ヒロインは私のルートを選択したようです

深川ねず

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第二章

番外編 10執務室の日常①

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 女は勝ち誇った高笑いののちに地面にへたりこんで肩で息をする少年達に言葉を投げつけた。

「ほらほら。へたり込んでないでどんどんかかってきなさい。そんな調子じゃあ、いつまで経っても仕事に戻れないわよ!」

 少年達は憎々し気に自らの上官である女を睨みつけるが、女はどこ吹く風だった。髪に指を絡ませ鼻歌を口ずさむ余裕すらある。
 そんな三人の姿を後ろから見ていたオーウェンは呆れを滲ませ、大きく息を吐いたのだった。



 事の起こりは執務室でのエルザの発言だった。

「二人とも、最近鍛錬はしている? 少しでも体を動かしていないと、いざというときに役に立たなくなるわよ」

 言われたグレンとザックはお互いに顔を見合わせて「確かにしばらくさぼり気味ですが」とザックが素直に答えた。

「別の理由ではしょっちゅう修練場に出向いてますけどね」
「エルザ様を連れ戻すのにほぼ毎日行ってるよな」
「…………」

 矛先が自らに向き、呆れた半眼になった二人からエルザは目を逸らした。

「……だったらそのついでに二人も体を動かしておくべきだって言ってるのよ。ねぇ、オーウェンもそう思うわよね?」

 助けを求められたオーウェンも一理あると頷いた。「手を動かしてください」と小言を付け加えつつ。

「二人がスペードの国に来てからひと月経ちましたが、一度も体を動かしていないのは確かに問題ですね。これまでの鍛錬が無駄になる」
「でしょう!? それなら私の部下なんだから、私が見てあげないといけないわよね!」

 腰を浮かせたエルザにオーウェンはにんまりとした笑みを向けた。

「ええ、そうですね。明後日の午前中なら時間が取れますから、その日に是非お願いします。よかったな、二人とも。10じきじきに見てもらえる兵士などそうはいないぞ。特にエルザは剣も魔法も得意だ。存分に鍛えてもらいなさい」

 腰を浮かせたまま固まるエルザから部下二人へと目を移して話をさっさと纏めたオーウェンは、エルザの机にどすんと書類の塔を置いた。

「それでは明後日までにこれを終わらせなければなりませんね。……大丈夫。可愛い部下達のためなら俺の恋人は頑張れる人だって、俺は知っているからな」

 この時エルザの頭の中には「やぶへび!」という言葉が浮かんだし、部下二人の頭には「ダシにされた……」と浮かんだが、満面の笑みを浮かべるオーウェンに異を唱えられる勇気ある者は、10の執務室にはいない。

 右手にペンを、左手にグレンを装備したエルザが泣きながら机に向かい続け、二日後、修練場には四人の姿があった。



 暗闇の中で、一、二、三と頭の中で繰り返し数え続けるザックは極めて混乱していた。
 頭の中の数が『二』を数えたとき、肩に軽く何かが押し当てられた。半身で躱して踏み込み力いっぱいに突きを繰り出すも避けられたらしく、木剣は空を切る。『三』を数えたときには目を大きく開いて相手を探すもどこにもいない。そう判断した瞬間、後頭部をこつんと小突かれた。

「後ろに移動したのが分からなかったか? 目を閉じているときは無理に攻撃しなくていいから、俺の動きに注意していなさい」

「……はい」

 素直に答えたザックは再び目を閉じ、一から数え直した。

 エルザがザックに課した訓練は、三秒間目を閉じて相手の動きを視覚以外で感じること、だった。もちろん目を閉じている間も剣を持つオーウェンは優しくではあるが攻撃を加えてくるし、遠くにいるエルザからは水の塊を顔面に叩きつけられて、すでに全身びしょ濡れになっている。

「エルザの出した水で地面がぬかるんでいるだろう。ちゃんと聞けば歩く音がして気付けたはずだ」

 オーウェンの声は左から聞こえた。すばやく剣を左手に持ち替え思い切り横に振る。……またしても空を切った。

 確かに左にいたはずなのに。その思いが目を閉じた顔に書いてあったのだろう。次にオーウェンの声がしたのは左下からだった。

「声をかけてすぐにしゃがんだ。風が起きたはずだぞ」

 その声がした時には体をひねって右足を蹴り上げたが、何にも当たらない。

「ちゃんと三秒数えてるか? お前は一つのことに夢中になる癖があるな」

 言われた瞬間には目を開けて、自らの右足一本分先に立つ上官を見上げて「すみません」と謝罪した。

「いいか、ザック。剣を持ちながら魔法を使うには同時に二つのことをしなくちゃいけない。魔法だけで渡り合えるなら剣は捨ててもいいが、お前は光属性しか持っていないから剣は必須だ。光は暗所を照らすほかには目潰しに使えるが、剣を使いながら自分の目は潰さず相手の動きを制限するためには、光魔法の発動時お前は目を閉じていなきゃいけない。だからこれは目を閉じている間の相手の動きを読む訓練なんだ。
 しかしさすがはエルザだな。剣と魔法を同時に使うことを念頭に置いた訓練でも、これは光属性しか持っていない者向けだ。クイーンやキングに魔法の使い方を教えたのはエルザらしいが、なんとも理にかなってる。これを繰り返してまともに動けるようになれば、お前は俺なんて置いていくほど強くなれるよ」

 興奮を抑えつつも、しっかり恋人への賛辞を忘れないオーウェンだった。

「光量を調整して、その都度自分が出した光の収まる時間を体に覚えさせる訓練もするべきだろうが、今は体が動くようにするのが先かな。少し頭を休めよう。目を開けたままでいいから、三秒ずつ数えながらかかってきなさい」

 片手で軽く木剣を下げ持つオーウェンに言われてザックは内心で唸った。

 オーウェンはいつも長袖長衣のローブに身を包んでいる。魔法を使う人ならそれは当然の格好だが、修練場に来てエルザが鍛錬の内容と共に『オーウェンと打ち合いしてね』と軽く言ってグレンと二人で離れていった時には心底驚いた。
 グレンは水と火の属性を持っているから今は遠くで魔法を使う訓練をしている。口にはしなかったが、剣での打ち合いならエルザが自分で、オーウェンがグレンと魔法の訓練だろうと思ったのだ。

 だがオーウェンは恋人である前に上官であるエルザに異を唱えず、むしろ表情を変えずに言ったのだ。「それじゃあ、お互い、まずは魔法抜きでやろうか」と。

 そしてローブを脱ぎ、動きやすいようシャツの袖を肘までまくり上げた姿を見た瞬間に、ザックはもう一人の上官への認識を変えていた。

 日に焼けてこそいないものの剣を持つ腕は太く、筋肉は盛り上がり、体は魔法使いに当たり前のひょろりとしているものどころか厚く引き締まっている。間違いなく剣も使いこなしている者の体つきだった。

 そしてザックは手加減に手加減を重ねられた上で一矢も報いること叶っていない。



 木剣と木剣のぶつかり合う鈍い音が連続して響く中、敷物の上に腰を下ろしたグレンの前には多種多様な入れ物が並べられていた。

「はい。じゃあ次はこれね」

 そのうちの一つ、ごく一般的なサイズの飲み物用のグラスを手に取り、エルザが軽く放り投げてくる。
 片手で受け取り、その中を覗き込んだ。

 すぅと息を吸い、はぁと吐く。魔力をグラスに集中させて、気が付いた時には出現させた水がグラスから溢れて膝を濡らしていた。

「うわっ……ああもう、まただ」
「はいはい、落ち込まないの」

 出した水をさっさと捨てて、エルザは次の入れ物を選んでいる。

「次はこれ。さっきのより大きいわよ」

 言葉通り、渡されたのは先ほどのグラスの二倍は容量のありそうなボウル型の容器だった。

 さっきのより大きい、そしてさっきはグラスから水があふれた。

 このことを念頭に置き、グレンは再び息を整える。

 そして出現した水は容器の半分ほどで止まったのだった。

「…………」
「さっき出したのでちょうど良かったんじゃないかしら」

 水がこぼれることはなかったが、要求された鍛錬の内容にはそぐわない結果に、体が脱力して何度目かわからないため息が漏れる。

「ほら、体が覚えてるうちにさっきの水の量をここに出しなさい! 疲れるのはそのあとよ」

 容器を奪ってぽいと水を捨てたエルザに急かされ、グレンは先ほどのグラスの時の感覚をそのままにボウル型の容器へと魔力を集中させる。
 出現した結果に、エルザからは「及第点かしらね」と厳しい評価が下され、グレンはついに不満を漏らした。

「これ難しいよ……」
「何言ってるの。水を使うならこれは覚えていて損はないんだから頑張りなさい。泣き言言う子はうちの子じゃないわよ」
「だから俺はあんたの子じゃないって……」

 またしてもエルザの「何言ってるの」が飛んでくる。

「ザックもグレンも私にとっては部下の前に弟みたいなもんよ。ノエルは一度も泣き言なんて言ったことないんだから。しゃきっとしなさい!」

 ジャックと比べるなよとは心の中だけに留めたグレンだった。

 言い合う最中、エルザが突然左手を無造作に振った。直後二つの水の玉が出現し、勢いよく飛んでいく。その先ではザックとオーウェンが打ち合っていた。

 顔面に水が直撃したザックと、身を屈めて避けたオーウェンを呆然と眺める。オーウェンの右手がゆったりと動き、ザックの胸を軽く突いた。

「今の水の玉はこのボウルでちょうどの量よ」

 そう言ったエルザが左の人差し指を立てた先に、一つの水の玉が出現する。

 緩やかな動きでその水の玉はふよふよと動き、ボウルへと落ちた。

 その水がボウルの淵にピタリと収まるのを見て取って慄く。横から覗き込んでもほんの少しの誤差もない。

「ほらね」

 得意げに胸を張るこの上官は、いつも自分達から逃げ回る人と果たして同一人物なのだろうか。

「水は出したら出しただけ魔力を消費するの。それなら必要最低限に留めたほうがお得だと思わない?」
「それはそうだろうけどさぁ……」

 その言い方はなんだか生鮮食品を買う主婦みたいで少し嫌だと思うグレンだ。

「私はオーウェンみたいに魔力が多いわけじゃないから節約は必須なの。もしも魔力不足を起こしても相手は休ませてくれないのよ」

 人差し指を立てて言い聞かせてくるエルザはいつも自らの頭を撫でてニヤける女と同一人物とは思えないほど凛々しく端然とした教師のようで、グレンは内心『落差がありすぎる』と思っていたがもちろん口にはしない。

「それに魔力の出力を調整することは魔力操作の基礎よ。私が得意にしてる気管に水を詰めるのも、魔力を細く少なく放出して小さな穴に通すの。細く少なくする練習ではこうしていたのよ」

 見てなさい、と言ってエルザは左手の親指と人差し指の先をつなげて輪を作った。
 その輪の上に先ほどより小さな水の玉が出現する。
 そこから細い水の流れができて、エルザの指の輪を通り、水の玉へと帰っていった。
 エルザが「細く」と言えば流れは細くなり、「太く」と言えば太くなって流れる。

 指の輪を外せば水は重力に従って地面へと落ちた。

「せっかく水の属性を持ってるんだから、自由に動かせたら楽しいわよ」

 普通の人は水を敵の顔に叩きつけるくらいがせいぜいというこの世界において、この動きを『楽しい』からという理由で要求してくる人が上司なのだから、グレンはとんでもないところに就職してしまったと思わざるを得ない。
 それでも自らのスキルアップになるのだからと言い聞かせて手にした容器を睨むも、しかし自分は水を浮かせられるようになるところからかと自覚すると、先はどうにも長そうだった。

「グレン」

 唐突に横から名を呼ばれた。顔を向けると立てられた細い指先に直径三センチほどの水の玉が浮いている。

 ギョッとしたのは一瞬で、すぐに魔力を通すが水の玉はグツグツと揺らぎながらも宙に浮き続けた。

 湯気が立ち昇り始めたその水の玉、いや熱湯の玉はエルザの指先から注意深く遠くに放り投げられた。それを見届けてまたため息が出る。

「これでも駄目かぁ……」
「それでも一瞬で沸騰させられたじゃない。朝からすれば進歩だわ」

 水の時には一度もなかった褒め言葉を口にして、エルザは微笑みながらグレンの頭を撫でた。果たしてこれはグレンに対するご褒美なのか、エルザが撫でたいだけか。恐らくは後者が八割だと思うグレンだった。



 グレンは水の他に火の属性も持っている。

 火の玉を出す以外には物質を熱する力のある魔法だから、それも同時に鍛えるためにエルザがグレンに課したのは、水を思い通りに出現させる感覚を養うことと火力の調整だった。

 今グレンが行っているのは、エルザが用意した様々な容器に水を出しつつ、エルザが出した水を蒸発させられる火力を一瞬で放つというものだ。

 朝から始めて一発目の水の玉はお風呂の湯程度の温度にしかならなかったことを思えば進歩は進歩だが、グレン自身は何一つ納得のいく結果を出せていないことに焦りと苛立ちを覚えていた。

 ちらりと視線を向けたザックとオーウェンも、相変わらずザックが打たれるばかりでオーウェンは汗すらかいていない。
 打たれてすぐさま木剣を構え直す表情は険しく、友人もきっと自分と同じくもどかしい思いをしているのだろうと思った。

 それも当然だろう。
 一国の10と5が時間を割いて鍛錬に付き合ってくれているのだ。その厚意を無駄にするわけにはいかない。

「もう一度お願いします。次は絶対に合格をもらうからな」

 気合を入れ直して居住まいを正すとエルザは嬉しそうに笑った。

「もちろん。出来るまで付き合ってあげるわ。頑張りなさい」

 それって次でも無理だと思ってるってことじゃないか? と内心思ったが、むしろみくびられたことで火が付いた。

 すぐ出来るようになって、驚かせてやる。

 密かに意気込む部下の姿にエルザがこっそりとほくそ笑んでいるのも知らず、グレンはその後も積極的に火と水の鍛錬に勤しんだのだった。



 鍛錬を続ける二人の耳に、三人分の足音が届いた。

 目を向ければ、腕にローブを引っ掛けたオーウェンと汗だか水だかを髪から滴らせたザック、それに顔見知りの侍従の姿がある。

「すみません、エルザ。呼び出しがありましたので少し外します。ザックを頼めますか」
「いいけど、私は行かなくてもいいの?」

 目を瞬いたオーウェンは「来てくださるんですか?」と驚いた声音で尋ねた。

 途端に、しまった! とばかりにエルザは慌ててグレンの背中に隠れたものだからオーウェンは呆れた目を恋人に向けたが、侍従の前だからと何かを飲み込んだようだった。

「……すぐ戻りますからここにいてくださいね」
「はぁい」
「返事だけは元気がいいな……」

 結局飲み込まれた息は吐き出され、オーウェンは侍従を伴って離れて行った。

 十分にオーウェン達が離れたところでようやくエルザはグレンの背中から出てきた。
 腕を天へと上げて大きく伸びをしつつ、「それじゃあ今からは三人で出来る鍛錬でもしましょうか」と笑いかけてくる上官に二人は『やっぱりエルザ様はエルザ様だなぁ』と思ったが、口には出さずに「よろしくお願いします」と頭を下げるに留めた。

「さっきはザックが打ち合いでグレンが魔法だったから、次は逆にしましょうか。私とグレンが打ち合うから、ザックは私が言う秒数で収まる量の光で目くらましをしてちょうだい。二って言ったら二秒、三なら三秒ね。グレンは剣と魔法の両方を使う練習。私は剣だけで相手をするから、合間に水や火を意識して投げてきなさい。私が言った秒数分、目を閉じるのを忘れちゃダメよ。ザックとグレンが共闘するときの訓練も兼ねるから。ザックも隙を見つけたら剣で斬りかかってきていいからね。出来るだけ実践に近い状況で訓練しましょう。そのほうが上達も早いから」

 このとき、二人は礼儀正しく上官へ返事をしたが、その実、さりげなく目を交わしていた。
 この二人はかつて同じアカデミーに在籍していて、エルザの言う共闘は二対二の試合という形で何度も組んだことがあった。その事実を意図的に隠したのだ。

 隠したことに特に理由はないが、いつも振り回してくるエルザには情けないところばかり見せているから少し驚かせてやりたくなった、というのがこの時の二人の正直な気持ちだった。
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