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4 ーレストランさくらー
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「依子さん休憩どうぞ。今お客さんいないからゆっくりしてていいですよ。」
ブダペストの日本食レストラン『さくら』のオーナーシェフ、斉藤友基が依子に声をかける。
「ありがとうございます。それじゃお言葉に甘えて。」
店内のインテリアを拭いていた依子は、エプロンを外しながら休憩に入る準備をする。
「今日の賄いどうぞ。」
斉藤は早速、本日の賄い、チキンのトマト煮込みと黒パンを店の隅のスタッフ席に並べた。前日作って余ったグヤーシュの残りを再利用したもので、もちろん抜群の味沁み具合である。
今日はなぜか客の出足が遅く、いつも忙しくなる時間帯になっても店内には人がいなかった。
支度は万全に整っているので、斉藤もしばしの休憩、とカウンター席に腰をかける。
「いただきまーす。 うーん。今日も間違いなく美味しいです。」
斉藤はにこっと微笑んでそれに応えた。
「昨日、そこのスーパーで偶然知り合いに出くわして、ついすかさず『さくら』の宣伝しちゃいました。カード渡してきましたけど、強引すぎて引かれましたかね。」
「ありがとありがと。 いやいや、多少の強引さは大事よ。営業てのはそういうもんです。」
「ねえ? 愛ちゃん。」
「そうですよー。依子さんはもっと図々しくなっていいですよー。」
斉藤の突然のフリにもすかさず厨房の中から応えたのは、斉藤のアシスタントシェフの中村愛だ。
斉藤も中村も良い人間だ。
斉藤は職人気質のところがあるが、そこは年の功。経験と生来の好奇心で大らかに依子に接してくれている。
中村も妙齢女性ではあるが、溢れるバイタリティと陽気さで逞しく人生を切り拓いている。
斉藤、依子、中村、とそれぞれ50代、40代、30代、と年齢が分散しているので、お互いの年代への好奇心がうまく作用して、ほどほどの距離感の、居心地が良い関係性を構築できていた。
依子が勤め始めて一年弱、依子の仕事や性格もそれなりに理解してくれている。
「斉藤さん、あの、私今度小さな個展をやるんですけど、DMをお店に置かせていただいてもいいですか?」
「おう、おめでとう! 見せて見せて。」
依子は早速、カバンに入れていたDMを取りに行き、ひと束を斉藤に手渡した。
「個展と言っても、ブダペストでは最初なのでごくごく小さなものなんですけどね。もうほんと、邪魔にならない隅っこでいいんで。」
「へえ~。華やかな作品だねえ。こういうの作るんだ。俺も見たいなあ。」
「まだ1ヶ月半も先ですし、会期は長いので、もしお時間あれば見てやってください。」
「私も私も~!」
中村が厨房から叫ぶ。
斉藤は一枚を小さな額に入れ、束はその足元に。レジ横に設置してくれた。
斉藤も中村も気のいい人たちである。大らかで人に対して妙なプレッシャーを与えない優しさがある。ここに勤められてほんとにラッキーだった。
この店のバイト募集を見つけたのは偶然だが、依子は心からそう思わずにいられなかった。
依子のバイト勤務は、店側の都合によりイレギュラーな変更があることもしばしばだが、基本的には金土日祝の終日。
人が休む時に働いて、人が働いている時に自宅で自分の制作に励む。自由業の強みである。
依子はハンガリー語は目下特訓中ではあるが、からっきし。英語は旅で困らない程度。正直ままならないと言っていい。
そんなんでこのマニアックな国でバイトが務まるものかと、移住当初は戦々恐々としていたが、日本人協会に情報を求めて訪れた時に、偶然さくらの求人を見つけた。
『さくら』は斉藤が一人で始めて今年で4年目。
カウンター8席に、2人掛けテーブル席が6席。ごくごくこじんまりした店である。
2年目にやっと固定客がつき始め、一人ではにっちもさっちもいかない程度になってきて早々に要の厨房には、当時包丁一本サラシに巻いて世界中の厨房を渡り歩いていた放浪のシェフ、中村愛が入ってきた。
4年目の今年、ホールをちゃんと強化したい、ということで求人が出されていた。
斉藤も中村も、異国で仕事をし暮らすという生活が長いので、実はその土地の言語を喋れるか、ということにこだわりがない。
ちゃんとしゃべれるのを待っていたら生活が立ち行かないからだ。
だから、ホールバイトに求めるのは、根性と、比較的融通が効くシフトと、控えめな給金でいいかどうかである。
一方、依子は自由業なので、バイトシフトを融通するのは楽である。
自分の制作に必要なトータルの時間だけ確保すれば、その分配はどのようにでもできる。
給金が低いのもそんなに問題ではない。
一番重要なのは働きやすさ(人間関係)だからである。あと、ハンガリー語が喋れなくてもいいかどうか。
そんなわけで、双方の利害が一致して、依子にとって一番の懸念事項だったバイト問題は、移住早々にクリアできた。これは、長く生活していく上で大きかった。
ーーー
「お疲れ様でした~。」
ホールの片付けを終えた依子は、厨房の二人に挨拶をして店を出た。
日曜の夜9時。
今週のシフトは金土日だったのでこれで終わり。ふーっとひと息ついて、足早に帰路に着く。
欧米の飲食店は夜が長いが、『さくら』はそうでもない。
斉藤が「あんまりがんばると疲れるから」だそうだ。
ランチ前からのカフェ営業が割と人気だからそれで良いらしい。
ハンガリーでは珍しい和菓子も味わえる、というので日本マニアには人気だ。
比較的安全なエリアとは言え、日本ではないので、治安もそれなり。
あんまり夜遅く一人歩きしたくない依子には願ったり叶ったりである。
(明日は一日家に引きこもって、あさってはギャラリーの打ち合わせに行かんとな)
一度家に引きこもると食糧や生活用品がギリギリの状態になるまで、とにかく面倒くさくなって出られないので、用事を入れて強制的に外に出るようにするのは必要だった。
あさっては個展をするギャラリーで打合せする予定だったので、ついでに必要な買い物をしてしまおう。
ブダペストがいくらいつも曇天だからと言って、わずかでも漏れてくる日光を浴びないと鬱になるからな。
依子は過去のトラブルで適応障害を患ったことがあった。
幸い良い精神科医に出会い、なんとか社会復帰できたが、お墨付きをもらうまで一年かかった。
以来、民間療法だろうが、手軽で安くできる予防措置を自らに施すのには余念がない。
今のところ、朝日、朝バナナ、ジョギング、筋トレ。そして制作。
自由に描きたいものを描く、そして製品に加工して売る。
それが一番依子の精神を安定させるツールだった。
それは苦労を苦労と感じないで済む、依子にとっての芯の部分であり、依子そのもの。
個展は1ヶ月半も先だが、計画的に準備していかないと、絶対直前であたふたするのがわかっているので、気を引き締めないと、改めてそう思いながら眠りについた。
ブダペストの日本食レストラン『さくら』のオーナーシェフ、斉藤友基が依子に声をかける。
「ありがとうございます。それじゃお言葉に甘えて。」
店内のインテリアを拭いていた依子は、エプロンを外しながら休憩に入る準備をする。
「今日の賄いどうぞ。」
斉藤は早速、本日の賄い、チキンのトマト煮込みと黒パンを店の隅のスタッフ席に並べた。前日作って余ったグヤーシュの残りを再利用したもので、もちろん抜群の味沁み具合である。
今日はなぜか客の出足が遅く、いつも忙しくなる時間帯になっても店内には人がいなかった。
支度は万全に整っているので、斉藤もしばしの休憩、とカウンター席に腰をかける。
「いただきまーす。 うーん。今日も間違いなく美味しいです。」
斉藤はにこっと微笑んでそれに応えた。
「昨日、そこのスーパーで偶然知り合いに出くわして、ついすかさず『さくら』の宣伝しちゃいました。カード渡してきましたけど、強引すぎて引かれましたかね。」
「ありがとありがと。 いやいや、多少の強引さは大事よ。営業てのはそういうもんです。」
「ねえ? 愛ちゃん。」
「そうですよー。依子さんはもっと図々しくなっていいですよー。」
斉藤の突然のフリにもすかさず厨房の中から応えたのは、斉藤のアシスタントシェフの中村愛だ。
斉藤も中村も良い人間だ。
斉藤は職人気質のところがあるが、そこは年の功。経験と生来の好奇心で大らかに依子に接してくれている。
中村も妙齢女性ではあるが、溢れるバイタリティと陽気さで逞しく人生を切り拓いている。
斉藤、依子、中村、とそれぞれ50代、40代、30代、と年齢が分散しているので、お互いの年代への好奇心がうまく作用して、ほどほどの距離感の、居心地が良い関係性を構築できていた。
依子が勤め始めて一年弱、依子の仕事や性格もそれなりに理解してくれている。
「斉藤さん、あの、私今度小さな個展をやるんですけど、DMをお店に置かせていただいてもいいですか?」
「おう、おめでとう! 見せて見せて。」
依子は早速、カバンに入れていたDMを取りに行き、ひと束を斉藤に手渡した。
「個展と言っても、ブダペストでは最初なのでごくごく小さなものなんですけどね。もうほんと、邪魔にならない隅っこでいいんで。」
「へえ~。華やかな作品だねえ。こういうの作るんだ。俺も見たいなあ。」
「まだ1ヶ月半も先ですし、会期は長いので、もしお時間あれば見てやってください。」
「私も私も~!」
中村が厨房から叫ぶ。
斉藤は一枚を小さな額に入れ、束はその足元に。レジ横に設置してくれた。
斉藤も中村も気のいい人たちである。大らかで人に対して妙なプレッシャーを与えない優しさがある。ここに勤められてほんとにラッキーだった。
この店のバイト募集を見つけたのは偶然だが、依子は心からそう思わずにいられなかった。
依子のバイト勤務は、店側の都合によりイレギュラーな変更があることもしばしばだが、基本的には金土日祝の終日。
人が休む時に働いて、人が働いている時に自宅で自分の制作に励む。自由業の強みである。
依子はハンガリー語は目下特訓中ではあるが、からっきし。英語は旅で困らない程度。正直ままならないと言っていい。
そんなんでこのマニアックな国でバイトが務まるものかと、移住当初は戦々恐々としていたが、日本人協会に情報を求めて訪れた時に、偶然さくらの求人を見つけた。
『さくら』は斉藤が一人で始めて今年で4年目。
カウンター8席に、2人掛けテーブル席が6席。ごくごくこじんまりした店である。
2年目にやっと固定客がつき始め、一人ではにっちもさっちもいかない程度になってきて早々に要の厨房には、当時包丁一本サラシに巻いて世界中の厨房を渡り歩いていた放浪のシェフ、中村愛が入ってきた。
4年目の今年、ホールをちゃんと強化したい、ということで求人が出されていた。
斉藤も中村も、異国で仕事をし暮らすという生活が長いので、実はその土地の言語を喋れるか、ということにこだわりがない。
ちゃんとしゃべれるのを待っていたら生活が立ち行かないからだ。
だから、ホールバイトに求めるのは、根性と、比較的融通が効くシフトと、控えめな給金でいいかどうかである。
一方、依子は自由業なので、バイトシフトを融通するのは楽である。
自分の制作に必要なトータルの時間だけ確保すれば、その分配はどのようにでもできる。
給金が低いのもそんなに問題ではない。
一番重要なのは働きやすさ(人間関係)だからである。あと、ハンガリー語が喋れなくてもいいかどうか。
そんなわけで、双方の利害が一致して、依子にとって一番の懸念事項だったバイト問題は、移住早々にクリアできた。これは、長く生活していく上で大きかった。
ーーー
「お疲れ様でした~。」
ホールの片付けを終えた依子は、厨房の二人に挨拶をして店を出た。
日曜の夜9時。
今週のシフトは金土日だったのでこれで終わり。ふーっとひと息ついて、足早に帰路に着く。
欧米の飲食店は夜が長いが、『さくら』はそうでもない。
斉藤が「あんまりがんばると疲れるから」だそうだ。
ランチ前からのカフェ営業が割と人気だからそれで良いらしい。
ハンガリーでは珍しい和菓子も味わえる、というので日本マニアには人気だ。
比較的安全なエリアとは言え、日本ではないので、治安もそれなり。
あんまり夜遅く一人歩きしたくない依子には願ったり叶ったりである。
(明日は一日家に引きこもって、あさってはギャラリーの打ち合わせに行かんとな)
一度家に引きこもると食糧や生活用品がギリギリの状態になるまで、とにかく面倒くさくなって出られないので、用事を入れて強制的に外に出るようにするのは必要だった。
あさっては個展をするギャラリーで打合せする予定だったので、ついでに必要な買い物をしてしまおう。
ブダペストがいくらいつも曇天だからと言って、わずかでも漏れてくる日光を浴びないと鬱になるからな。
依子は過去のトラブルで適応障害を患ったことがあった。
幸い良い精神科医に出会い、なんとか社会復帰できたが、お墨付きをもらうまで一年かかった。
以来、民間療法だろうが、手軽で安くできる予防措置を自らに施すのには余念がない。
今のところ、朝日、朝バナナ、ジョギング、筋トレ。そして制作。
自由に描きたいものを描く、そして製品に加工して売る。
それが一番依子の精神を安定させるツールだった。
それは苦労を苦労と感じないで済む、依子にとっての芯の部分であり、依子そのもの。
個展は1ヶ月半も先だが、計画的に準備していかないと、絶対直前であたふたするのがわかっているので、気を引き締めないと、改めてそう思いながら眠りについた。
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