九重の姫♂は出世を所望する

ごいち

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龍田の姫は夜這いに遭遇す

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 几帳の影から男が一人、姿を現した。
「ッ!」
 咄嗟に顔を背けて、緋立は手に持った扇で顔を隠した。
 一瞬しか見えなかったが、相手は夜盗などではない。直衣に烏帽子――身分卑しからぬ風情の貴族の男だった。
 『妹姫』の噂を確かめようと忍んできた遊蕩貴族に違いない。いったいどうやって追い返したものか。
 思案する緋立の耳に、忍んできた男の低めた声が聞こえた。
「ただ一目お会いしたくて、こちらに忍んで参ったのです」
 どこかで聞いたような声だ。だが気が動転して思い出せない。
 広げた檜扇で顔を隠しながら、緋立は囁くように小さく懇願した。
「……お帰りください……」
 何者かは知れないが、名のある貴族ならば宮中で顔を合わせたこともあるだろう。顔や声を知られて正体を見破られればとんだ笑い者だ。
 何としても、今すぐ追い返さねばならない。
「私は明日にも仏門に入る身です。どうぞこのままお帰りください……」
 か細く出した裏声は、焦りで震えを帯びていた。
 声を上げて人を呼ぶわけにもいかず、呼んだとて、朝までこの西の対の屋には近寄らないよう言いつけてあるので来る者もない。
 しかも大声を出せば男だとばれてしまう。
 神棚の灯りは小さく揺れて、神事の刻が続いていることを告げている。今はまだ、ここから逃げるわけにもいかない。
 八方塞がりだ。
 何とかして上手く言い包めて、男を追い返す以外にない。
 そうでなければ、出世の道がご破算だ。


 焦る緋立を追い詰めるように、男の声は徐々に近づいてくる。
「どうか教えてください。貴女はその若さで、なにゆえ仏門に下ろうとおっしゃる……?」
 汗で絡みつく装束に閉口しながら、じりじりと這って隅へと逃げる。長袴の裾が邪魔で、思うように進めない。その緋立を追って、男の声も少しずつ近づいてきた。
 これ以上距離を詰められれば、いよいよ危ない。
 ええい、男の姿であれば怒鳴りつけて追い出してやるものをと歯噛みしながら、緋立は忙しなく考えを巡らせた。
 今日の歌合せでは、なんと言って出仕の話を逃れたのだったか。
「あ、あの、それは……人前に出られぬような……悪しき姿を……」
 逃げながらたどたどしく口実を並べていた緋立は、腰の高さの格子戸に行き当たって、思わず舌打ちしそうになった。気が動転して這い逃げるうちに、いつの間にか部屋の端に来てしまったのだ。
 隼人が上げていったのは二枚格子の上だけで、下半分の格子は閉じたままだった。
 姫姿でこれを乗り越えるのはさすがに無理だ。
 要するに、緋立はすっかり袋の鼠だった。
「御姿がどうであれ、貴女の声は兄君と同じく聡明だ。何も仏門に入らずとも良いのではありませんか」
 背後から迫る声はますます近い。
 兄君と同じくも何も、当の本人だ。
 そう言い放つこともできずに、緋立は泣きそうになった。


 うっかり戸を開けたまま寝入った挙句に、男に夜這いを掛けられている。
 今の状況で、聡明だ何だと言われてもただ虚しいだけだ。それに案じた通り、男は緋立の顔見知りらしい。
 男の部屋に間違って夜這いにくるような阿呆はいったい誰だ。
 そう思いながら、格子に縋って手足を小さく縮めたところで、緋立は声にならない呻きを上げた。もう一つ大きな失態を犯していたことに気付いてしまったのだ。
 ――身軽になろうと袴の紐を緩めたせいで、袴が大方脱げかかっていた。
「あぁぁ……」
 絶望の溜息が漏れた。これではどうぞ奪ってくださいと誘いをかけているようなものだ。
 焦って袴を引き上げようとするが、裾を男に踏まれている。
「せめて名を教えていただけませんか。何も得ずに帰るわけには参りませんから」
 人の袴を踏みつけておきながら、男はいかにも誠実そうな物言いで迫ってくる。
 必死になって腰紐を手繰り寄せながら、緋立は扇の影からチラリと後ろを盗み見た。


 男はすぐ後ろまで迫っている。
 脱いだ袿は男の背後に投げ捨てられ、身に着けているのは紐が緩んだ袴と小袖だけ。下着姿以下だ。
 唯一武器になりそうな脇息も手の届かぬところに転がっている。
 ――絶体絶命とは、このことか。


「……た、龍田……」
 絶望で頭が真っ白になりながら、緋立は名乗った。
 明神に仕えるために付けられた女名、気丈な性質を表す荒々しい川の名だ。


「龍田の君……」
 男が名を呟いた。
 名を知れば満足して去ってくれるかと、淡い希望が胸に宿った。――だが次の瞬間、緋立の身体は男の腕に抱き上げられていた。
「や、やめよ!」
 思わず素の声が口から出て、緋立は慌てて口を塞いだ。
 その声に驚いたのか、あるいは嫋やかな姫君だと思っていた相手が存外大柄であったせいか、男は均衡を崩して緋立ごと雪崩れるように床に倒れ込んだ。
「アッ……」
「うっ」
 投げ出された衝撃で檜扇が手から滑り落ちる。
 緋立の見開いた眼に、驚愕を浮かべた青年の顔が一瞬映った。


「緋立……」
 愕然としたような男の呟きと同時に灯りが掻き消えた。燈火の芯がやっと燃え尽きたのだ。
 背中から圧し掛かられ、間近に男の息遣いを浴びながら、緋立はただ震えていた。


 ――夜這いにやってきたのは、内裏の外にいるはずもない、東宮その人だったからだ。

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