと言うのだろうか。少し笑みを浮かべた東宮の顔を見つめてみても、答えは示されない。
緋立は所在無げに辺りを見回した。
よく見れば、この部屋の主は女人のようだ。燈台の灯りに美麗な蒔絵が施された調度が浮かび上がる。屏風には、十二単を纏った宮女たちの華やかな姿が色とりどりに描かれていた。
何気なく御帳台の上を見上げて、緋立はアッと声をあげそうになった。そこに飾られていたのは鏡だ。
見間違うはずもない、物心ついたころからずっと側にあった、明神が宿る銅鏡だった。
「あの鏡は――」
先んじて吉野へ送ったはずの銅鏡がなぜ此処にあるのか。
それを問おうとした緋立の言葉を、外からの従者の声が遮った。
「大宮様、そろそろ空が白んでまいりました。急ぎ宮中へお戻りを」
呆然と振り仰いだ緋立の顔を、立ち上がった東宮は会心の笑みとともに見下ろす。
支度を命じられて入ってきたのは乳兄弟の隼人だった。泣き出しそうな顔の従者の手には、新しく仕立てられた華やかな小袿と、見慣れた長い髢が載せられていた。
ここに至って、緋立は己がすっかり追いこまれていることを、やっと悟った。
一番の腹心である隼人をとっくに懐柔されていたのだ。
緋立の行動はすべて東宮に筒抜けだったはずだ。
朝にならねば届かぬはずの知らせを待つまでもなく、いつどのように京を出るかをすべて把握した上で、東宮は罠を張ってこの屋敷に緋立を誘い込んだのだ。
「此処は左大臣家の別邸だ。九重の屋敷は盗人が出て物騒ゆえ、入内の日までこの屋敷で心安んじて過ごすが良い。九重の家の者もこちらに移してあるから心配はいらぬ」
別邸の従者に支度を手伝わせながら、東宮は高貴の人らしい虫も殺さぬ笑みを浮かべて言った。
盗人というのが誰を指すのかは考えるまでもない。何も知らぬ哀れな中納言のことだろう。東宮はすべてを知っているらしい。
隼人を始めとする主だった家人も、明神が宿る銅鏡も、すべて東宮の手の中だ。
そのことに気が付いても、もう遅い。退路は既に断たれている――。
手早く身支度を終えた東宮は、床に座り込んだまま動けない緋立を振り返ると、手を伸ばして頬に触れた。
口元から笑みが消え、両目がまっすぐに緋立を射抜く。
低く押し殺した声で東宮は囁いた。
「緋立……其方が私を厭うて京を捨てるなら、耐えて手放してやるつもりであった。だがそうでないのだから、もう逃がしはせぬ」
声は情欲を孕んで掠れている。東宮が胸に秘める想いの激しさを、緋立は垣間見たような気がした。
魑魅魍魎が跋扈する宮中で、東宮は柔和な貌の裏に激情を隠し生きてきた。
その素顔の一端を、緋立にだけ見せたのだ。
なりふり構わず策を講じ、情熱のありったけをこめて、緋立を手の中に奪い取ることで。
東宮が逃がさぬと言葉にした以上、どれほど足掻いても逃げられはすまい。――そして、緋立にももう逃げるつもりはなかった。
泣き笑いで微笑んで、緋立は頬の手に掌を重ねた。
「どうぞ……私のことは、龍田とお呼びください」
東宮が驚いたように軽く目を見開き、次いで滲むような笑みを零れさせた。
この笑みが、東宮が心から浮かべる本当の笑みなのだろう。
「龍田……」
束の間の別れを惜しむように、東宮が身を屈めて唇を寄せてくる。
緋立は伸び上がって、自分からその唇に接吻した。奥ゆかしい黒方の香が鼻を擽るのを感じて、胸の奥から得も言われぬ幸福感が湧き上がる。
東宮が身分も性も関係なく生身の緋立を求めたように、緋立の望みも東宮の側に居ることだ。
男の身で入内するなど正気の沙汰ではないが、恋とは人を狂わせるもの。それがこれほど幸福なものならば、狂気に溺れるのも悪くはない。
それに――。
明神の加護もまだ失われてはいないはずだ。
それが証拠に、緋立は『女』としてこれ以上望むべくもない、女御という地位を手に入れたのだから。
加護の恩恵はきっと東宮と都を守ってくれるに違いない。
「どうか、御身に末永くお仕えさせてください……」
九重の龍田の願いを受けて、緋に染まった吉野の山がザワリと揺れた。
聞き入れたぞと、山の明神が応えたようにも見えたが、京の都にそれを知るものはいなかった――。
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