ヒロインは私のルートを選択したようです

深川ねず

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第二章

55 オーウェン視点

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 多少の嫌味を言うくらいで、いや拳も数発は出るだろうが、あの人のことだからその辺りで終わりだろうと思っていた。
 これだけのことをされていながらも、きっと自分への仕打ちに対しては、許してしまうだろうと。

 だが、剣を踏みつけたエルザの右足が唐突に跳ね上がった。
 腰を捻り、繰り出された鋭い蹴りが女の側頭を直撃する。

 やれやれと呆れ調子で見ていた面々も、わずかに顔色を変えた。
 しかしこれもまだエルザがされたことを考えれば、許容範囲に思えた。が、エルザがあの女の髪を持ち上げたところで、様子がおかしいことに全員が気が付いた。

「あいつ……キレてないか……?」

 なにか言われたのかと呆然と呟くキングに答える者はいない。
 だが、静まり返る貴賓席を置き去りに、再びエルザが右拳を振り下ろした。

 右手は怪我をしていると聞いた。怪我に頓着する余裕もないほど、怒っているのか。

 いや、それどころではない。

 ゆったりとした動きでエルザは、派手な剣を持ち上げた。



 あの女を──殺してしまうつもりだ。



 それは、まずい。

 同じことを考えたらしい、クイーンやレグサスと同時に、キングを仰ぐ。
 いくつもの視線を受けて、キングは眉を寄せて頷いた。

「このままあの女をエルザに殺させるわけにはいかん。この観衆の中で殺人の容疑をかけられているスペードの10が被害者の上司であるダイヤの10を殴り殺したとあっては、エルザを無罪放免に出来なくなる。スペード側の口封じを疑われかねない」

 ダイヤのキングにエルザの無罪を証明させようとも、裏を疑いたがる国民によって、ソフィアが国家間の諍いの──スペードの10の罪を被らされた犠牲者にされてしまうかもしれない。
 ソフィアには生きて、罪を償わせなければならなかった。

「ノエル。止めてきてくれ」

 すでに受ける指示を予想していたらしいジャック──ノエルは、柵に足をかけていた。
 うん、と頷いて飛び降りていった。

 それを見送って、ホッと一息吐く。

 だが、キングやクイーン、レグサスの声は固かった。

「あいつがキレたのなんて、いつぶりだ……? 前はノエルが抱きついてなんとか止まったが……」
「確かアカデミー以来ですよ。私が上級生に突き飛ばされて、それを見たエルザが……」
「あー、確か大怪我で全治数ヶ月って噂になったやつだな。……今回もノエルで止まるかね」
「どうだろうな……」

 アカデミー以来なら俺が見たことがないのは当然だ。しかし皆さんは今回の怒りがその比ではないと思っているようだった。

 俺達が心配そうに見守る中、ノエルがエルザへと走り寄って行くのが見えた。



 ※



 跳ねるように走るノエルが、ここ数日使っていなかった可愛らしい声を意識して、大好きな姉を呼んだ。

「エルザー! 会いたかったよ! やっと出られたんだね──」

 騎士として生きるノエルは、走り寄る最中、危険を敏感に察して一歩後ろに飛んだ。

 その足元にガッと音を立てて亀裂が入る。

 それはこれまでに何度も、見たことがあるものだった。

「……エルザ?」

 風の魔法で地面を抉ったエルザは振り返らない。聞き慣れた声だけが応えた。

「私も会いたかったわ。ノエル。でも今は取り込んでいるから、少し下がっていてね」

 優しくも有無を言わさぬ声だ。

 だが兄は、エルザにダイヤの10を殺させてはいけないと言った。
 だから、ここで下がるわけにはいかない。

「でもね、久しぶりなんだもん。エルザにいっぱい話したいことがあるんだよ! 昨日はね、オーウェンさんとお出かけして」
「ノエル」

 いつもなら聞き入れてくれるだろうエルザから発せられた声はあまりにも硬く、思わず口を噤んだ。

「あなたはまさか、この女を庇いにきたの。絆されちゃったのかしら」
「……そんなわけ、ないよ。そんな女、僕はどうでも、いいし」

 これはノエルの本心だった。
 エルザが殺してしまいたいと思うほど怒りを覚えることをしたのなら、ソフィアが全て悪いのだ。
 ただ兄が、殺させてはいけないと言うから、それに従っただけで。

 けれど。

「なら今はお兄ちゃん達の元へ戻っていなさい。いいわね」

 ここまで言われては、ノエルは従う対象を変えるより他ない。

 正しい兄の命令を無視してでも。
 そしてそれが、大好きなエルザの首を絞めることだと分かっていても、大人しく貴賓席へと戻ることしか、ノエルには出来なかった。



 ※
 


 貴賓席は通夜のような有様になってしまった。
 足を止めたノエルが身を翻して戻ってきて、そのまま隅っこで膝を抱えてしまったからだ。

「ノエル、兄ちゃんが悪かった。……元気出せよ。な?」

 兄キングに肩を揺すられても、ノエルは床に指で円を書きながら俯いて返事をしない。
「何か菓子はないか!?」とポケットを弄るキングの姿に、「ありゃあダメだな」と呟いたのは俺の隣にいるレグサスだった。

「ふざけている場合ではありませんよ。エルザもさすがに剣を使いはしていませんが……」

 広場を見下ろしたままのクイーンは、今のところは。との言葉を飲み込んだようだった。

 そうこうしているうちにエルザはまたあの女を蹴り上げ、転がしている。

「……仕方ない。とにかく、まだあの女を殺させるわけにはいかない。全員で行って、力づくで取り押さえるぞ」

 弟の元気を取り戻すことに失敗したキングが、立ち上がって宣言した。

「ゼンは目眩しを優先しろ。オーウェンは隙を見て影で拘束。俺が前に立つから、レグは──」
「それ、ダメだと思う……」

 否定の声は低いところから聞こえてきた。

「駄目ってのは?」

 兄に問いかけられたノエルは、落ち込んだ顔をそのままに口を開いた。

「さっき、エルザが言ってたんだ。この女を庇いにきたのかって。絆されたのかって疑ってた。だから、兄さん達が行くと、エルザは……今以上に怒っちゃうと思うよ……」

 場に静寂が下りる。

 今以上に怒るとは、アレ以上ということか、と。
 広場の踏みつけられた女を見て、背筋がぞわりと冷えた。

「なら、レグとオーウェンだけで行かせるしかないか……?」

 キングに目を向けられ、レグサスは心底嫌そうに唸った。

「……止められるかね? あれが。そもそも体術の試合で俺、というか俺ら全員、あいつに勝ったことないだろ」

 それは初耳だった。

「全員がって……まさか、ノエルも?」

 問い掛ければレグサスは首肯した。
 ノエルはその国で最も強い者に与えられるジャックの位を持っている。その立場を競ったとはいえ、エルザは常々ノエルには勝てないと言っていたのに。

 答えてくれたのはキングだった。

「エルザはとにかく体が柔らかくて、手も脚も長いからな。体術向きの体なんだよ……ってのんびりしてる場合じゃねぇな」

 見下ろせば、得意の体術だけでなく、あの人得意の水の魔法でダイヤの10を溺れさせているところだった。

 仕方ない。行くだけ行ってみるかとレグサスが腕を回したところで「あの……」と遠慮がちな声がした。

「オーウェンさんがお一人で行くのは、ダメでしょうか」
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