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第二章
43 グレン視点
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「ならいいかしらね…………整列」
ピシリと、空気が変わった。
それを自覚したときにはすでに、両手を後ろ手に組み、脚は肩幅に広げ、上官の次の言葉を待つ姿勢になっていた。
「グレン。私は走り出すあなたに『待て』と声をかけたはずだが、どうして待てなかった。あの時、私はまだあなたの上官でもなんでもなかったが、たかが他国の位持ちの指示だと軽んじていたのか」
気が付けばスペードの10もまた同じ姿勢で立ち、俺に優しい視線を向けていた空色の目は鋭くなり、先ほどパンを美味しいと言って食べていた綺麗な形の唇からは、厳しい詰問が投げつけられていた。
「い、いいえ……申し訳ございません。スペードの10」
「謝罪は結構。上官の指示に唯々諾々と従う部下など、私はいらない。だが、飛び出してあの女に会い、スペードのキングやクイーンが来なければあなたはどうなっていたか。そのことをよく、考えなさい。あなたは賢いのだから」
「はい。……申し訳ございませんでした」
鋭い視線は隣にも飛んだ。
「ザック。どうしてあなたはソフィアに剣を向けられて、大人しく斬られようとしたのか。あなたは兵士として訓練してきているはずでしょう。死ぬつもりだったのなら、私は余計なことをしたのか」
「そんなことはありません! 助けていただいて、感謝しています。……剣を抜く判断には至りませんでした。申し訳ございません」
「友人を殺されたあなたの心中は察するに余りあるが、今回はあなた一人だったとはいえ、もしも後ろに守るべき人がいたならどうする。黙って斬られ、その人達も危険に晒すつもりか。兵士として生きるつもりなら、精進しなさい」
「はい。ありがとうございました。スペードの10」
この後数分間、スペードの10は口を閉じ、微動だにせずこちらを見つめ続けた。
俺達は、この人の部下として不合格の烙印を押されてしまったのだろうか。
不安が汗となって、首筋を伝った。
ふっと全身に強張った力が抜けた。
こちらを見つめていた空色の瞳が和らぎ、後ろ手の腕を解いたからだ。
「グレン。あなたが無事に戻ってきてくれて、ほっとしたわ。外の情報もとても助かった。感謝するわ。ザックも。助けられて本当に良かった。あなたはコニーさんの分も長生きしなさい」
優しい言葉にほっと息を吐く。
そして、気が付いてしまった。
もしも、今のこれが、素のこの人なのだとしたら。
俺を『グレン君』と呼んだこの人は、なんだったのだ、と。
思い返せば、ザックに対しては妙に弱々しく見せてはいなかったか。俺との時とはまるで違って。
それは、ザックに対しては極めて有効な対応だったように思えた。
ザックは気のいい奴で弱い人を放っておけない質だ。もしもこの人に対して負い目がなかったとしても、そしてコニーを殺した人だと思っていたとしても。あの弱った姿を見せれば必ず水や食料を持ち込んだだろうし……下手をすれば脱獄の手助けまでしてしまうかもしれない、大胆さもある。
俺は? 俺は、少し話したこの人との時間が思いの外楽しくて、見張りの当番になるのを楽しみにしてはいなかったか。デザートまで差し入れしようとして。
あの甘えた声はこの人の素だろうか。寂しいからお話しましょうと言った声は、俺の頭を撫でていた時の空色の目は何を思っていた。
まさか、と嫌な予感がよぎり、おそらくはそれが当たりなのだろうと思った。
きっと、ザックには弱って見せ、俺には単純な──ハニートラップだ。
この人は囚われの自分の手足となる者を探して、俺達に目をつけた。そしてその目論見は見事に成功したのだ。
それが分かったのに、驚くほどこの人に対して嫌悪感は生まれず、むしろあの女へ教えてやりたいと思うほどの爽快感があった。
目的のためになら、それが非人道的な手段でも躊躇しない。これが、一国の10だ。お前の、おままごとのような10とは違うのだ、と。
それにこの人は、あの女と違って俺達をただの駒になどしない。大事な利き手に怪我を負ってまで、助けてくれた。
誰よりも信頼できる人だ。
自然と頭が下がった。
「友人の命を救っていただいたにも関わらず命令に背き、申し訳ございませんでした。どれだけ頭を下げても、手の怪我の詫びにもなりません。これからは俺達があなたの手となり足となります。耳や目にもなります。指示をください。あなたは、こんなところにいていい人じゃない」
きょとんとこちらを見返したスペードの10は口元に指を当て、何かを考えているようだった。
静かに指示を待つ。
ふと、指を当てた口元が緩み、その両端が上がった。
「グレン」
名を呼ばれ、左手が鉄格子の隙間から差し伸べられた。
ピシリと、空気が変わった。
それを自覚したときにはすでに、両手を後ろ手に組み、脚は肩幅に広げ、上官の次の言葉を待つ姿勢になっていた。
「グレン。私は走り出すあなたに『待て』と声をかけたはずだが、どうして待てなかった。あの時、私はまだあなたの上官でもなんでもなかったが、たかが他国の位持ちの指示だと軽んじていたのか」
気が付けばスペードの10もまた同じ姿勢で立ち、俺に優しい視線を向けていた空色の目は鋭くなり、先ほどパンを美味しいと言って食べていた綺麗な形の唇からは、厳しい詰問が投げつけられていた。
「い、いいえ……申し訳ございません。スペードの10」
「謝罪は結構。上官の指示に唯々諾々と従う部下など、私はいらない。だが、飛び出してあの女に会い、スペードのキングやクイーンが来なければあなたはどうなっていたか。そのことをよく、考えなさい。あなたは賢いのだから」
「はい。……申し訳ございませんでした」
鋭い視線は隣にも飛んだ。
「ザック。どうしてあなたはソフィアに剣を向けられて、大人しく斬られようとしたのか。あなたは兵士として訓練してきているはずでしょう。死ぬつもりだったのなら、私は余計なことをしたのか」
「そんなことはありません! 助けていただいて、感謝しています。……剣を抜く判断には至りませんでした。申し訳ございません」
「友人を殺されたあなたの心中は察するに余りあるが、今回はあなた一人だったとはいえ、もしも後ろに守るべき人がいたならどうする。黙って斬られ、その人達も危険に晒すつもりか。兵士として生きるつもりなら、精進しなさい」
「はい。ありがとうございました。スペードの10」
この後数分間、スペードの10は口を閉じ、微動だにせずこちらを見つめ続けた。
俺達は、この人の部下として不合格の烙印を押されてしまったのだろうか。
不安が汗となって、首筋を伝った。
ふっと全身に強張った力が抜けた。
こちらを見つめていた空色の瞳が和らぎ、後ろ手の腕を解いたからだ。
「グレン。あなたが無事に戻ってきてくれて、ほっとしたわ。外の情報もとても助かった。感謝するわ。ザックも。助けられて本当に良かった。あなたはコニーさんの分も長生きしなさい」
優しい言葉にほっと息を吐く。
そして、気が付いてしまった。
もしも、今のこれが、素のこの人なのだとしたら。
俺を『グレン君』と呼んだこの人は、なんだったのだ、と。
思い返せば、ザックに対しては妙に弱々しく見せてはいなかったか。俺との時とはまるで違って。
それは、ザックに対しては極めて有効な対応だったように思えた。
ザックは気のいい奴で弱い人を放っておけない質だ。もしもこの人に対して負い目がなかったとしても、そしてコニーを殺した人だと思っていたとしても。あの弱った姿を見せれば必ず水や食料を持ち込んだだろうし……下手をすれば脱獄の手助けまでしてしまうかもしれない、大胆さもある。
俺は? 俺は、少し話したこの人との時間が思いの外楽しくて、見張りの当番になるのを楽しみにしてはいなかったか。デザートまで差し入れしようとして。
あの甘えた声はこの人の素だろうか。寂しいからお話しましょうと言った声は、俺の頭を撫でていた時の空色の目は何を思っていた。
まさか、と嫌な予感がよぎり、おそらくはそれが当たりなのだろうと思った。
きっと、ザックには弱って見せ、俺には単純な──ハニートラップだ。
この人は囚われの自分の手足となる者を探して、俺達に目をつけた。そしてその目論見は見事に成功したのだ。
それが分かったのに、驚くほどこの人に対して嫌悪感は生まれず、むしろあの女へ教えてやりたいと思うほどの爽快感があった。
目的のためになら、それが非人道的な手段でも躊躇しない。これが、一国の10だ。お前の、おままごとのような10とは違うのだ、と。
それにこの人は、あの女と違って俺達をただの駒になどしない。大事な利き手に怪我を負ってまで、助けてくれた。
誰よりも信頼できる人だ。
自然と頭が下がった。
「友人の命を救っていただいたにも関わらず命令に背き、申し訳ございませんでした。どれだけ頭を下げても、手の怪我の詫びにもなりません。これからは俺達があなたの手となり足となります。耳や目にもなります。指示をください。あなたは、こんなところにいていい人じゃない」
きょとんとこちらを見返したスペードの10は口元に指を当て、何かを考えているようだった。
静かに指示を待つ。
ふと、指を当てた口元が緩み、その両端が上がった。
「グレン」
名を呼ばれ、左手が鉄格子の隙間から差し伸べられた。
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