50 / 206
第一章
50番外編 水の魔女
しおりを挟む
翻り、鼻先をかすめた髪は、月明かりの元で氷のような冷たい色をしていた。
背を向けた。と考え、しかしそれを隙と見て取るほど白面ではない。
事実、残った最後の仲間が目の前の女に飛びかかるも、案の定剣の柄尻で手酷く腹を突かれた。
地面に伏す間もなく女の左手が仲間の口元へと伸び、まずいと地を蹴った眼前で、仲間の命はどろりと散った。
「……水の魔女が」
仲間とは言え、実際はこの仕事のために知り合ったばかりの他人だ。
仇を取ってやる義理はなく、それよりもこの修羅のような女から逃げることを考えねばならなかった。
「その呼び名は少し気に入っているのよ。知ってくれているなんて、光栄だわ」
まるで眠るように横たわった、仲間だったそれらには目もくれず、女が静かに微笑んだ。
軽い調子の言葉と対比するような纏う空気の重厚さに、後ずさることすらできない。
ヒュンと音がして、自らの頭のあった辺りを白銀の線が走った。
逃げ道の確保など、この女を前にして出来るはずもなかったのだと、悟った。
ものの数秒で、濃い土と青草に鉄の混じる匂いが鼻腔を覆い尽くし、見下ろす女の顔を睨むことだけが、残された唯一の抵抗となった。
もはやここまで。
自らを終えるべく、奥歯に仕込んだ丸薬を噛む。
「ぅ、ぐっ……がはっ!」
途端、激しく咳き込み、喉の奥に突然出現したとしかいいようのないものを吐き出した。
吐き出したものの色は赤ではない。
透明。
その中に見覚えのある黒い濁りを見て取り、全身から汗が吹き出した。
「駄目よ。私の前で、それじゃあ死ねないわ」
触れられてなどいないというのに突然現れたこの水は、目の前の女によるものか。
これが、スペードのキングの片腕、水の魔女。
「さて、質問に答えてもらうわ。教えてくれたら……楽になるわよ」
婉然と微笑む魔女の左の手のひらが、こちらに向いた。
喉の奥がヒュウと、か細く鳴った。
顔面を覆う濡れた布を取り払われても、幾度となく繰り返されたそれに、もはや全身の力は抜け落ちている。
「ねぇ」
恐ろしいほど優しく肩を撫でられ、視線だけをその手の主へと向けた。
「もう、いいでしょう? 話してちょうだい。そうしたら、キングにはあなたは始末したと伝えて逃してあげる。私はキングに信用されているから絶対にバレたりしないわ。あなただって、命令のために自分の命をかける義理なんてないはずでしょう?」
眉尻の下がる表情に、先ほどまでの苛烈さは微塵もない。
「お願いだから、教えて。あなたを助けたいのよ」
事実、仕事に対する忠誠心などは、かけらもなかった。
かけられた気遣いに、残された力を振り絞る。
「そのような甘言を、信じると思うか」
最期に見たものが弧を描く美しい唇であったことは、自らの人生において、ただ唯一の幸せであるといえるだろう。
背を向けた。と考え、しかしそれを隙と見て取るほど白面ではない。
事実、残った最後の仲間が目の前の女に飛びかかるも、案の定剣の柄尻で手酷く腹を突かれた。
地面に伏す間もなく女の左手が仲間の口元へと伸び、まずいと地を蹴った眼前で、仲間の命はどろりと散った。
「……水の魔女が」
仲間とは言え、実際はこの仕事のために知り合ったばかりの他人だ。
仇を取ってやる義理はなく、それよりもこの修羅のような女から逃げることを考えねばならなかった。
「その呼び名は少し気に入っているのよ。知ってくれているなんて、光栄だわ」
まるで眠るように横たわった、仲間だったそれらには目もくれず、女が静かに微笑んだ。
軽い調子の言葉と対比するような纏う空気の重厚さに、後ずさることすらできない。
ヒュンと音がして、自らの頭のあった辺りを白銀の線が走った。
逃げ道の確保など、この女を前にして出来るはずもなかったのだと、悟った。
ものの数秒で、濃い土と青草に鉄の混じる匂いが鼻腔を覆い尽くし、見下ろす女の顔を睨むことだけが、残された唯一の抵抗となった。
もはやここまで。
自らを終えるべく、奥歯に仕込んだ丸薬を噛む。
「ぅ、ぐっ……がはっ!」
途端、激しく咳き込み、喉の奥に突然出現したとしかいいようのないものを吐き出した。
吐き出したものの色は赤ではない。
透明。
その中に見覚えのある黒い濁りを見て取り、全身から汗が吹き出した。
「駄目よ。私の前で、それじゃあ死ねないわ」
触れられてなどいないというのに突然現れたこの水は、目の前の女によるものか。
これが、スペードのキングの片腕、水の魔女。
「さて、質問に答えてもらうわ。教えてくれたら……楽になるわよ」
婉然と微笑む魔女の左の手のひらが、こちらに向いた。
喉の奥がヒュウと、か細く鳴った。
顔面を覆う濡れた布を取り払われても、幾度となく繰り返されたそれに、もはや全身の力は抜け落ちている。
「ねぇ」
恐ろしいほど優しく肩を撫でられ、視線だけをその手の主へと向けた。
「もう、いいでしょう? 話してちょうだい。そうしたら、キングにはあなたは始末したと伝えて逃してあげる。私はキングに信用されているから絶対にバレたりしないわ。あなただって、命令のために自分の命をかける義理なんてないはずでしょう?」
眉尻の下がる表情に、先ほどまでの苛烈さは微塵もない。
「お願いだから、教えて。あなたを助けたいのよ」
事実、仕事に対する忠誠心などは、かけらもなかった。
かけられた気遣いに、残された力を振り絞る。
「そのような甘言を、信じると思うか」
最期に見たものが弧を描く美しい唇であったことは、自らの人生において、ただ唯一の幸せであるといえるだろう。
0
お気に入りに追加
1,161
あなたにおすすめの小説

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。
木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜
川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。
前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。
恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。
だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。
そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。
「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」
レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。
実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。
女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。
過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。
二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

【完結】断罪された悪役令嬢は、全てを捨てる事にした
miniko
恋愛
悪役令嬢に生まれ変わったのだと気付いた時、私は既に王太子の婚約者になった後だった。
婚約回避は手遅れだったが、思いの外、彼と円満な関係を築く。
(ゲーム通りになるとは限らないのかも)
・・・とか思ってたら、学園入学後に状況は激変。
周囲に疎まれる様になり、まんまと卒業パーティーで断罪&婚約破棄のテンプレ展開。
馬鹿馬鹿しい。こんな国、こっちから捨ててやろう。
冤罪を晴らして、意気揚々と単身で出国しようとするのだが、ある人物に捕まって・・・。
強制力と言う名の運命に翻弄される私は、幸せになれるのか!?
※感想欄はネタバレあり/なし の振り分けをしていません。本編より先にお読みになる場合はご注意ください。

婚約破棄をいたしましょう。
見丘ユタ
恋愛
悪役令嬢である侯爵令嬢、コーデリアに転生したと気づいた主人公は、卒業パーティーの婚約破棄を回避するために奔走する。
しかし無慈悲にも卒業パーティーの最中、婚約者の王太子、テリーに呼び出されてしまうのだった。

好きでした、さようなら
豆狸
恋愛
「……すまない」
初夜の床で、彼は言いました。
「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」
悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。
なろう様でも公開中です。

ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

公爵令嬢は、どう考えても悪役の器じゃないようです。
三歩ミチ
恋愛
*本編は完結しました*
公爵令嬢のキャサリンは、婚約者であるベイル王子から、婚約破棄を言い渡された。その瞬間、「この世界はゲームだ」という認識が流れ込んでくる。そして私は「悪役」らしい。ところがどう考えても悪役らしいことはしていないし、そんなことができる器じゃない。
どうやら破滅は回避したし、ゲームのストーリーも終わっちゃったようだから、あとはまわりのみんなを幸せにしたい!……そこへ攻略対象達や、不遇なヒロインも絡んでくる始末。博愛主義の「悪役令嬢」が奮闘します。
※小説家になろう様で連載しています。バックアップを兼ねて、こちらでも投稿しています。
※以前打ち切ったものを、初めから改稿し、完結させました。73以降、展開が大きく変わっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる