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172.何故
しおりを挟む「なぜ?」
表情一つ変えずいつも通りノワは言葉少なに、質問してくる。必要最低限のみを話す伏月型の唇以外はピクリともせず、ガラス玉のような瞳は瞬きさえしているのか分からない。
「偶然だ」
警戒するジャニスティもまた余計なことは語らず、しかしその目線はしっかりと、彼女を捕らえたままである。
「そうですか。ジャニスティ様、もうすぐ旦那様がお出掛けになります」
「――ッ!?」
彼は一瞬、眉をひそめる。
それはまるで自分が何をするために裏中庭を通ったのかを知っているような口ぶりだったからだ。
そうして彼女から時間を伝えられ、その言葉にますます警戒を強めた彼は怪訝な表情で、立ち上がった。
「……」
ジャニスティの視線を感じてもなお、彼女は表情一つ崩さない。
その立ち姿はまるで真っ直ぐと伸びる優美な、芍薬の花のようである。そんなノワの背丈は意外にもジャニスティの肩へ届かない程、小柄。
色白で華奢な印象――まるで本物の人形のように美しく、そして弱々しく見える彼女からは想像できない、本来の姿――無機質な雰囲気ともの静かな口調、近寄りがたい程の重厚感を兼ね備えているのだ。
サラ……さらさら――。
そんな彼女の身体で唯一普通に動くのが見えた部分も自発的にではない。緩やかな風が悪戯するように吹き、サラッと揺れる――長く艶のある黒髪だけであった。
「絹糸……あれは」
ジャニスティは目の前で起こったその光景にふと、あることを思う。
――さっきの桁違いに強かった気は、まさか……この子だったのか!?
警戒心や恐怖心ではない“何か”とは――“無”の感覚。
目を閉じ暗闇の世界で感じたあの切なさと、涙。そして美しい絹糸のイメージ全てが、目の前に立つノワへと繋がっていく。
(不思議だ。感情の見えないノワが、涙を?)
じっと考え込んでしまったジャニスティとの、しばしの沈黙。その空気に耐えかねたのか先に口を切ったのは、ノワである。
「何か?」
「あぁ、いや何でも」
「では、私はこれで」
そう言って軽く会釈をした彼女が歩き出そうとすると彼の言葉に、呼び止められた。
「何故、黙っていた?」
「……何がでしょう」
「私が此処に隠れていたことを言わず、何故、突き出すこともしなかったのか。とても不思議でね」
彼女は向き直り、一言。
「必要ないからです」
「どういうことだ? 君は奥様の――」
「失礼致します」
核心に迫ろうとした彼の声を遮り歩き出したノワの声は珍しく、微かに上ずっていた。
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