鈍色の空と四十肩

いろは

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8 ー雨の夜道ー

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 しのつく雨の街路を足早に通り抜けながら、譲治は今しがたのギャラリーでの会話を反芻してしまう。
 別に反芻したいわけではないのだが、一回ツボにはまるとクヨクヨしがちな性格のせいだ。
 いや、この天気のせいか。気にしない時は気にしないのに。

 貸してもらったタオルは、乾かして返すべきだったか。
 イチゴのお礼はあっさりしすぎだったんではないか。
 彼女の仕事の内容はなんとなく把握できたが、人となりはさっぱりである。インスタを見てもわからないから実際に来たのに。
 ただ、嫌な感じはしない。こちらが気負わないように、少し距離を置いて様子を見てくれているようだった。
 気取らず会話できる安心感がある人だった。

 人付き合いが苦手な自分にしては、かなり珍しい。
 特に理由もなくお土産を買ったのも、名刺をもらって会話してみたのも。
 でも意識したわけではなく、自然と体や声が動いていただけで。
 彼女にはこんな自分でもそうさせる、気やすさがあった。
 また他愛のない会話ができるかも、と思わずまた来るみたいなことを言ってしまった。
 まあ、いいか。もし失礼なことがあっても、彼女ならわかってくれるような気がした。
 もしかしたら、ちょっと似たところがあるのかもしれない。
 来週の最終日前にまた覗いてみるか。今日は時間があまりなかったし、もっとゆっくり作品も見たい。
 珍しく自分が気楽に喋れる人に出会って、少し会話のリハビリをするのもいいかもしれない。

ーーー

 自宅アパートに戻って、雨で冷えた身体を先にシャワーで温める。
 いつもなら出かけない平日の夜だが、今日はけっこう悩んでギャラリーまで出かけたのだった。
 一度は訪れるつもりではあったが、さしてアートに興味もない自分が乗り込んだら迷惑になりはしないか、と経験がないことにちょっと考えこんでしまったのだ。
 行くなら、人のいない時間帯、しかも今日は雨だし、まあ客足は悪いはず、と当たりをつけたら、正解だったみたいだ。
 自分がいる間、他の客はいなかった。通りを歩く人もほとんどいなかった。
 迷惑ではなかったはず。うれしそうに対応してくれた。

 ガシガシと頭を拭きながら、デスクの上に置いておいた小さな紙袋を眺める。
 母へのお土産です、と言ったが、実際のところは全く帰国する予定がない。
 なんでかわからず心惹かれたその小さな小箱。6センチ角くらいの飾り箱だ。手に取ると、和紙の柔らかさが手に優しかった。
 初春の青空を思わせる色の地に鮮やかな桃の花。しげしげと眺めているうちに思いあたった。

 外国で就労することを考えもする前、病気療養を兼ねて住み込みで働いていた信州の観光地の春を思い出した。
 その信州で、自分は再起を図る元気を得たのだった。
 そんな信州で春先に満開だった桃の花の畑を想起させたのか、と心惹かれた理由に気づいた。

 あんなにかわいらしいものを、袋に閉じ込めておくのはなんだかもったいない気がして、本当に帰国する時まで飾っておくことにした。
 包装を痛めないように、そっと剥がして、小箱を取り出し、パソコンのモニター脇に飾る。
 おまけに、とくれたハガキは、こちらも春の桜の柄だった。これも箱とペン立ての間に立てかけた。
 無機質で殺風景な自室に、ぽっとそこだけ春が来たようだった。

 気を抜いているとふと目がかわいらしい小箱に向き、なんでかつらつらといろんなことが頭を駆け抜けていくので、ブルブルっと頭を振っていつもの自分を取り戻すようにパソコンをつける。

(久しぶりに動画編集でもするか。転勤のバタバタでずいぶん間が空いてしまった。)

 ハンガリーでの新たな駐在生活の記録を編集し始める。
 不特定多数の人に公開するつもりはないが、自分の生存確認用に、ごく身近な家族や知人向けに、自分の作った動画を編集して公開するのが、ささやかな趣味だった。
 ちまちまとカットして、テロップやナレーションを入れる。割とシニカルな目線で。結構向いている気がしている。
 そうして自分の世界へ没入して、譲治の夜は更けていった。
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