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近衛の少将は中納言に身を委ねる

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 藤原ふじわらの玄馬くろうま
 ――左大臣家に縁あるこの中納言は、とかく色めいた噂に事欠かない男だ。
 先年、長く連れ添った北の方を病で亡くしたらしい。それ以来中納言は、妙齢の姫ばかりでなく未亡人や若い官吏にまで恋歌を送り、いくつもの戯れの恋に耽っているという話を聞く。
 多情、移り気、享楽的。
 そのような悪評の持ち主であるにも関わらず、玄馬の恋の相手は尽きることがない。
 男盛りで妻を亡くした中納言は、管弦の名手であるだけでなく、堂々たる風格の美男でもある。
 恋の駆け引きや夜這いの手管にも長けており、一夜でも共寝をすると二度と忘れられなくなると、もっぱらの噂だ。権勢藤原家の一門であり、若くして三位の位に就いていることも無論大きい。
 緋立の『妹姫』の元へも、以前から何度か恋文が届けられていた。
 届いた文は手蹟も見事なら、詠まれた歌もさすがは恋の達者よと唸らせるものだった。
 だが先日の歌合で、緋立が『妹はいずれ仏門に入る』と言ったのを、この中納言も聞いていたはずだ。
 望みがないことは悟っただろうと思っていたのだが……。


「隠れて咲く花を一目見んと忍んできたが。妙なる調べにすっかり心奪われた」
 仏門に入る前に花を手折らんと、夜這いを仕掛けに来たものらしい。
 その傲慢さに呆れるよりも、続いた言葉が緋立に息を呑ませた。
 ――中納言の言う『妙なる調べ』とは、己が東宮に組み敷かれて発していた声のことではないか。
 ハッとなった時には、一回り大きな体がすぐ目の前にあった。
「中納、言さ……ッ!」
 後ずさろうとして足が縺れる。倒れそうになった体を腕に軽々と抱いて、中納言は緋立を部屋の中へと引きずり込んだ。
 乱れたままの几帳に、脱ぎ散らされた袴と袍。
 微かな黒方の残り香を打ち消して、誤魔化しようのない精の匂いが部屋には残っていた。
「晩熟とばかり思っていたが、九重の少将どのは男の方をお好みだったか」
「ちが……ッ」
 掴まれた腕を振り払おうとしたが、散々東宮に責め立てられたせいで足元が定まらない。
 よろめく緋立を中納言は腕に抱き寄せ、囁いた。
「ならばあれは合意の上ではなかったということか。……道理で苦しげな呻きばかりが聞こえたものだ」
 その言葉に目の前が真っ暗になって、緋立はガクリと膝を突いた。


 いつから階の下に潜んでいたのだろう。この男に、東宮との交わりの声を聴かれてしまっていた。
 どうしていいかわからぬほどの恐慌が緋立を襲い、体中の力が抜けそうだった。
 今にもしゃがみこんでしまいそうな緋立を、中納言は狩衣の袖で包みこむように抱くと、ゆるりと床に腰を下ろした。
 腰に響く声で、低く囁く。
「私にも少しばかりの力はある。如何なる事情があるかは聞かぬが、無体を強いる輩を追い払ってやろうか」
 無体、と言われて、緋立は部屋を見回した。


 几帳は捲れ、酒を載せた高坏は隅に追いやられている。
 脱ぎ散らした装束があちこちに散乱し、部屋はまるで夜盗あたりが力づくで押し入ったような様相を呈していた。
 これでは誤解されるのも無理はない。
「いいえ……あれは……」
 取り繕おうとして、緋立は言葉を詰まらせた。


 無体を強いられたのは事実だ。緋立はこのようなことは望まなかった。
 交合は苦しいばかりで、今もまだ下腹に鈍痛が残っている。今後はどんな顔をして出仕すればいいかと思うと、絶望で胸を塞がれそうだ。
 だが、中納言に助けを求めることはできない。
 うかうかと口にできることではなく、言ったところで何になるだろう。相手は東宮だ。恥の上塗りをするだけでは済まない。
 男の恋人を通わせていると思わせておくのが、一番穏便に済む。
「あれは……ただ、私が不慣れなだけで…………」
 頭ではそう思わせておくべきだとわかっていても、実際に言葉にするのは屈辱的だった。
 あれは逢瀬などという甘やかなものではないし、合意の上でもなかった。そこらの端女のように襲われて、手慰みにされただけだ。
 東宮を謀ったことへの罰を受けたのだ。
「恋しい御方との……逢瀬だったのです」
 絞り出すように言いきった声は震えていた。
 表情が言葉を裏切っていることにも、緋立は気づかなかった。


「……そうか。不慣れ、か」
 中納言の声が一層低くなった。
 声が怒りを含んでいることに気付いて、緋立はハッと男を振り仰いだ。
 典雅というよりは幾分野性的な、油断ならない獣のような瞳が緋立を見据えていた。
 余計な詮索をされたくない一心で偽ったが、安易な誤魔化しは男を怒らせたようだ。
「――ならば私が慣らしてやろう」
「ッ!」
 言うが早いか、緋立を抱きすくめていた大きな手が、単衣の袷から内腿に滑り込んだ。
「中納言様!」
 腰のあたりに硬くなった中納言の屹立が押し当てられていた。
 屈辱と怖れが緋立を襲う。


 たった今、東宮との夜伽を歯を食いしばって耐えたばかりだというのに、あの苦痛をもう一度味わえと言うのか。
 浮かれ女のように、男を通わせたばかりの肉体に次の男を受け入れよと。
「おやめください、中納言様!」
「大人しくせよ。私に口を閉じていて欲しいのならば、な」
 助けてやろうという中納言の申し出を、緋立は見え透いた嘘で拒絶しようとした。余計なことをするな、詮索は無用だと退けたに等しい。
 それが男の矜持に障ったのだろう。
 ならば口外せぬ代わりに、それ相応の見返りを寄越せと男は言うのだ。


「……それは……」
 この夜のことを口外されるわけにはいかない。
 いずれの姫君の元へも通わぬ緋立が、実は屋敷に男を通わせていたなどと語られれば、噂はあっという間に広まるだろう。誰も彼もが他人を蹴落とそうと目を光らせているのが、宮中というところだ。
 東宮が緋立に目をかけていることは、多くの者が知っている。まさかとは思うが、東宮が屋敷に入るところを誰かに見られでもしていたら、いったいどうなることか。
 次の帝となるべき東宮が宮中を抜け出し、男の元へと通っていた――物の怪にでもとり憑かれたかと、人々は疑うに違いない。
 公卿たちは一斉に背を向け、場合によっては廃嫡さえもあり得るかもしれない。
 そんな事態を招くわけにはいかなかった。


「どうか……他言無用に……」
 緋立は体の力を抜いて、中納言に身を預けた。
 恋多き遊蕩貴族の、一時の戯れだ。少しの間言いなりになることで丸く収まるというのなら、これ以上のことはない。
「少将……」
 中納言の力強い腕が、後ろから緋立を抱き寄せた。深みのある華やかな香りが匂い立つ。
 鼻の奥に僅かに残っていた黒方の名残が、中納言の焚き染めた香に塗り換えられていく。
「……怖がるな。乱暴するつもりはない」
 首筋に男の吐息がかかり、低い声が耳朶を優しく擽った。
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