ヒロインは私のルートを選択したようです

深川ねず

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第二章

番外編 はじめてのしゅっちょう①

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 腕を後ろで組み、足は肩幅に広げる。兵士時代から染みついている、上官の話を聞く姿勢だ。
 グレンとザックの前では二人の上官であるエルザが難しい顔をして腕を組み、その後ろには当然のように彼女の補佐であり恋人でもあるオーウェンが眉間にしわを寄せて立っている。
 一体何があったというのか。上官の口が開かれるのを、二人は同じ動作でゴクリと唾を飲み込み、待機していた。

「グレン。ザック」

 上官の静かな声音に、二人の緊張はピークに達して──。

「オーウェンと私。どちらに付いていくか。よく考えて答えなさい」

 それ、離婚する親が子供に聞くやつですよね。と、グレンは思った。



「……り、離婚なさるんですか!?」

 同じことを思ったらしいザックの失言だった。

「り、りり離婚って、ま、まだ、けっ結婚もしてにゃに……っ!!」

 顔を真っ赤に染めたエルザが激しく動揺して舌を噛み、ため息をついたオーウェンがエルザを丁寧に押しのけて二人の前に立った。

「明日から俺とエルザが出張に出る予定なのは二人も知っているだろう」
「は、はい。確かエルザ様の故郷近くの漁村に出向かれるんでしたよね」

 オーウェンは正解だとばかりに鷹揚に首肯した。

 スペードの10の補佐である前にスペードの5であるオーウェンの仕事に、国内各地の小規模な町村の管理がある。スペードの城に届けられた町民村民の様々な声を精査し、時には問題解決のため現地まで赴くというものだ。本来であればその地を治める貴族の管轄となるが、スペードの国では当代の5もその管理の一端を担っている。

 今回、届けられた書面によりエルザの故郷近くの村のトラブルにオーウェンが出向くこととなり、エルザが里帰りを兼ねて同行する予定となっていた。

「そうだ。だが先ほど困ったことが起きて……いや、発覚してな……」

 じろりと鋭くオーウェンが恋人を睨む。どうやらエルザが何かやらかしたらしいと、賢い二人は悟った。

 恋人の視線から逃れるためか、エルザは慌ててグレンの背中に隠れる。
 そんなエルザに目もくれずオーウェンが身をひるがえし、部屋の中央に置かれた執務机へと歩み寄った。
 その上に置かれているのは、高さ十センチを超えるだろう書類の束だ。
 バンと音を立てて書類の束を平手で叩き、エメラルドの瞳に燃える炎を湛えて、恋人を詰問した。

「エルザ。この書類は何か。二人に正直に話しなさい」

 グレンの背後から「うう……私の未処理の書類ですぅ……」と情けない声がする。

「そうですね。あなたが間違えて処理済みの書類の束に重ねて置いたまま放置していた、あなたの、未処理の書類、ですね」

 グレンとザックは思わず目を見合わせて、同時にため息をついた。スペードの城に来てからすでに見慣れた流れだった。

「ふ、二人までため息吐かないで……自分が情けなくなってきたわ……」
「大いに吐け、二人とも。このなっさけない上司にこれでもかとな」

 ひどいと言いながらもエルザはグレンの背後から出てこない。
 ザックが取り繕うように口を開いた。

「えっと……つまり、その書類も処理しておけばよろしいのでしょうか」

 オーウェンとエルザがいない間の仕事については、すでにいくつか任されているものがある。その追加だろうかと二人は考えたが、それにしてはエルザの冒頭のセリフが引っ掛かった。

「いや。これらはどうしても全てエルザの目を通す必要があってな。二人だけに任せるわけにはいかない。だから、エルザは置いていくことになった」

 首を振ったオーウェンがグレンの背後を睨む。
 二人の小旅行替わりだった出張が消えてなくなり、ひそかに楽しみにしていたオーウェンもエルザには少々冷たくなる。
 楽しみにしていたのはエルザも同様だろうが、あいにく不満を言える立場にはない。

「出張の日の変更も難しいからな。俺一人で行くかとも思ったんだが……」

 すかさずグレンの背後から抗議の声が上がった。

「だからダメだったら。一人でなんて。何かあったらどうするのよ」
「……俺としては二人にはエルザの見張り……手伝いをしてもらいたいところだが、エルザがこう言い張って聞かなくてな。どちらかに付いてきてもらいたい」

 それで冒頭のセリフにつながるわけかと二人は納得した。つまり、片方はオーウェンについて出張に同行し、もう片方は残ってエルザの……後始末を手伝うということだ。

 グレンはほんの一瞬、エルザと二人きりで仕事ができるのかと考えて頭を振った。オーウェンに申し訳なく思っての行動だったが、しかし同時にエルザに触れられるのを避けているザックとエルザを二人にするのも、ザックの貞操が危ぶまれた。ザックはオーウェンと行きたがるかもしれない。自分が残るか。と考えた時、隣から友人が声を上げた。

「それでは、俺がエルザ様と残ります」
「……いいのか、ザック」

 意外に思ってグレンが問いかけたが、ザックはぼそりと「グレンとエルザ様を残していくのはちょっとな……」と零した。それは幸いにも誰の耳にも入らなかった。

「わかった。それではグレンに同行してもらおう。急ですまないな。明日の出発に備えて二人はもう上がりなさい。エルザは俺と居残りだ」
「今から頑張ってやれば明日には終わらないかしら……」
「……一晩でこれが終わると思ってるのか、このバカが! そもそも、どれだけ溜め込めばこんな量になるんだ!!」

 グレンを盾に恋人の雷から逃れようとしたエルザが、影に絡めとられてグレンの背後から引っ張り出された。
 そんな上官二人を目の前にグレンとザックは静かに後ずさり、失礼しましたと小声で囁いて騒がしい執務室から逃げ出す羽目になった。

 そうしてあっという間に夜は明けて、出発の朝となった。




「忘れ物はないか」

 長旅だから移動は馬車になる。乗り込む前にオーウェンに問われ、グレンは「ありません」と礼儀正しく答えた。

「君のありません。は、本当にないのだろうな……」

 ため息を吐くオーウェンの言葉にはこれまでの様々な苦労がにじみ出ている。
 慌ててグレンが話題を変えた。

「エ、エルザ様は残念でしたね」
「いや。これもいい薬になっただろう。……気付かなかった俺も悪い」

 自らにも非があったと哀愁を漂わせつつオーウェンが零し、それでは出発するかと馬車に足をかけたところで、声がかかった。

「オーウェン──!」

 恋人の声を聞き逃すなどありえないオーウェンが振り返る。見送りに来てくれたのだろうエルザとザックが、こちらに駆けてきていた。

 数日離れることになる。きっとわずかな別れを惜しんでの見送りだ。
 エルザに対する怒りをあらわにしておきながらも、本心では離れることを寂しく思っていたオーウェンは、その見送りに漂わせていた哀愁を引っ込め、胸に飛び込んでくるだろう恋人を沸き立つ気持ちを抑えて待ち受けた。

 辿り着いた恋人がその胸にそっと手を添えた。

「イカの塩辛!」
「…………………………………………あ?」

 グレンとザックが今まで聞いた中で最も低い声がオーウェンから放たれた。

「うちの実家で作るイカの塩辛が絶品なのよ! お酒にも合うし、大好きなの!」
「………………まさか、あなたの実家まで行って、いただいて来いとでも…………?」

 オーウェンの声音に、部下二人の体にぶるりと震えるほどの寒気が走った。だがエルザは気付いていないのか平然と言葉を続けた。

「そこまでは頼めないわよ。でもね、地元の家庭料理だから観光客のための出店にお土産用に作られたものがあるの。それを買ってきて欲し──」
「ザック」

 突然の名指しに、ザックが「ひゃい!」と裏声を上げた。

「俺がいない間、決してこの人から目を離さないように。寝かさなくていいから執務室に閉じ込めて仕事をさせておけ」
「わっ、わかりました……」

 ザックの返答にどす黒い笑顔で頷いたオーウェンは、目の前で固まる恋人の手を取った。

「エルザ。もしも俺が戻るまでに全ての書類の処理が終わっていなかった場合、俺は──ザックを叱る。わかったな」
「──人質を取る気!?」
「俺が生贄ですか!?」

 重なる叫びはどちらもひどいが、エルザ様にとっては一番有効な脅しだよなぁと考えながら、グレンは逃げるようにそっと馬車に乗り込んだ。
 恋人の手を離し、黒い笑みを浮かべたままのオーウェンも乗り込んでくる。「刻んだゆずが入ったやつが好きなんだけど……」と懲りない者の声を遮断するように、扉が無情にもバタンと閉められた。

 ガタガタと馬車が動き出し、そっと窓を覗くとエルザが大きく手を振っている。その視線は決してグレンとは重ならない。
 向かいに腰掛けた上官を盗み見れば、緑の視線は窓の外を一点に見つめている。
 わかりきった事実だ。寂しさは感じない。逃げるように窓から視線を外した。

「グレン。エルザが君に手を振ってるから、振り返してあげて。あの人は君を可愛がってるから」
「え?」

 慌てて窓へと目を戻せば、確かに空色の視線は自分を真っ直ぐに指していた。手を小さく振れば、エルザが嬉しそうに笑った。

「……だから二人とも置いて行くって言ったのに。いざ離れるとなると寂しがるんだ。あの人は」

 オーウェン様と離れることを寂しがっているのではと喉元まで出かかった言葉を発していいものか、グレンはわずかに悩む。
 今エルザが見つめているのは、紛れもなく自分だった。

 ふっ、と。向かいから息を吹き出すような音がした。

「人質……生贄……ぶっ、ふふ……」

 あの二人の慌てた様子を思い出しているらしいオーウェンの肩が震える。今日からお目付役となったザックにとっては死活問題だろうが、グレンもまた青ざめる二人を思い出しては笑いを堪えるのは難しく、早々に友人を裏切ることにした。



 トラブルの処理は滞りなく済み、早々に帰路に着くこととなった。だが、オーウェンが馬車を向けたのは城ではない。
 ほんの数時間で到着したのは活気あふれる漁港町だ。ほんの少し苦手な魚の生臭さが鼻を突き、剣呑とした目付きの猫が我が物顔で通りを闊歩している。
 一つの商店の前に立ったオーウェンが店主に話しかけた。

「城から参った者ですが、何かお困りなことはありませんか」
「やぁ、お役人さんかい。うちは特に難儀してることはないよ。それより何か買ってってくれよ。うちで干したのはどれも美味いよ」

 抜け目のない店主の前に並ぶのは魚の干物や漬物だった。

 その中の一つの壺漬けに目を向けた上官にグレンが『まさか』と思う中、オーウェンは「このイカの塩辛は柚子入りですか」と店主に問いかけていた。

「入ってるよ。入れてないのも用意してるけど、この辺じゃあどの家も入れるからね。いくつにする?」
「三つお願いします。一つは持ち帰りますが、あとの二つは配送をお願いできますか。住所は──」

 そう言ってサラサラと伝えられた住所の一つはグレンの実家だった。となると恐らくもう一つはザックの実家だろう。
 ポカンと口を開けたまま固まるグレンの目の前で今にもお支払いが済まされようとしていて、慌てて「自分ちのは俺が払います!!」と口を挟む。しかし突如立ち上がった影に顔をペシリと叩かれた。

「部下に出させるわけがないだろう。そもそも君達の様子についてはご両親に何度も手紙を出しているから、これはそのついでのようなものだ。今回の出張については断りを入れる合間もなかったからな」
「て、手紙なんて書いてくださってたんですか?」
「隣とはいえ他国にご子息を引っ張り込んだんだから、当然の礼儀だ。……この辺りで食事ができるお店はありますか」

 荷物を受け取ったオーウェンが店主に問いかける。すでに太陽が真上にある時間だ。それを自覚して、グレンの腹の虫が静かに鳴った。

「それならローラんとこが美味しいよ。あそこはあんたらと同じくらいの歳の可愛い娘もいるしな」

 ニヤけ顔を浮かべた店主が店の場所を教えてくれるも、オーウェンの眉が困ったように下がる。

「……ほかには?」
「ないね! ミアちゃんの婿さん探しに協力するってじいさんと約束してっからな。食ってってやっとくれよ。美味いのは嘘じゃあないから」

 まいどありと強引に会話を引き上げて店主はオーウェン達から意識を移し、他の客を呼び込み始めた。

 小さくため息をついたオーウェンにグレンが「お腹は空いてませんから、食事はして行かなくても……」と取り成すも、腹の虫は正直だった。
 
「……すみません」
「気にするな。俺も腹が減ったし、せっかく来たんだからここで新鮮な海の幸を食べていかないのは勿体無いだろう」

 しゅんと項垂れたグレンの頭に、オーウェンが手を乗せて叩く。二度叩いた辺りでオーウェンが目を瞬かせた。無意識の行動だったらしい。

「君は……前世はチワワか何か……」
「違うと思います……」

 十九歳の男が小型犬に例えられるのは複雑な心境だったが、この上官に対してエルザにするようには強気に出られないグレンだった。
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