鈍色の空と四十肩

いろは

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32 ー遅く訪れた夏休みー

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 9月に入ると急に涼しくなって、というか寒いと感じる日も出てきた。
 日本ならお盆を過ぎると、スイッチを捻ったように、かっきり秋の空気になり、澄んできた海にはクラゲが浮かび、トンボが大量に飛び始める。
 そうは言っても日中はまだまだ夏同様の暑さ。
 完全に寒くなる前に、いろいろ活動しておきたい、そんな季節だった。

「斉藤さん、これ」
と言って依子は長細い箱を取り出した。
 きちんとラッピングがしてあって、メッセージカードも添えてある。
「えっ、なになに?」
 斉藤はやけに嬉しそうだ。
 依子の週末バイトの休憩時間である。

「お礼代わりに、って頼まれてた作品です。
 本当にその節はありがとうございました。
 斉藤さんが気にしててくれなければ、私孤独死してたかもしれません。」

 早速開けて広げた斉藤が感嘆の声をあげた。
「題名は、、“ほむら”。これ俺のイメージ? ありがとう~!うれしいなあ。」

 手拭いの幅を2倍くらいにした大きさで、それほど大きい作品ではないが、画面から燃えたつように、迫力がある絵が描きたいと思った。
 斉藤が以前、ここに掛けたいんだけど、と言っていたスペースに収まる大きさである。
 愛も見に来る。
「うわお~!まさに斉藤さん、て感じい!」
 斉藤は添えられたメッセージも読む。
 固いが丁寧にお礼の言葉が連なったそのメッセージが、依子らしいな、と思った。

 今日の賄いはきのこの炊き込みご飯と豚汁である。
 量も一人前に戻った。涼しくなって、依子の体調も完全に良くなったらしいことがわかって、安心している。

「えっとそれで、朝方ちょっとお話した、日本人協会のサロンなんですけどね。先方と打ち合わせして、2週に一回、全5回でやることになったんです。
 季節も良くなったので、冬になるまでの2ヶ月。
 これは、マヂで習い事する、っていうより、日本の工芸を通して駐在員の奥様方の情報交換会という名のガス抜き会をしよう、という趣旨なんですね。
 お茶飲みながら、手を動かしながら、ゆる~くやる、というコンセプトなんです。
 それで、お茶とお菓子付、というのが売りなので、ぜひとも斉藤さんの和菓子を卸していただきたいんですが、いいですか?」

 依子は最近やっと決まった案件の話をする。
「もちろんいいよ~。どうせそんなに多くないんでしょ?」
「ええ、一発目なんで、仲間内でまず、ってことらしいです。定員5人で。
 これで口コミが広がって、やりたい人が増えればいいですし、もっと本格的にやりたい人が出てくれば、私もマヂな講座が開けますし。」
「俺も日本料理教室とか単発でやったことあるよ。
 上手いこと話が広がるといいよね~。」

「あ、そうだ、俺も言わなきゃいけないことあったんだ。
 ええっと~、来週から1週間、日本に帰国して墓参りしてくるからさ、店休みね。
 遅い夏休みってことで、お2人とも羽伸ばしてちょーだい。」
 カレンダーを見ながら斉藤が言う。

「急だなっ。」
 愛も厨房から声をあげる。
「よし、ブータン行くか。」
 相変わらずフットワークが軽い。

「あっ、そーですか~。どうしよ。とりあえずお気をつけて。」
 急に次の週末が空いてしまった。
 何しようかなー。私も旅に出ようかな、でもお金ないな~。
 久しぶりの何もない普通の土日、どうしようか考えるのも楽しい、と思う依子だった。

ーーー

 よし、週末は電車でバラトン湖に行こう。
 やっすいユースホステルに一泊して。そう決めた。
 電車の時刻だけしっかり調べて、以前、カロリンと歩いた街をもう一度歩きたくなった。
 凍っていない時期に、軽装でゆっくり、丘の上を散歩しよう。

 なんだか、1人になりたかった。
 広い空を見ながら、頭をすっきりさせたかった。
 なぜかここのところ、奥の方でざわついている、それが何かちょっとリセットしないといけない。

 いつだって基本的に1人だろ、という感じなのだが、一人暮らしのアパート内では、結局目の前のやるべきことに手を出してしまって、落ち着かない。
 在宅ワークしていると、アパートは仕事する場所、生活する場所であって、安らぐという感じがなくなる。

 金曜日は宿泊費が高いので、日曜夜だけ、安いが安全そうなユースを予約した。
 日曜、月曜と一泊2日出かける予定にする。自由業の良いところである。
ハンガリーに来てから泊まりがけで出かけるのは初めてだ。
 久しぶりにバックパックを引っ張り出して、最低限の荷物を詰めた。
 日曜は朝イチで出かけよう。
 そうして前日は早めに眠りについた。

ーーー


 明けて日曜早朝、バラトン湖方面の1番電車に乗るため、中央駅へバックパックを背負って向かう。
 ブダペストの街はまだ朝の太陽も弱く、うっすらモヤがかかっていた。

 朝一だともう寒いと言っていい。
 バラトン湖周辺はもっと寒いはずなので、用心して小さく畳めるダウンジャケットも入れてある。
 電車はそんなに混んでいないはずなので、予約はしていない。
 駅で乗車券と、水、軽食を買って乗り込んだ。

 案の定、ガラ空きの車内。
 よく使い込んだ懐かしい感じの内装である。
 適当なところに席を決めた。時刻通り電車は出発し、目的地までの2時間ほど、まもなくのどかな田舎の風景に変わっていく。
 心地よい振動に任せて、ぼーっと景色を見るのだった。

ーーー

 今、依子がいるのは、バラトン湖を見渡せる丘の上。
 記憶を頼りに、以前カロリンと登ってきた場所を探し当てることができた。馬が放牧されている。まことに絵になる風景だ。
 電車の中でもぼんやりできるかと思っていたが、降りる駅を間違えやしないか心配で、どうもそわそわしているうちに、着いてしまった。
 心置きなくぼんやりするために、開けた丘の上で、バラトン湖を見渡しながら、乾いた地面の上に腰を下ろした。
 良い秋晴れだった。風は少し冷たかったが、気持ちの良い空気を胸いっぱいに吸い込む。

 美しい風景だ。
 紅葉の準備を始めているのではないかという雰囲気の林、木々、風が葉を擦る音、時折り聞こえる少し離れたところにいる馬たちのいななき、真夏とは違う薄い青の空。 
 だれかと共有できたら良かったのに。

 寂しいんだろうか、私は。やっぱりそうなんだろうな。
 じゃあ、なんで1人で来たんだろう。
 それは自分が独りだ、ってことをわきまえるため。
 改めて自分に言い聞かせるためだ。

 自問自答を繰り返した。
 風に吹かれていて少し寒くなってきた。
 そろそろ次の場所へ移動するか、と思い始めてスマホを見ると、LINEが入っていた。
 譲治からだ。
 おや、とちょっとどきりとした。
 独りでがんばろう、と思っていると、いつもするりと依子の心に入ってくる。

「こんにちは。元気ですか。散歩でもご一緒しませんか。」
 どうも、一回面倒をかけていらい、定期的に監視しないとヤバいやつ、と思われているらしい。
 ちょくちょく連絡をくれる。ありがたいことではあるが。

「実は今、バラトンアルマーディの丘の上でバラトン湖見てました。
 斉藤さんが日本に帰国してるので、今週休みなんです。
 とてもきれいですよ。」
 ついでに写真を撮って送る。

 しばらくして、依子が丘を下りていると返事が来た。
「もし、ご迷惑でなければ僕も合流していいですか。
 僕もついでに夏休みとって釣りなどしようかな、ふと思いたちました。」

「今からですか?笑 私は全然構いませんよ。うれしいサプライズですけど、ご無理なさらず。」
「それじゃ、今からレンタカーして向かいますので、どこかで落ち合いましょう。」
 すぐ譲治から返信。

 そうして、今から向かおうと思っていた場所に、3時間後集合、ということにした。
 朝早くブダペストを出てきたので、時間には余裕がある。一度宿に戻ってひと休みして出かけよう。
 1人で考え事をしようと思って来たけど、結局2人旅になりそうだ。
 でも、素直にうれしい。
 さっきは寂しくてたまらなかったのに、今はこれから会う人の顔が早くみたいな、と待ち遠しい、幸せな気分だった。
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