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 楽しい時間はあっという間に過ぎ、名残惜しくも人魚の少女と別れ、城へと戻ると同時に向かうのはいつもの場所だ。

 人魚の少女と関わるようになってから、キースは妖精のサラに魔族語を学びたいと伝えた。楽しく話す彼女が何を話しているのか分からないままなのは勿体ないと思ってのことだったが、サラはあっさり頷いた。

「魔王様に話を通してからにはなりますが、我々の言葉を学んでくださることはとても嬉しく思います」

 そして魔王から返ってきたのは「一日だけ待ってくれ」という謎の返事だった。

 この一日に何か意味が? とライル達と話していたが、過ぎてみればただただ驚かされた。



 サラが魔法で浮かせながら運んできた革張りの分厚い本を受け取ると、ずしりとした重みで体勢を崩しかけた。

「魔王様からの伝言です。『お待たせして申し訳ない。あなたが我が国の言葉を学ぼうと思ってくれたその心を嬉しく思う』とのことです」

 魔族語を学びたいと伝えたからにはこの分厚い本は教科書ということか、と納得し、中身を開いて驚愕した。

 その本の中身が手書きなのは当然としても、それらのページは全て魔族語と人間語の辞典になっていたのだ。例文なんてものも付いている。
 文法のページまであって、これを使って学べば日常会話くらいなら難なくこなせるようになるだろう充実の内容だった。

「……まさか、一日、というのは……」

「ええ。それは魔王様がお作りになりました。ご用意してあればすぐに渡せたものをと悔しがっておいででしたよ」

 だから待たせて申し訳ない、なのかとキースは身震いした。

「とんでもない。お手間をかけていただいて恐縮です。このようなご迷惑をお掛けすることとなるとは考えが至りませんでした」

 申し訳なく思って謝罪したものの、サラは目を瞬いて「お手間?」と聞き返してきた。

「手間などではありませんよ。なにせ魔王様はこの国に住む全ての魔族の言葉を学ばれた方ですから。とうに習得した言語の辞典を作るくらいなら訳もないことです。お気になさらないでくださいな」

 安心させるかのように微笑むサラの言葉に嘘はないようだった。

「大切に使わせていただきます」

 誓いのようにそう告げて、これ以降、キースはこの分厚い辞書を片手に、人魚の少女との交流を深めてきたのだ。

 とは言っても辞書はやはり重みのせいもあって持ち歩くことはできない。城の書庫の一角を借りて、毎日そこで勉強に励んでいた。

 この日もまた書庫に着くと、友人達はいつも廊下で待っているが、今日はゴードンが控えめに「殿下のお勉強の後に、辞書をお借りしてもよろしいですか」と申し出てきた。

 あの人魚に何か言うつもりなのかと身構えたが、しかしこの男の性格を考えれば恐らくは悪いことではないと思い直した。

「構わないよ。ライルも使っていることだし、わざわざ僕に聞かなくてもいい」

 ゴードンからの礼を背に、書庫へと入る。

 重い扉を閉めて窓辺に置かれたテーブルへと歩み寄れば、その窓から明るく燃える夕日が見えて、目を細めた。
 これだけでも十分な価値がありそうなアンティークの椅子に腰を下ろし、深く息を吸う。古い紙とインクのなんとも言えない香りが鼻をついた。

 息を大きく吐くと同時に天井を見上げると細部が見えないほど精緻な天井画がはるか高くにある。壁にはびっしりと本が詰め込まれた本棚が天井まで伸びているが、はしごは見当たらない。高くにある本は魔法で取り出してしまえるからだろう。便利な限りだ。

 壁掛けの燭台にある蝋燭の炎が一切揺らぐことなく静かに燃えている。

 時が止まっているかのような静寂に、全身から力が抜けるようだ。
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