鈍色の空と四十肩

いろは

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11 ー依子の過去ー

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 そのレストランは、譲治の家から歩いて行ける距離だった。
 夜も遅いが、店内はまだそこそこ客がいて賑わっている。
 女性によると、ユダヤ系のお店らしい。
 野菜中心だから夜遅くても胃に負担がかからないかな、ということで思いついたと。

 店内は暗めだが、温かみのある照明やランタンが下がる、気取らない雰囲気だった。ビュッフェ形式で、欲しいものをカウンターで盛り付けてもらい、最後にお会計して、テーブルにつく、という形。

 いろいろ女性に説明してもらいながら食事を調達して、2人で席につく。
いただきます、と同時に言って食べ始める。
 ひとしきり、手の込んだヘルシーな料理を楽しむ。
 これ、美味しいですよ、とかお互い言いながら、そこそこ飢えが満たされて、会話に集中するか、と思ったところで、譲治ははた、と気づく。

「あの、今さらなんですが、そう言えば名前もちゃんと自己紹介していませんでした。失礼してしまってました。」
 ナイフとフォークを置いて、田中譲治と申します、と言いながら譲治は仕事で使っている名刺を差し出す。

 個人的な情報を渡してしまうリスクも考えたが、相手は世間に対してアーティストとして活動しているし、わずかながらも話した感じで、善人だ、と判断したからだった。
 女性も慌てて居住いを正して、頭を下げながら両手で名刺を受け取ってくれる。
「まあ、ご丁寧に恐縮です。」

 女性も椅子に置いていたバッグから見覚えのあるショップカードを取り出して、手帳に刺していたボールペンで何やら書いてから、譲治に差し出した。
「小石川依子と申します。」

 受け取ったカードには、大人っぽい筆記体で小石川依子、という名前が書かれていた。
「作家としては“言の葉”という屋号なんですけど、友人知人はみんな名前で呼ぶので、どうぞそうなさってくださいね。」
 暖かなカンテラの灯りの下で、依子は穏やかに微笑んだ。

ーーー

「小石川さんはどういった経緯でブダペストへ?」
 譲治は聞きたかったことを質問し始める。

 ひと通り食事を終えた2人はハンガリー名産のトカイワインで乾杯していた。
 奢ります、と言って依子が注文してくれた3プトンのなかなかの逸品だ。

「ああ、そうですね、劇画調に表現すると、死に場所を求めて、ってとこかな。」
 依子は肩を竦めて笑いながら言う。
 あ、全然物騒な話じゃないんですよ。前向きな決意の話で。
と依子は続ける。

「会ったばかりの方にちょっと重い話になっちゃうんですけれど。」
と、あくまで明るい口調で前置きして語り始めた。

「私、大学卒業後に勤めた会社の先輩と27で結婚しました。
で、結婚後間も無くから、何かこう、本当に些細なことで言い合いになるたびに、逆ギレするようになったんですよね。
 それで最終的にいつも私を論破できないとなると、プロレス技みたいなものをかけるようになって。
 年に数回ですけど、そういうことがあって、起こるたびに、私は泣きながらやめてほしいってお願いして、彼も落ち着いた後にベソをかきながら、もう2度としない、って言うんです。
 でも、必ずまた起こって、そのたびに、少しずつ少しずつ腕力で物を言わせる度合いが強くなっていきました。」
 
 依子は、口元にどこか諦めたような小さな笑みを浮かべながら、ただ、視線を手元に落として話し続ける。

「身体に傷をつける、とかではないんですよ。
 ただ足払いをかけて転ばすとか、そういう感じ。
 でも、ある日、私の首元を持ち上げて、足が宙に浮くような感じで壁に押し付けられて、顔がくっつくほど近付いてキレられたんですよね。
 その時、彼の正気を失ったような目を見て、もうダメだ、治らないんだ、って悟りました。」

 その時のことを鮮明に思い出しているのか、依子の肩には力が入って強張り、テーブルの上の握りしめた手は、血の気が引いて関節が白くなっていた。

「この人、次は必ず私を怪我させる。そしたらもう裁判沙汰になって、離婚するにしても慰謝料求めて戦わなければならない。
そんな気力ない。
私には耐えられない。
それですぐに離婚を決心しました。」

 なんだそれは。
 そんな理不尽なことが世の中あるのか。
 目の前にいるこの小柄な人は、何にも悪くないじゃないか。
 譲治は人ごとながら、ひどく腹が立った。

「まあ、そんなわけで、怖かったので短期間で全ての手続きを済ませて、仕事道具と服以外ほとんどを置いて夜逃げみたいにして、実家にいったん帰りました。
 それで自分の工房兼住居構えて今の仕事で独立しました。」

 依子は申し訳なさそうに、譲治を見る。

「ごめんなさいね、ほんと。せっかく美味しいもの食べてるのに。
 細かくお話ししちゃって。
 よくイメージにある流血沙汰みたいなDVと違うから、DVって言っていいのか、自分でも未だにわからなくて。
 事実だけ、お話ししました。」

「いや、どう考えてもDVでしょ。
ご苦労されたんですね。」
 譲治は一所懸命聞いてくれている。

「DVとか離婚とか、よくある話。もういいんです。終わったことだから。
 でもいつまでも恥ずかしくて情けないのはその後でね。」
依子は俯いて続ける。

「しばらく、最後のチャンスとばかりに婚活に勤しんだんですけど、なんか寂しくて、精神状態がおかしくなってたんでしょうね。
 自分みたいな人間でも、愛されるに足る人間であるってことを実感したくて、男性関係で、思い出すと死にたくなるような恥ずかしい失敗とかトラブルを繰り返しちゃって。」

テーブルの上の手は、今度は落ち着かなげに握ったり解いたりされている。

「それで、2年前あたりから、全部を諦めて、恥ずかしい記憶を封印して、1からやり直そうと思って、ハンガリーに来たんです。
 ハンガリーには10代の頃からのペンパルがいて、何度か旅行にも来てたので、多少知っていたんです。
 誰も自分を知らない、何か失敗しても、放っておいてくれる、そういう環境に身を置いて、そのままひっそり死んでいけたらいいな、と思って。」

 いつも真っ直ぐ相手の目を見て話す依子が、この話をする間、ずっと手元を見ていて、どんどん項垂れていくのを静かに見ていて、譲治は彼女がかわいそうで仕方なかった。
 自分もいきなり海外生活に飛び込んだので、知り合いもなく、たった1人で生きていくのが、どんなにしんどいか知っていた。

 話し終えた彼女はパッと顔を上げて、いつものにっこり顔で言う。
「本当にごめんなさいね。長々と重い話しちゃって。田中さん、動じないで聞いてくださるから甘えてしまいました。」

「いや、なんと言っていいか。私こそごめんなさい。辛いこと話させてしまって。」
「いやいや、いいんですいいんです。
 私はしゃべってガス抜きするタイプなので、聞いていただいた方が楽になれるんです。
 でも付き合わされる方はたまったもんじゃないですよね。しんどかったら遠慮なく言ってくださいね。」

「家庭内暴力の話はニュースとしてはよく聞くけど、実際にそんなことするヒトがいるとは、私には到底理解し難い行動です。
 フィジカルでどう考えても有利にある方が、弱者に腕力使っちゃダメですよ。」

 怒ったように眉根を寄せて、強く言う譲治を見て、依子は言った。
「そんな風に言っていただけるだけで、救われます。ありがとうございます。」

「当たり前ですけど、世の中いろんなご苦労されている方がいるんですね。
 自分は身体を壊して人生リセットを図った口ですが、他者からの暴力で追い込まれる、ってのは辛いですね。」
 譲治が言う。

「田中さんは、バンクーバーからいらした、っておっしゃってましたけれど、いつ頃から海外に駐在されているんですか?」

 今度は自分の話をちゃんとしないとな。
 譲治は思った。いつもならテキトーにざっくり話すところだが、依子はちゃんとこの土地に至った経緯を話してくれた。
自分の話も聞いて欲しいと思った。

 そこで、ウェイターを呼んで、もう一杯ずつワインを頼み、依子に言った。

「今度は私が奢りますね。」
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