一夜限りの遊園地

菜乃ひめ可

文字の大きさ
上 下
1 / 1

dreamy time……

しおりを挟む

――空に浮かぶ白い雲のように、自由になりたい。

 ふと、そんなことを思い控室の天井を見上げた私は、今日も決められたコーディネートの洋服と靴、アクセサリーや小物に視線を戻す。

「お着替え終わりましたら、お呼びくださーい」
「はい、ありがとうございます」

 “キィ、ガチャリ――”

 ヘアメイク担当の女性は明るい声と笑顔で入口で待つと言い、一旦部屋から退室していく。

「ふぅ。私に、気なんて遣わなくてもいいのに」

 “シュルル……シャッ――”

 控室で一人になった私はそう呟き、カーテン付きのフィッティングルームへ入ると、急いで洋服を着替え準備をする。

「今日は、あぁ……こないだの」
(黒を基調にしたパンツスタイルで、差し色が――)

 常に流行の最先端を優雅に歩き進んでいかなければならない私にとって、衣装の細かい確認は日々のルーチンみたいなものだ。

 “シュッ――”
 早着替えを終わらせフィッティングルームを出ると、今日履く予定の靴がズラリと並んだ棚が目に入った。

(そういえば、何足ぐらいあるんだろう)

 初めて見て聞いた人は皆驚くが、ここに並ぶ色とりどりの靴全てが自分のサイズぴったりに、私の為だけに特注で作られたもの。

「この色……うん。これにしよ」

 いつものように衣装に合う靴を選び手に取ると、自分の足元へ置く。今日はハイヒールの中でもかかとが十センチ以上ある、キュッと細いピンヒールにした。

 ゆっくりと目を瞑り、自分が歩く姿を頭の中でイメージしていく。

 “カッ、コッ、コツ――コツン”

(うん、いい感じ)

 どんなに疲れ果てていたとしても、私の足はいつだって目の前で出番を待つ靴に、まるで吸い込まれるようにスッと入る。

「髪型は、ハーフアップに帽子で――はぁ……」

 イメージの半分が出来上がった“今日の私”を姿見でじっと見つめ確認していると、思わず深い溜息をついてしまった。

(私って“誰”? なのかな)

「あっ! いけない、いけない」
 ふと、そんなことを考えてしまった自分を戒めるように首を横に振る。


 本当は甘く可愛いらしいフリルワンピースに、バレエシューズみたいなフラットパンプスを履いてみたい。仕事帰りには友人とウィンドウショッピングで胸弾ませたり、お食事デートでドキドキ待ち合わせしたり。休日にはカジュアルで動きやすいカーゴ系のパンツに、真っ白なスポーツシューズとボーイッシュな雰囲気で、グリーンパークを走ってみたり……。


 自分の心が赴くままに。好きな格好をして、人の目なんて気にせずに行きたい場所へとお出かけがしたい。

――でも、今の私には。
「夢みたいな話、だよね」



SAOKAサオカさん! 本日のスタイルは、知的で出来る女性という印象ですね! 控えめな小物使いに美しい色合いのスカーフ……そのピアスがさりげない」

「ありがとうございます」

「お疲れさまです~SAOKAサオカさ~ん! 今日もエレガントで素敵ですねぇ! こちらにも笑顔を! こっちです~お願いします!!」

「はい、ありがとう。嬉しいです」


 三歳の時からキッズモデルとして活躍し皆に愛されてきた私は両親からの冷め止まぬ応援を背に、今日まで大切に大切に育てられ、守られてきた。
 

 この日は起用された有名雑誌の表紙発表、その発売前インタビューが某高級ホテルで催された。私はその主役という仕事を担い立つ。

「いやぁ~いつ見ても、彼女は神々しいね……」
「ですよねぇ、素敵……って、あ! あの服」
「えぇ、もしかして! 今日SAOKAサオカさんがお召しになっていらっしゃるお洋服は!?」

「はい、そうです。先日の『ミライ・ロイヤルコレクション』にゲストとしてお呼ばれした際に、頂いた衣装です」

「「「「お~おぉぉぉ!!」」」」

 今年の夏、おかげさまで二十七歳になる。
 ずっとモデルとして活躍してきた私だが、もちろん他の業種に興味を持たなかったわけではない。これまで俳優やタレント業界からも多くの声がかかり、瞳を輝かせた一瞬もあったが、その度に「当社が大事にしている“SAOKAサオカ”という人物のイメージを壊しかねない」と事務所から丁重にお断りとの一言で、終了。

――私の“考え”は、尋ねてすらもらえなくて。

 ずっと大人の煌びやかな世界にいた私は、いつも年齢とは不釣り合いなメイクやアクセサリーに髪型。着せ替え人形のように一日のうち何度も何度も衣装を着替え、それでも変わらない笑顔でいることがいつも求められてきた。

 それが幼い頃から指導されたプロとしての意識であり『SAOKAサオカ』という人物。

 もちろん長年のモデルとしての経験で、衣装やヘアアレンジ等に関しては特に自分のこだわりと志を強く持ち、意見もする。しかしそれ以外は、自己主張しない……してはいけないのだと思い信じ、生きてきたのだ。


SAOサオ、そろそろ」
「あっ、はい。皆様、失礼します」

 記者の方々からのインタビューの途中、マネージャーの理沙さんが呼びに来た。今日もこうして、時間との戦い――そして。

【それでは本日の主役、SAOKAサオカさんより、一言ご挨拶をお願いします】

 パチパチ、パチパチ――!!

 司会進行アナウンスで、会場には大きな拍手が沸き起こる。その中を颯爽と登場する私は、期待に応えられるように今日も変わらぬ笑顔でステージへと上がり、皆が憧れるモデルの“SAOKAサオカ”として、挨拶を始めた。

「皆様こんにちは、SAOKAサオカです。本日は――」


――それから、数週間後のこと。

 モデル事務所という名の煌びやかな宝石に包まれた宝箱で、大事に大事に守られてきた“箱入り娘”な私の心奥に、本当の“自分”が存在するということを気付かせてくれる出来事が起こる。

 たった一度の“夢時間”。
 それは私の人生を大きく変える、奇跡のような出逢いだった。




「いいですねぇ、SAOKAサオカさん! 今日も抜群のプロポーションに完璧なコーディネート、そしてトレードマークの美しい“ヒール”が光ってます!」

「ありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」


 ♪~~♫~~♩――――♫
 キャーキャー!
 わぁぁ~きゃはははぁ!!
 待ってー!


「わぁ……すごい!」
(いろんな“音”が、聞こえる)

 汗ばむような太陽の光を反射しながら跳ねる乗り物、はしゃいで走り回る子供たちの笑い声、幸せそうに肩を寄せ合う人々。

(ここには、楽しいがいっぱい溢れてる)

 この日、新規契約雑誌の撮影で訪れた現場は、来たことのない場所。

「あら? そっか、SAOサオは遊園地来たことなかったわねぇ」

 テレビも滅多に見ない私はたくさんのアトラクションに驚き、初めての感情と湧き上がる好奇心が、思わず顔に出てしまう。それに気付いた理沙さんが少しだけ悲し気に眉尻を下げ、声をかけてきた。

「ん、そう……だったかな。あぁ、なんだか平日なのに人が多いね~」

 サッと作り笑い、意識を元に戻す。
 そう、私はカッコ良くスマートに立ち振る舞う。
 何があっても動じない――『SAOKAサオカ』なのだから。

「理沙さん、行こう」
SAOサオ……えぇ、そうね」

 その後、遊園地スタッフの方に案内されながら撮影場所まで向かった。



「お~疲れさんでした! SAOKAサオカちゃん、さすがだよねぇ。こっちが思った通りに動いてくれるから早い早い! おかげで良い写真撮れたよ」

「いえ、そんな……佐茂さんの的確な指示のおかげです。本当にいつもありがとうございます」

「そう? ははは。あっ、そうだ~良かったら今から食事でもどう?」
「あ、いえ……明日、朝が早いので」

 ここ数年、屋外撮影の時は佐茂さんというアパレル界では有名なカメラマンが担当してくれていた。そしてこれが撮影後に決まって言う社交辞令、食事のお誘いで、それを私はやんわりお断りする。これは誰であっても外食には気を使う事務所の意向もあり、私もそれを理由に返事が出来るので本音では助かっていた。

 しかし、この日。

 “パシッ――”

「待ってよ」
「ぁ、あの、佐茂さん?」

 相手の様子が少し違った。
 帰ろうとした私の腕は、痛いくらいに強く掴まれ引き留められる。

「今日、実はさ。マネージャーさんから、ちゃんとOKもらってるんだよね。だからSAOKAサオカちゃん。今日は、ぜひとも!!」

「えっ……ぃぇ、ぁ」
「あはは、まぁ今日は気楽に。みたいな感じだから」

「……」

 そう言い笑いながら手を離し、冗談っぽく話す佐茂さん。

――事務所がOK? まさか、許すはず……ない。
(じゃあ、どういうこと?)

 目の前にいる佐茂さんが食事の許可をもらったと自信満々な姿とその言葉が信じられず、声が出ない。

 頭の中が混乱して情報の処理が追い付かない私は、黙りこくったまま動揺していると、側に駆け寄ってきた理沙さんがスッと耳打ちしてきた。

SAOサオ、ごめん。佐茂さんがずっと前から、うちの事務所に打診していたらしいのよ。貴女と食事がしたいって』

『そ、それはとても光栄なことだけれど。でも』

『今後の仕事に響くといけないからって、今回だけ了承したの。本当よ、今日だけだから。もちろん、うちの事務所が準備したお店に行ってもらうわ。二人きりにはならないし、信用できる場所よ。予約もしてあるから』

『そんな……どうして』
(いつも、私に聞かないで決めて、何も言ってくれないの?)

『あの人、気に入ってるらしいのよ、貴女の事が』
『……』
(どんなに無理なことでも、逆に我慢しなきゃいけないことも。事務所の意向だからって、今までは“仕事”のためだからって、笑顔で割り切れてた)

――でも!

『お願いね。もう子供じゃないんだから』

『……ぃゃ』
(そうだよ、子供じゃない)

――どうして? そこまで決められなくちゃいけないの!?


「じゃあ、SAOKAサオカちゃん! 後でね」

 満面の笑みで去って行くカメラマンの佐茂さんに背を向けてしまった私。決して、佐茂さんの事が嫌いとかそういうことではない。写真家としてのセンスや技術は抜群で、人としても尊敬してる。

SAOサオも早く着替えてね。準備しないとお待たせしてしまうわ」

 私だって――っ!!

「……もう、嫌」
「えっ?」

「もう嫌ッ!! ずっとずっと言うこと聞いて……私は」
(操り人形なんかじゃない!)

 バッ――!!

「ちょっ! サオッ?! 待ちなさい!!!!」

 理沙さんの手と声を振り払うと、私は走り出した。どこへ向かうのかも分からずに、ただただ遠くへ、行ってしまいたくて。

「い、痛っ!?」

 しばらくすると、いつも履き慣れているはずの高いヒールの靴が痛くなり、邪魔で仕方なくなる。私は途中で脱ぎ手に持つと、裸足でまた走り出した。それはまるで『SAOKAサオカ』という創られた人物を、脱ぎ捨てるように――。


 ガチャッ――バタンっ!

「はぁ、はぁ、はぁ……」
(逃げて、きちゃった)

 何も考えられず、無我夢中で走り続けて見つけた小さな小屋。そこに逃げ込み扉を閉めた瞬間、我に返る。今まで一度も事務所に逆らったことなどない私は突如、経験のない恐怖心に襲われ始めた。

「どうしよう……」
(初めて、自分の本音を言ったかもしれない)

 しかし不思議と、後悔は感じていなかった。

 それでもこれまで積み重ねてきた実績や信頼、その全てが今後どのように作用するのか先が見えずに、不安な気持ちになっていく。

 私は扉に寄りかかったまま、するすると座り込んだ。
 様々な思いが交錯し、どうしたらいいのかとの戸惑いから目に涙が溢れるのを必死でこらえていると、後ろから、柔らかい声が――。

「君、どうしたの?」
「んぁぅ?!」

 人がいるとは思っていなかった私は驚き振り返ると、溢れそうだった涙よりも先に、周りが見えなくなっていた自分の行動への恥ずかしさが込み上げる。そして視線を逸らすように部屋の中を見渡すと、自分が駆け込んだ場所が園内にあるスタッフルームのようだということに気付く。

(大変! 勝手に入っちゃった)

「君、靴……裸足で歩いて来たの? 大丈夫?」
「あ、あの、申し訳ありません! その……」

 扉には【関係者以外立ち入り禁止】と書いてある。
 自分でも、見飽きるくらいに知っている文字だ。

 それなのに必死過ぎて確認もせずここへ入ってしまった自分の不注意に、深く反省する。そんな慌てふためく私の姿を見たスタッフの方は怒るどころか、ふわっと口元を緩めると「問題ないですよ」と微笑み応えてくれた。

 そして椅子を引き座るよう案内してくれる。

「どうぞ、座って。麦茶しか出せないけれど」
「エッ!? あの、でも」

 コトン。

「……あ、りがとうございます」
「お菓子もどうぞ。食べれるかな? このおかき、美味しいですよ~」
「あ、はい。いただき……ます」
(おかきなんて、いつぶりだろう)

 “カリッ、サクッ、サクサク”


 ♪~~♫~~♩――――♫
 キャーキャー!
 わぁぁ~きゃはははぁ!!


「……賑やか……ですね」
「うん? そういう場所ですので」


 ♪~~♫~~♩――――♫
 ゴォォぉ~!!
 きゃあああああ!!


「あれは、何の音ですか?」

「あれですか? ジェットコースターです。高い所へ上る時の恐怖、そこから流れるように落ちる瞬間の恐怖。どちらも違った感情が楽しめますよ」

「恐怖……それって、楽しいのですか?」

「あはは、まぁそう言われてみればそうですね。当然、苦手な方もいますよ。身長も決まりがありますし、高所恐怖症だと元々乗れません。それに乗った時の感じ方は人それぞれで……人生と一緒です。経験してみないと真実は解らない。人の心も様々ですから」

 その後も、親切で優しいスタッフの方は、この遊園地にある乗り物の種類や特徴を簡単に教えてくれた。スタイリッシュな雰囲気に似合わず、茶色がかった綺麗な瞳を輝かせながらワクワクと話す姿は、まるで少年のようだ。


 ♪~~♫~~♩――――♫
 キャー! あははは~……。


「……色々あるのですね。何だか楽しそう」
「えぇ、楽しいですよ! ここは『夢の時間』を過ごせる場所です」
「夢?」
「えぇ、そうです」


 ビィィィー……。
【♫~さぁ、みんなぁ! そろそろ、夕陽のアーチが見える時間だよ!】


「おっと、そろそろ行かなくては」
「えっ!? あ、あの」

 夕暮れ時の園内放送だろうか。
 それを合図にスタッフの方は立ち上がり、部屋を出ようとする。私は内心「どうしよう」と思いながらも、ここを出なくてはいけないと理解する。

 しかし、伝えられた言葉にまた私は驚き一筋の涙が頬に零れた。

「あぁ、そうでした。お客様、もしどこかお怪我をされてるようでしたら救急箱はあちらにございますので」

「いえ! そうではなくて……」

 ずっとここにいたい、そう言ってしまいそうになった。それでも私には決められた仕事が山ほどあり、元の生活に戻らなきゃならない。その思いが今は苦悶の表情となる。

「おっと! 大事なことを聞いていなかったのですが」
 何かを閃いたような顔で、私の目を真っ直ぐと見つめ質問された。

「君は、お酒の飲める年齢かな?」
「え、はい……そうですが」

 その言葉を聞き「良かった!」とにっこり。

「じゃあ、迷子さんではないね!」
「ぅ、あのぉ~さすがにそれはぁ……」

 なんだかぽわぽわと浮くような気分と、頬が紅潮するのを感じる私にスタッフの方は「あはは、失礼」とあどけない笑顔を向け、話を続ける。

「でしたら、ご自分の事は、ご自身の責任において決めることが出来る」

「自分の、責任……?」

「えぇ、心赴くままに。強い意思を持てば――状況は変えられる」

「変える。私にも……」
(出来るのだろうか?)
 ふと顔を上げて優しい声の主を見ると、外の賑やかな様子を窓越しに眺めて、嬉しそうに微笑んでいる。

「はい。その足で一生懸命走りだした、今日のようにね」

――あっ。
「そう……そうです、ね」

 彼の言う通りだと思った。
 私は自分の意思で、あの高すぎる“ヒール”を脱いだのだから。


 変えられる、走り出せるはず。
――『空に浮かぶ白い雲のように、自由に……』


「あぁ! 僕としたことが、いけませんね。お客様に対して、何だかお説教みたいなことを! 申し訳ありません」

 少しだけはにかみ、謝る。何の理由も話さずここに居座った見知らぬ私のために、こんなに親身になってくれる、素敵な人。

「そんな、謝らないで下さい! 貴重なお話をありがとうございます」

「いいえ! とんでもない。こちらこそ、ご清聴ありがとうございます」

 お辞儀し合う私たち。
 しばらく流れた沈黙の後でなんだか二人、フフッと笑い合った。

 ガチャ……キィー。

「あぁ、それから。ここの部屋は使いませんので、ご安心を。居たいだけここにいてもらって結構ですので」

「え……でも」
(もう夕方だから? 他のスタッフさんは帰ってるってことかな?)

「いいんです。僕は、この遊園地ですべてのお客様が夢のような時間を――心からの笑顔で笑い合う、幸せな時を過ごして頂くことが使命だと思っていますので」

 そして「ごゆっくり」と、彼は仕事に戻っていった。


――“使命”……お客様の幸せな笑顔。


「ぅ……ん。そ、だよね……グス」
(私は、何から逃げたかったのかな? どんな自由が欲しかったのだろう)

 それからしばらく、痛く感じた靴をぼーっと眺めていた。これまでの自分はどうだったのか、これからの自分はどうしたいのか、本当の自分が見たい未来の在り方を考えて。

 “カラン――……”
「あ、美味しい」

 スタッフの彼から頂いた麦茶は、とても美味しかった。
 氷の入ったグラスにつく水滴にそっと触れながら笑む。これまでのどんな高級なお茶や飲み物よりも、ずっとずっと心満たされて、体の奥まで沁み入り、幸せに感じる。

「すごいなぁ……あの人」

 部屋の冷房を弱めにしてくれていたのか。その居心地の良さにいつの間にか気持ちも落ち着き、私は人生で初めての居眠りをしてしまった。





 “ふわっ”

「ん……ぁ」

 ふと、目が覚めゆっくりと瞼を開けた私は、肩にかけられた毛布に気付く。それからすぐに、眠気から起きられずにいる頭をゆっくりと覚醒させてくれるような良い香りが、脳内に漂う。

「あぁ、起こしてしまいました? すみません」
「……ぇぇ、アッ!!」
(眠っていた!? なんて恥ずかしいの)

 さっきまでの悩みが嘘のように、心は穏やか。今までにないくらい深い眠りだったような気がした。

 しかし、こんな姿を他人に見られるのは初めてだと、自分の顔がだんだん真っ赤になっていくのが分かる。その熱を抑えるように両手を頬に当て固まっていると、目の前に“良い香り”の正体が現れた。

「ふは……」
「珈琲は飲めますか?」
「は、はい。好き、ですが」
「良かった。どうぞ」

 お礼を言い、一口飲む。
 わざわざドリップで入れてくれた様子の珈琲の色は電気の光を反射し、キラッと美しい水面のように、とても綺麗に映る。飲めばすっきりとした味わいにほど良い甘さが口の中に広がり、何よりちょうど良い温かさが全身へと沁みるような感覚で、また私の心はホッと安心してゆく。

「ふぅ~美味しいですねぇ。仕事終わりは、やはり珈琲が一番だ」
「……はい、ぁ」

――ドキッ!
 頑張って働き、一息つく。それでも椅子の背もたれに寄りかからない姿勢と、珈琲に癒され幸せそうに気を抜く表情の彼を見つめ、胸が高鳴る。

「ん? どうしました?」
「んぁ、ぃぇ」

 私の視線に気付き不思議そうに声をかけられ慌てて珈琲を一口、意識を別の場所へと向けた。
(あっ、もう外が暗い。音楽も、人の声もしなくなってる)

 あれから、どのくらい寝ていたのだろう。ふと、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。
(あぁ……大変。理沙さんに連絡しないと)

 理沙さんは、私のメンタルを心配し気を遣ってくれたのか? 電話ではなく、メールでの連絡が数通届いていた。その、最後のメールが一時間前――『もう閉園時間だから、撤収する。サオ、無事に家帰ったのかな? 今日の現場でお世話になった皆様にはうまく言ってあるから、心配しないで』だった。

(理沙さんに余計な心配と、迷惑かけちゃったなぁ)
「ちゃんと謝って、言わなきゃ。自分の言葉で、話さないと……」

 私は、そうぽつりと呟いていた。

(……それに)

 目の前でくつろぐ、親切な彼。
 とっくに閉園時間は過ぎているというのに、こんなに良くしてもらって……でも、私がここにいるからきっと帰れなかったんだと思うと、迷惑をかけていることに変わりはないのだ。

(謝らないと……そして、早く帰らなきゃ)

「あの、今日は本当に、突然すみませんでした」
「ん? 気にしないで下さい。あぁこれ、チョコレート食べます?」
「ぇ……」

 未だに何も聞かず、ここにいさせてくれる。笑いながら「ここの土産物屋に売ってるチョコですが、可愛いでしょ? とっても美味しいですよ~」と一つ、手に乗せてくれた。

「馬……ですか?」
「えぇ、ペガサスです。ほら、翼があるでしょ? 楽しく陽気に、いつか夢に向かい飛び立てるように。当園のメリーゴーランドはそんな意味を込めています」

「とても素敵で……美味しいです」
「でしょう? 良かった良かった」

 ゆったりと、静かに流れる空間に、私は自然と自分の事を話し始める。

「実は私、こういう場所で遊んだことがなくて」
「そうなんですか」
「はい。なので今日、こんなに明るく楽しい雰囲気が溢れる場所だと初めて知って。見ているだけでも、なんだかワクワクしました」

「そうですか! ではまた、のんびり遊びに来たらいいですよ」

  満面の笑みでそう言ってくれた彼から目を逸らし、私は言いづらい答えを口にしていた。

「いえ、たぶん。それは無理だと思います」
(きっとまた、明日からはいつもの生活に戻っちゃうから)

 すると腕を組み「う~ん」と唸り考え込む。

 そして――。

「お客様……差し出がましいようですが、一つだけよろしいですか?」

「えっ、はい。もちろんです」

「では。自分が無理だと思えば、そこですべて終わりです」

「終わり……ですか」

「そうです。やる前から無理だと諦めたり、やってもいないのに自分は出来ないと可能性を潰さないで……決めつけないでほしい。その思いが本気なら、一度は何かしらの方法を模索して、挑戦して、努力すべきです」

「ぁ……」
(そうだ、私は)

 今までずっと、言われるがままに行動して、自分の目の前にある状況を受け入れるばかりで、肯定も否定もせずに。反発も、抗うことも、しないで。

――何でもやろうとしてこなかったのは、自分自身なんだ。

「もちろん、やりたい事ばかりを主張しているのは我儘になりますし、自己中心的なのはよくありません。しかし、自分が決定権を持つ人生の選択については、自信を持って主張するべきだと、僕は考えます」

「私……」
「あなたならきっと、大丈夫ですよ」

 ふと目が合った彼はにっこりと微笑み、またチョコレートを一つ手に乗せてくれた。まるで「頑張れ」と応援し、一歩進む勇気をくれるみたいに。

(最初からダメだと思って、周りとの会話もせずに諦めていたのかも)

――不思議、なんだか心がとても軽くなった気がする。

「あ、あの、もしかして……」
(私の事。“誰”なのか知っていて、話してくれてる?)

「あぁ、そうだ! よろしければ先程のチョコレートのペガサスに! メリーゴーランドに乗りませんか?」

「えぇぇ!? そんなこと」
「出来ますよ。だって僕は」


――ここに“夢の世界(遊園地)”を作った、本人ですから。


 開けた扉から差す月の光に、その綺麗な彼の瞳がキラキラと輝く。
 これが心の、本物の美しさだと、私は感じたのだった。


 ♪~~♫~~♩――――♫


 時刻は二十二時を過ぎた、閉園後。
 夢のような時間を過ごせる場所――『遊園地』で一夜限りの貸し切り、初めて乗り物体験をした私。営業時間外でさすがに大きな乗り物には乗れなかったが、案内をしてもらいながら園内を歩く私はいろんなアトラクションに乗った気分になり、次第に子供の頃に過ごせなかった時間を取り戻すように、誰もいない遊園地を走り回った。

 その時に履いていたのは『モデルSAOKAサオカ』が守ってきたトレードマークである“ハイヒール”ではなく、親切なスタッフさん……もとい遊園地の社長さんからお借りした、真っ白でカッコいい大きめのスニーカーだった。





SAOKAサオカさーん! 今日はまだお仕事ですかぁ?」
「え? あぁ、お疲れ様! 私、今日はこれからオフなの。明日は、カフェレストランのレポートがあって」

「エェ―!? いいなぁ!」
「もぉ~SAOKAサオカ先輩、大活躍じゃないですかぁ」
「ホントみんなの憧れで……ていうか、美味しそう」

「うふ、ありがとう。私も行ったことのないお店だから、楽しみで――」

 あの遊園地でのプチ騒動から、早三年が経った。
 仕事終わりとはいえ勝手な行動をして、心配をかけてしまったことはさすがに叱られたが、それがきっかけで事務所には気持ちを伝えることが出来た。
 その後、話し合いを重ねていき、今後はもっとやってみたいことも積極的に挑戦させてもらえるような契約にすることで、色んな仕事が出来るようになった。

 もちろんモデル業は天職だと自負しているので、これからも辞めないと思う。でも今は、さらに自分を高めるためにスタイルも様々に、マルチタレントとしても活躍の幅を広げているというだけだ。

 友人との繋がりも大切にしたいという意思を伝えると、事務所も私の思いに理解を示し、前よりは気持ちを尊重してくれるようになった。以前はプライベートなんてあってないようなものだったが、今は行動範囲や自由度もずいぶん上がった。

(お食事やショッピングも、友人といろんな場所へ行けるようになって嬉しくて。毎日がとても充実していて楽しい!)


 ガチャ――バタン。

「さぁーちゃん、お待たせ」
「あ、優さん……」

 そして――。

「きゃー! SAOKAサオカさんを“さぁーちゃん”って!? ……もしかしてのもしや、彼氏さんですか!?」

「なになに!? お車でお迎え~」
「いいなぁ~……はぁ」

「恥ずかしいから、もぉ」

 三歳からずっと、モデル一筋で仕事ばかりだった、私。

「えぇ~いいじゃないですかぁ、先輩! 彼氏さんカッコいい!!」
「あっ! 初めましてぇ、SAOKAサオカさんと事務所が一緒の後輩でぇす」
「私もでーす! きゃー噂の遊園地王子様ですねッ!? こんにちはぁ」

「あはは、ありがとうございます。初めまして、西条優です」


 プチ騒動から数ヶ月経ち、事務所との話し合いも落ち着いてホッとした頃。

 私は『夢の時間』と勇気を与えてくれた彼の存在が、ずっと自分の頭と心の中から離れずにいる事に気が付いた。それから「一言でいいからお礼が言いたい……少しでも良いからまた話がしたい」という思いがつのる。たくさん悩んだ末に、意を決してあの遊園地へ遊びに――会いに行くことにしたのだ。

 もちろんお礼から。そしてゆっくりと会話を重ねていき、だんだん同じ時を共有する時間が増えていった。その後、お互いが必要だと思った瞬間――自然と手を繋いだ日にお付き合いが始まり、ずっと仲良く過ごし今日に至る。


「みんなぁ、興奮し過ぎだよ。えっと……」

 私はその時ふんわりと握られた右手に安堵し頬を染めて、顔を上げる。当然、彼の安心できる笑顔がそこにあった。

「僕から……実は少し前に、プロポーズさせてもらいました」

「「「エッ……」」」

「あ、優さんのことは事務所公認なの。それでね、みんな。えっと……来月になるんだけど。私の三十歳のお誕生日に――入籍することになりましたぁ」

――えぇぇぇぇ!?

「キャーなにそれ!? おめでとうございます!!」
「これ、まだ身内だけの内緒? 正式発表はいつですかぁ!?」
「いいなイイナァ~素敵。結婚式でたぁーい」

「あ、ありがとう……みんなちょっぴり声が、おっきいよぉ」

 キャはははは~!!!!

 突然の報告に驚きつつも、高い声を上げ祝福してくれる事務所後輩のモデル仲間たちにお礼を言いつつ、みんなで笑い合う。


 “ぎゅ”
『さぁーちゃん、ありがとう』
 囁き視線を向ける彼の愛が、嬉しすぎる。

――『これからの未来は、君と一緒に作っていきたい』

 夜の綺麗なメリーゴーランドの上で言ってくれたプロポーズ。

 優しく可愛い『夢の時間』が詰まった素敵な世界(遊園地)を作る彼からもらった幸せな言葉は、今もこの耳元にふんわりとくすぐったく残る。

 “ぎゅっ”
『私こそ、優さん。ありがとうございます』
 些細なことにも感謝でき、幸せだと感じられる素敵な人。

――『はい、一緒に……よろしくお願いします』

 ペガサスの上で、私はその日嬉しくて泣いてしまった。


「じゃあ、行こうか」
「ぁ……ぅん」

 後輩たちに挨拶をして、微笑みながら今度は指を絡め離れぬように繋いでくれた温かな手を、握り返した私の両手。これまでの伝えきれない程の感謝の気持ちと、言葉にならない彼への想いを精一杯込める。

 これから、もっともっと素敵な時間を一緒に。
 新しい未来を二人で作っていきたいと、改めて心に誓った。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。

ふまさ
恋愛
 楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。  でも。  愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

あなたはカエルの御曹司様

さくらぎしょう
恋愛
大手商社に勤める三十路手前の綾子は、思い描いた人生を歩むべく努力を惜しまず、一流企業に就職して充実した人生を送っていた。三十歳目前にハイスペックの広報課エースを捕まえたが、実は女遊びの激しい男であることが発覚し、あえなく破局。そんな時に社長の息子がアメリカの大学院を修了して入社することになり、綾子が教育担当に選ばれた。噂で聞く限り、かなりのイケメンハイスぺ男性。元カレよりもいい男と結婚しようと意気込む綾子は、社長の息子に期待して待っていたが、現れたのはマッシュルーム頭のぽっちゃりした、ふてぶてしい男だった。  「あの……美人が苦手で。顔に出ちゃってたらすいません」  「まずその口の利き方と、態度から教育しなおします」 ※R15。キスシーン有り〼苦手な方はご注意ください。他サイトでも投稿。 約6万6千字

【完結】私の代わりに。〜お人形を作ってあげる事にしました。婚約者もこの子が良いでしょう?〜

BBやっこ
恋愛
黙っていろという婚約者 おとなしい娘、言うことを聞く、言われたまま動く人形が欲しい両親。 友人と思っていた令嬢達は、「貴女の後ろにいる方々の力が欲しいだけ」と私の存在を見ることはなかった。 私の勘違いだったのね。もうおとなしくしていられない。側にも居たくないから。 なら、お人形でも良いでしょう?私の魔力を注いで創ったお人形は、貴方達の望むよに動くわ。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

幼馴染みのメッセージに打ち間違い返信したらとんでもないことに

家紋武範
恋愛
 となりに住む、幼馴染みの夕夏のことが好きだが、その思いを伝えられずにいた。  ある日、夕夏のメッセージに返信しようとしたら、間違ってとんでもない言葉を送ってしまったのだった。

処理中です...