64 / 206
第一章
64 補佐は資格を失った
しおりを挟む
いつのまにか自室に帰っていたらしい。
ソファに座ることもできず、崩れ落ちてスツールに顔面を押し付けた。
浮かれていた数日前の愚かな自分を、心の中で罵る。
キングとクイーンの牽制にララさんは受けて立ち、俺は逃げた。
もうあの人への気持ちを持つ資格すら、なくなってしまった。
いっそ、誰かと結婚してしまおうか?
他の誰かと穏やかに過ごしていれば、こんな報われるはずもない想いなどすぐに忘れられるのでは。
……いや、だめだ。他に思う人があるままの婚姻は、相手にあまりにも失礼で申し訳なさすぎる。
きちんと心の整理をつけてからにするべきだろうな。
心の整理など付くはずもないことは、全身を駆け巡る行き場のない苛立ちとも嘆きとも取れるこの感情を見れば明らかだが。
ノックの音にびくりと体が跳ねた。
いつもより控えめながらも、それだけで誰が来たのかがわかってしまった。
どうしてここに来たのか。
今頃楽しくテーブルを囲んでいるはずの人が。
このまま動かなければ彼女は去るだろう。
このまま、動かなければ。
彼女が行ってしまう。
ドアノブを引いて扉を開けると、俯いていた頭が上がり、真正面から空色の双眸とぶつかった。
「どう、しました……?」
喉から震える声で聞けば、彼女は逡巡の末にケーキが一緒に食べたくて、と答えた。
確かに彼女の片手にあるトレーには、ケーキが二つにお茶のポットとカップが乗せられている。
だが、ケーキを食べるには、部屋に入れる必要がある。
自分の私室に、愛している人を。二人きりで。
「……今日は遠慮します」
またしても俺は逃げた。
心がごちゃまぜになったまま、この人と二人きりにはなれなかった。
しかしエルザ殿は顔を曇らせて、手のひらを俺の頰にそっと当てた。
「なんだか痛そうな顔してる……何か、あったの……?」
気遣わしげな表情に、胸を鷲掴みにされたようだった。
何かはあった。
あなたとお二人の親密さと、諦めない強さを目の前で見せつけられ、あなたから逃げたのだ。
いつもとは違う悲しげな瞳に、俺が写っている。
まさに痛ましいというに相応しい顔の俺が。
耐えきれず逸らせば、彼女の口元に目が止まってしまい、先ほどキングが触れたのはこの辺りかと思った。
何かを考えたわけではない。
むしろ何も考えが浮かばず、黙りこくってしまっている。
しかし俺の左腕は緩慢に上がり、親指は俺の意思を無視して彼女の口元に触れた。
キングの付けた痕を拭うように。
途端、目の前の顔は目を見開いて固まり、すぐに真っ赤に染まった。
その様子には俺だってひどく驚いた。
どうしてこんな。たかが、指で触れただけだ。
わからない。どうしてこの人は。
考えることから逃げて、指を離した。
「……体調が優れませんので、今日は休みます」
目を背けてドアに手をかけ、彼女の返事を待たずに閉めた。
数分の後に彼女はドアの前から離れていき、長く息を吐いた。
頭の中ではどうしてという疑問が浮かび続けていた。
ソファに座ることもできず、崩れ落ちてスツールに顔面を押し付けた。
浮かれていた数日前の愚かな自分を、心の中で罵る。
キングとクイーンの牽制にララさんは受けて立ち、俺は逃げた。
もうあの人への気持ちを持つ資格すら、なくなってしまった。
いっそ、誰かと結婚してしまおうか?
他の誰かと穏やかに過ごしていれば、こんな報われるはずもない想いなどすぐに忘れられるのでは。
……いや、だめだ。他に思う人があるままの婚姻は、相手にあまりにも失礼で申し訳なさすぎる。
きちんと心の整理をつけてからにするべきだろうな。
心の整理など付くはずもないことは、全身を駆け巡る行き場のない苛立ちとも嘆きとも取れるこの感情を見れば明らかだが。
ノックの音にびくりと体が跳ねた。
いつもより控えめながらも、それだけで誰が来たのかがわかってしまった。
どうしてここに来たのか。
今頃楽しくテーブルを囲んでいるはずの人が。
このまま動かなければ彼女は去るだろう。
このまま、動かなければ。
彼女が行ってしまう。
ドアノブを引いて扉を開けると、俯いていた頭が上がり、真正面から空色の双眸とぶつかった。
「どう、しました……?」
喉から震える声で聞けば、彼女は逡巡の末にケーキが一緒に食べたくて、と答えた。
確かに彼女の片手にあるトレーには、ケーキが二つにお茶のポットとカップが乗せられている。
だが、ケーキを食べるには、部屋に入れる必要がある。
自分の私室に、愛している人を。二人きりで。
「……今日は遠慮します」
またしても俺は逃げた。
心がごちゃまぜになったまま、この人と二人きりにはなれなかった。
しかしエルザ殿は顔を曇らせて、手のひらを俺の頰にそっと当てた。
「なんだか痛そうな顔してる……何か、あったの……?」
気遣わしげな表情に、胸を鷲掴みにされたようだった。
何かはあった。
あなたとお二人の親密さと、諦めない強さを目の前で見せつけられ、あなたから逃げたのだ。
いつもとは違う悲しげな瞳に、俺が写っている。
まさに痛ましいというに相応しい顔の俺が。
耐えきれず逸らせば、彼女の口元に目が止まってしまい、先ほどキングが触れたのはこの辺りかと思った。
何かを考えたわけではない。
むしろ何も考えが浮かばず、黙りこくってしまっている。
しかし俺の左腕は緩慢に上がり、親指は俺の意思を無視して彼女の口元に触れた。
キングの付けた痕を拭うように。
途端、目の前の顔は目を見開いて固まり、すぐに真っ赤に染まった。
その様子には俺だってひどく驚いた。
どうしてこんな。たかが、指で触れただけだ。
わからない。どうしてこの人は。
考えることから逃げて、指を離した。
「……体調が優れませんので、今日は休みます」
目を背けてドアに手をかけ、彼女の返事を待たずに閉めた。
数分の後に彼女はドアの前から離れていき、長く息を吐いた。
頭の中ではどうしてという疑問が浮かび続けていた。
0
お気に入りに追加
1,161
あなたにおすすめの小説

誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。
木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜
川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。
前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。
恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。
だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。
そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。
「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」
レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。
実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。
女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。
過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。
二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

【完結】断罪された悪役令嬢は、全てを捨てる事にした
miniko
恋愛
悪役令嬢に生まれ変わったのだと気付いた時、私は既に王太子の婚約者になった後だった。
婚約回避は手遅れだったが、思いの外、彼と円満な関係を築く。
(ゲーム通りになるとは限らないのかも)
・・・とか思ってたら、学園入学後に状況は激変。
周囲に疎まれる様になり、まんまと卒業パーティーで断罪&婚約破棄のテンプレ展開。
馬鹿馬鹿しい。こんな国、こっちから捨ててやろう。
冤罪を晴らして、意気揚々と単身で出国しようとするのだが、ある人物に捕まって・・・。
強制力と言う名の運命に翻弄される私は、幸せになれるのか!?
※感想欄はネタバレあり/なし の振り分けをしていません。本編より先にお読みになる場合はご注意ください。

婚約破棄をいたしましょう。
見丘ユタ
恋愛
悪役令嬢である侯爵令嬢、コーデリアに転生したと気づいた主人公は、卒業パーティーの婚約破棄を回避するために奔走する。
しかし無慈悲にも卒業パーティーの最中、婚約者の王太子、テリーに呼び出されてしまうのだった。

好きでした、さようなら
豆狸
恋愛
「……すまない」
初夜の床で、彼は言いました。
「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」
悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。
なろう様でも公開中です。

【コミカライズ&書籍化・取り下げ予定】お幸せに、婚約者様。私も私で、幸せになりますので。
ごろごろみかん。
恋愛
仕事と私、どっちが大切なの?
……なんて、本気で思う日が来るとは思わなかった。
彼は、王族に仕える近衛騎士だ。そして、婚約者の私より護衛対象である王女を優先する。彼は、「王女殿下とは何も無い」と言うけれど、彼女の方はそうでもないみたいですよ?
婚約を解消しろ、と王女殿下にあまりに迫られるので──全て、手放すことにしました。
お幸せに、婚約者様。
私も私で、幸せになりますので。

公爵令嬢は、どう考えても悪役の器じゃないようです。
三歩ミチ
恋愛
*本編は完結しました*
公爵令嬢のキャサリンは、婚約者であるベイル王子から、婚約破棄を言い渡された。その瞬間、「この世界はゲームだ」という認識が流れ込んでくる。そして私は「悪役」らしい。ところがどう考えても悪役らしいことはしていないし、そんなことができる器じゃない。
どうやら破滅は回避したし、ゲームのストーリーも終わっちゃったようだから、あとはまわりのみんなを幸せにしたい!……そこへ攻略対象達や、不遇なヒロインも絡んでくる始末。博愛主義の「悪役令嬢」が奮闘します。
※小説家になろう様で連載しています。バックアップを兼ねて、こちらでも投稿しています。
※以前打ち切ったものを、初めから改稿し、完結させました。73以降、展開が大きく変わっています。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる