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長編版

50 最終話

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「アシュレイ様」

 表面上は笑みを浮かべつつ内心でひどく狼狽していたことは、紛れもない事実だった。

「お手を繋いでもよろしいでしょうか。その……デート中の男女は、手を繋ぐものだと伺ったのです……」

 なにせ、頬を赤く染めてこちらに上目遣いで手を差し出すエレシアが、あまり可愛すぎたのだから。



 あの婚約の日から数日、唐突に僕宛ての手紙が届けられた。開けてみれば『お忍びデートをやり直したい』という単刀直入な申し出が、丁寧な女性の文字で書かれていた。
 一も二もなく了承の返事をしたためた時は知らなかったが、どうやら僕の勤勉な婚約者は、どこぞで男女交際における最新の教育を受けてきてしまったらしい。

 当然のように車に乗り込めば奥へと詰める婚約者の隣に腰を下ろし、照れくささをおくびにも出さずに笑顔で何気ない話をするうちに車は目的地で停止した。

 この車はエドワーズ家の車だ。僕はどこに行くつもりなのかを知らなかったが、着いてみればそこは王都の中心にある広大な草地に石造りの歩道のある公園の目の前だった。

「婚約者同士、公園でのんびりと過ごすのも良いと伺いまして……」

 車から降りると、何やら大きなバスケットを持ちながら降りてきたエレシアからその大荷物を受け取る。ずっしりと重い。

「これは何が入ってるの?」

「ひ、秘密、ですわ……」

 ルビーの瞳が逃げるように逸らされるが、それは後ろめたいというよりも恥ずかしいのを隠すような逃げ方だった。どうやらエレシアはなにか可愛いことをしてくれるつもりらしい。
 それなら開ける時まで可愛く隠すエレシアを堪能しようと決めて、歩き出したところで──冒頭の問いかけ、いやおねだりだった。

 もちろん、と返す。さりげなく手のひらの汗をぬぐい……。



「このままのんびりと公園を散歩する?」

 公園をしばらく歩いたところで何気なさを装って尋ねると、エレシアはきょろきょろと視線をさ迷わせて、空いた手で公園の中央にある噴水広場を囲う草地を指さした。

「そろそろ休憩するというのはいかがでしょう。あちらで座って……」

「いいね。それなら何か飲み物でも買ってからにしようか」

 噴水広場にはいくつもの屋台が出ていて、飲み物だけではなく軽食を出す店もある。今日の暖かな陽射しと先日の反省を生かして、エレシアにはアイスティーかなと考えていると、その婚約者はなにやら顔を赤くしたり青くしたりと忙しく変化させていた。先日の酒場での食事が堪えたのかな?

「あそこならエレシアが気に入りそうな飲み物や食べ物もたくさんあるから大丈夫だよ。一緒に見に行こう」

 見せた方が早いと繋がる手を引いて店に向かおうとしたが、その歩みを止められた。

「あの……お、飲みもの、は……」

 その中に、と消え入りそうな声でエレシアが指さしたのは僕の手元のバスケットだった。思わず首を傾げてしまう。

「飲み物を持ってきてくれたの?」

「はい、その……お飲み物だけでは、なく……」

 正直に言って、この時の僕の頭の中を占めたのは『どうしてわざわざ持ってきたのだろう?』という疑問だった。公園に来るのなら屋台があるし、なくとも飲食店で食事すればこんな大荷物も持って来なくて済む。
 しかしこのエレシアの様子。わざわざ持ってきたの? とは聞きづらい。

 結果、婚約者の用意周到さに感謝の言葉を伝えて、屋台には向かわずに草地を目指した。

 抜け目なく用意された屋外用のラグを二人で敷いて、並んで腰を下ろす。僕としては当然の距離を空けて座ったつもりだったが──唇を引き結んで、いっそ不機嫌なのかとも思えるほど難しく顔をしかめたエレシアは再度立ち上がり、僕のすぐそばへと腰を下ろし直した。

「エ、エレシア……?」

 燃えてしまうのではと思うほど顔を真っ赤に染めたエレシアは、熱が伝わりそうなほど近い距離で、揃えた膝の上に置いた手を一点に見つめている。

「……手が、届くくらい近くに座ると良いと……伺ったので……」

「そう……。ねぇ、エレシア。一つ聞いてもいい?」

 決してこちらに目を向けないエレシアは「なんでしょう」と生真面目に返してきた。

「その伺ったというのは……だれに?」

 今日は朝からエレシアは『伺いましたので』が口癖だった。彼女に余計なことを吹き込んだのは誰だ。いちいち心臓に悪い。

 問いかければ近い距離にいることも忘れたのかエレシアはこちらに顔を向けて、首を傾げた。

「リシュフィですが……何かありました?」

 やはりあの方か!!

 いやあの方以外、貴族令嬢にこんなことを吹き込む者はいないだろうが。

「どんなことを教えてくれたのかな。リシュフィ嬢は」

「ええと……手を繋ぐと喜ばれるということと、近くに座ると喜ばれるということと……」

 そうだろうな。リシュフィ嬢なら何をしても喜ばれるだろう。殿下なら。

 内心で国を代表するバカップルからのエレシアへの影響を憂う。今日のエレシアも初々しい限りでとても可愛いが、突拍子のない行動を取られると体が固まってしまう。それも仕方ないことだろう。なにせ僕だって好きな女の子と出かけるなんて初めてなんだ。主導権を握らないと情けない姿を見せることになりかねない。

 ……こんな、予想外な行動を取るエレシアからどう主導権を握ればいいんだ。

「あとは……ピクニックをすると良い、とか……」

「ああ、それで今日はお弁当を持ってきてくれたんだね」

 ようやくこの大きい荷物の正体を知ることが出来た。
 バスケットを中央に置くと、エレシアはなぜかそれを震える手で開いた。不思議に思い伺い見た表情はこれ以上ないほどの緊張を孕んでいる。
 この中にはそれほど緊張するものでも入っているのかと中を覗き込んで、思考が一瞬止まった。

 バスケットの中にあったのは、数種類あるサンドイッチにカップに入ったマフィン。それにカットされたフルーツだった。マフィンとフルーツはいい。綺麗な焼き色のついたマフィンは見た目にもしっとりとしているし、フルーツも大きさがバラバラなのが気になるが瑞々しい香りが漂ってきて心地いい。……問題はサンドイッチだった。

 黄色と桃色が挟まったものは恐らくたまごとハムのサンドイッチだ。ただたまごが多く挟まれすぎていて、移動に耐え切れなかったのか形が崩れているし、ベーコンとトマト、レタスのサンドイッチはトマトが分厚く切られすぎているせいか飛び出してしまっている。どうみても屋敷の料理人の作ったものではなかった。

 止まった思考は目まぐるしく頭の中を駆け巡り、一つの答えを導き出した。

「……エレシアが作ってきてくれたの?」

 真っ赤な顔で静かに頷く婚約者に、僕は「持つときに揺らしてしまったかな?」などと口にしなかったことは人生において一番の快挙と言っていいだろうと思った。

「すごいね! こんなに用意するのは大変だったんじゃない? ああ、でもこの間は公爵夫人の料理の手伝いをしていたよね。夫人もエレシアと一緒に料理が出来て楽しいって仰っていたし」

 先日の騒動から身重の公爵夫人は王都へと越してこられた。普通逆ではないかと思うが、エレシアが僕と結婚するまでの一年を家族で過ごすためなのだろう。その上公爵夫人はたびたび親しい知人だけを招待した食事会や園游会へお誘いくださるようになって、エドワーズ邸はいままでになく明るく親しみのある屋敷へと様変わりしていた。
 ……特に、エレシアの友人として紹介された令嬢の中で、リシュフィ嬢とはこれ以上ないほど意気投合していた。素直でない夫や婚約者を持つ女性同士、なにやら通じるものでもあったのかもしれない。

「母が、わたくし一人でご用意した方が、その……アシュレイ様もお喜びになると言っていたもので……不格好でお恥ずかしいのですが」

 ぽつぽつと言い訳のように言われて、心臓が跳ねる。

 そうか。これは僕のために、エレシアが一人で頑張ったのか。

 そう思うのと、上目遣いのエレシアと目が合ったのは同時で、誤魔化すように目をサンドイッチへと移動させた。

 一つ手に取り、いただくねと緊張の面持ちのエレシアに声をかけて慎重に口へと運ぶ。エレシアは僕の口の動きをじっと見つめ、心配そうに口を開いた。

「味に、妙なところはございません……?」

「ないよ。まったく。さすがエレシアだね。すごく美味しいよ」

「本当に? 塩とお砂糖を間違えたりしていません?」

「……リシュフィ嬢は間違えたの?」

 気まずそうに目を逸らされた。間違えたのか……。

「本当にすごく美味しいよ。エレシアも一緒に食べよう。ほら、口を開けて」

 リシュフィ嬢のドジっぷりにより少し気持ちも持ち直して、ついで悪戯心が疼いて、たった今一口齧ったサンドイッチをエレシアの口元に差し出す。真っ赤になって抗議してくれるだろうと思ったが──今日のエレシアは一味違った。

 ほんのわずかな逡巡のあと、小さな唇を開いてサンドイッチを口に含んだのだ。

 あまりにもエレシアらしからぬ行動に、もぐもぐと動く口元を見つめることしかできない。

「そ、れも……リシュフィ嬢が……?」

「はい……あの、差し出されたものは、そのまま食べた方が……お喜びになる、と……」

 なんということで喜んでいるのですか、殿下!!

 さすがに口にするのは憚られて、心の中で抗議する。

 エレシアは「いけませんでしたか」と不安そうな表情を浮かべている。

 駄目じゃない。駄目なわけがないが……駄目じゃなさ過ぎて困るだけだ。

 そんな内心を悟られないよう、そんなことはないよと笑顔を返したのだが、エレシアは大きく目を見開いてこちらを見つめていた。

「エレシア?」

「アシュレイ様、お顔が真っ赤に……」

 ──しまった。

 無意識に手を添えた口元は驚くほど熱を持っている。

「いつもはわたくしばかり赤くなったり青くなったりしていますのに、初めて拝見しました。アシュレイ様も赤くなったりなさいますのね。もしかして──照れていらっしゃいますの?」

 なんだか少し嬉しそうに捲し立てて、手の届くくらい近くに座ると良いと言われ、それを実行していたエレシアはすぐそばにある体をこちらに乗り出した。

 まつ毛の一本一本まで見えるほどの距離はもちろん初めてではない。が、それは全てこちらが主導で行動を起こした時だけだ。向こうから来られることがこんなにも胸を騒がせるとは。

「エ……エレシア……っそんなことされたら誰でも赤くなるよ……」

 そっと肩に手を添えて体をさりげなく離す。一瞬きょとんとしたエレシアは『そんなこと』にすぐに思い当たったらしい。顔が瞳と同じくらい赤く染め上がっていく。

「わ、わたくしったらなんということを……っ!! なんとはしたない娘かと軽蔑されましたか。嫌われてしまいました?」

 すぐに体を離すかと思いきや、エレシアはむしろ体を更にこちらへと乗り出した。心配そうに眉を下げる顔が眼前へと迫り、話すたびに吐かれた息が唇にかかる。

「嫌わない! 嫌わないけど、その、さっきより近いから、離れて、いや本当はとても嬉しいんだけどね……!?」

 少し語調を強くするとエレシアは小さく悲鳴を上げて体を離した。焦りのあまり最後に本心が出てしまった気がするが仕方ない。とにかくこのエレシアは心臓に悪すぎる。しかしエレシアも同じ気持ちだったらしい。

「やはりわたくしにはこのような振る舞いは合いません……」

 しょんぼりと落ち込んでしまったエレシアに苦笑する。まさしくエレシアらしくない振る舞いではあったから是非ともやめてもらいたいところだが、せっかくのデートで婚約者を落ち込ませたままにしておけるわけがない。

「たしかにリシュフィ嬢がそう振る舞えば殿下は喜ばれるだろうけど、僕は君といられるだけで夢のようなんだよ。だからエレシアらしくいてくれればそれが一番嬉しいかな」

「まぁ。それはわたくしの台詞です」

 エレシアは照れ隠しのように抗議してきた。

「こうしてあなた様の隣にいられることは夢のようで、まだ信じられません。頰を抓ってみていただけません?」

 そう言って目を閉じて顔を上向ける。

 もしやこれもリシュフィ嬢の策略かと一瞬疑ったが、それを口にはしなかった。だってこれは、絶好のチャンスというものだろう。

 逃す手はないと、そっと口付けて、すぐに離せば閉じられていた目は丸く開いて僕を映していた。

 ああ、可愛い。本当に可愛い。もっとしたいと欲が出るが……ここまでで我慢する。怒らせたら後が怖い。

 しかしいつもの猛抗議が来るかと思いきや、エレシアは大人しい。不思議に思って顔を覗き込めば、お母上から今日は僕に怒ってはいけないと言われてきたのだとぼそぼそと弁明してきた──可愛らしく目を潤ませて赤面しながら。
 抗議したいという怒りと恥ずかしさに、ほんの少し嬉しさが見えるのは僕の気のせいではないはずだ。

 とんでもない参謀を迎えてしまったエレシアに勝てる日はもう来ないかもしれない。



「そんなこと気にしなくていいんだって。僕達は僕達のやり方でお付き合いしていこう。長い付き合いになるんだから」

「……ええ。そうですわね」

 少し安堵したようにエレシアは微笑んだ。

「やっと笑ってくれた。君の笑顔は花が開いたように美しいってずっと思ってたんだ。愛してるよ、エレシア」

 またしても赤いバラのようになった婚約者に、僕もこっそりと安堵する。

 そうそう。エレシアは僕の言葉で赤くなっていればいいんだよ。……本当に。さっきまでのは心臓に悪すぎるから。


 ※


 慣れ親しんだ部屋の扉の前に立つと、衛兵は目礼し扉を開いた。

「失礼いたします。殿下」

「ああ、アシュレイか」

 手元の書類から顔を上げた殿下がこちらに笑みを向ける。
 その近くへと歩み寄り、両手で一通の書簡を掲げ持ち、差し出した。

「お預かりしていましたこちらをお返しに参りました」

 受け取った殿下はその書簡の封蝋がそのままであることを見とめてにやりと笑った。

「なんだ。使わずに済んだか」

「はい。骨折りくださいましたのに申し訳ございません」

「構わん。このようなもの、使わずに済めばそれに越したことはない」

 そう言って殿下はゆったりとした仕草で書簡を蝋燭にくべてしまわれた。



 卒業してすぐのことだ。
 殿下から呼び出しを受け、出向いたこの執務室で殿下からまだ封をしていない一枚の書面を手渡された。身振りで見てみろと示され目を落とし──驚きで体が固まってしまった。
 その書面には『スコット公爵家子息アシュレイとエドワーズ公爵家令嬢エレシアの婚姻を王太子フェルナンドは祝福する』という一文が紛れもなく殿下ご自身の筆跡で書き記され、殿下が持つ称号を示す印章がくっきりと捺されていたのだ。

「殿下、これは……」

「頑固者のエドワーズ公がどうにも娘を手放さんというならそれを使え。紛れもなく俺の本心だからな」

 放心する僕から殿下は書面を抜き取り、手ずから折りたたんで紐でまとめ、慣れない仕草で蝋を刻み始めた。慌ててその手を止めて蝋を溶かす。差し出せばそれを書面にゆったりと落とし、中に捺された印章と同じものが、僕の目の前でそこに押された。

「お前達がいなければ、俺はあの娘に騙されリシュフィを失うところだった。冷静になればリシュフィが不義を行うなどあるはずがないのに、情けない限りだ。何か礼がしたいと俺からエドワーズ公に話を通すことも考えたが、さすがに臣下同士の婚姻に王太子が口を挟むわけにもいかん。お守り代わりにしかならんが、これを受け取ってほしい。お前は俺にとってリシュフィと同じくらい、なくてはならない大切な者だ。そのお前が愛する令嬢と添い遂げられるよう、心から願っている」



 あの身分大事なエドワーズ公にとって、これほど無視できないものはない。これをいただいた時点で、どれほどエドワーズ公がごねようともエレシアが僕の妻になることは決定事項だった。

 しかしそれでもあのエレシアは家族を愛していたから、お母上にだけでも了承をいただきに行こうと姑息に考えて、エレシアの涙を見てここから共に逃げてしまおうかと情けなく考えた。父親から殿下の印章を盾に強引に奪い去られたエレシアは、きっと家族を思って泣くだろうから。幸せにしてあげられないかもしれないと怯んでしまった。

 しかしエレシアは震えながらもはっきりと母親に会うと言った。あの普通の令嬢にはないエレシアの心の強さを僕は愛している。



「なんだ、それではただの公の勘違いか」

 ことの経緯を説明すると、殿下は呆れたような笑いをこらえるような妙な顔をした。

「ええ。まさか僕の両親に原因があるとは思いもよりませんでした」

「確かにそのような場面を目撃すれば嫌でも娘を嫁がせるのは拒むだろうが、いやしかしあの叔母にそのような……なんというか、趣味があったとは俺も知らなかった」

「我が家では公然の秘密と言うもので……しかし陛下はご存じのはずですよ。閣下は何度も陛下に直訴なされたそうですから」

「……公の反応を楽しんでおられたのだろうな……」

 どこまでも不憫な閣下だった。



 ここで殿下ははたと手を打ち「そうだった。お前の耳にも入れておかなくては」と仰った。

「なにかございましたか」

「ああ。あの、例の娘の件だがな」

 和やかな雰囲気を一変させる話題に、自然と背筋が伸びる。

 ビストア男爵令嬢アンリエッタはその後学園を退学となり、現在は生家の男爵家で軟禁状態にあった。

 王太子妃の立場を狙い、殿下をだますためにあろうことか文書の偽造を行い殿下の婚約者である公爵令嬢を貶めようと謀ったあの娘の罪は明らかであり、実刑は免れない。良くて男爵家からの除名、悪ければ地下への投獄というところだろう。どうやら娘に課す量刑が決まったらしいと思った。しかし話は思いもよらぬ展開を見せていた。

「屋敷から脱走したらしい」

「脱走、でございますか……?」

 男爵が娘への恩情から逃がしたのだと瞬時に判断したが、しかしそれにしては殿下の雰囲気がおかしい。殿下の纏う雰囲気は重く厳しく、なのにどこかどうでもよいというような投げやりな空気も孕んでいた。

「男爵は手勢を総動員して娘を探しているそうだが、そもそもたかが貴族の娘が一人で屋敷から抜け出すなど不可能だ。何者かの手引きでもあったとしか思えん。こちらからも追っ手を差し向けたが……王都に潜まれてはたかが若い娘一人、見つけるのは困難だろうな。近頃では王都も物騒で、市井の若い娘ですら夜中に一人歩きするのを避けるというのに無事でおるのかも怪しい。ましてつい昨日のことだが川から身元不明の若い娘の遺体が上がったそうでな。若い身空で可哀想なことだ」

 殿下は大きくため息を吐いた。少々わざとらしいほどに。

 少し浮かれていた気持ちが引き締まる思いだった。

 しかし、どうして今頃になってから僕の耳に入れてくださったのかと思えば、恐らくはエレシアのことで手一杯の僕への気遣い、そして耳に入れることで僕を部外者とはしないという殿下の厚意だと思われた。

「──それではエレシアと出かける際は気を付けなければなりませんね」

「それには及ばんさ。逃げたとはいえ貴族令嬢が行方不明とあっては見過ごせんからな。警備は強化するよう指示していると男爵にも伝えている。そのうち見つかるだろうからお前達は安心してデートでも楽しみなさい。俺も先日二人でピクニックに行ったのだ。あのリシュフィがまさか料理が得意とは不覚にも知らなかったのだが、それがまた美味しくてな」

「エレシアから聞きましたよ。リシュフィ嬢から男は手作りの料理を喜ぶと聞いたとかで、あのエレシアが弁当を持参してくれたのです。やはり愛する女性というのは何をしても可愛らしいものですねぇ」

「そうだろうそうだろう。リシュフィも近頃では男を惑わす術をどこぞの貴婦人から学んだとかで、少々心臓に悪いほどだ」

「こちらはその婚約者殿から学んだそうですよ。本当に心臓に悪い限りで」

 殿下と共に目を見合わせて嘆息する頃には、お互いの頭の中はそれぞれの婚約者の可愛らしくも困った一面だけが支配していたのだった。
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