鈍色の空と四十肩

いろは

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3 ーイチゴの籠ー

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 ハンガリーは決して大きい国ではない。
 全土の人口は1000万人弱で神奈川県くらいの規模。首都ブダペストは180万人ほどで福島県ほど。

 ヨーロッパにおいては、周囲の国々から代わる代わる国土を取ったり取られたりしてきた、複雑な歴史がある。が、それだけに、西ヨーロッパ諸国とはまた違う独特な文化風土がある。
 ひっそりと落ち着いて美しい、人々も控えめな性格の土地柄なので、日本人には住みやすいんじゃないかと、依子は思っている。ただ、どうしても西ヨーロッパ諸国と比べるとマイナーで地味なので、あえて旅行にくる人は少ないかもしれない。

 日本人もそれなりにいるが、街中でしょっちゅう出くわすというものでもなく、レアキャラではある。
 よって、日本食、というかアジア圏の食材が買える店も限られてくる。

 この日、依子は日本料理店のバイトを終えて、夜9時ごろ、輸入食材がある職場から歩いて5分のスーパーに来ていた。
 バイト先は居心地が悪くはなかったが、基本的にコミュ障なので、そもそも接客業は依子にとってかなりストレスである。それを紛らわすために、買い物をしなくても、故国日本の物品を見て気晴らしをするためによく来るのだった。

( うーん。どう考えても多いよな。。。安くないし。)

 野菜売り場をぶらぶらしていて目に留まったのは、真っ赤ないちごの山だ。
 まだ春には早いが、季節を先取りしたハウスものだろうか。その鮮やかな赤と艶、照りと形が、なんとも愛らしく美しく。
 氷と灰色の冬で静かな落ち込みの中にいた依子は、どうしても持ち帰りたい気分になって、悩んでいた。

「こんばんは。」

 譲治はイチゴの山の前でずいぶんと考え込んでいた、見覚えのある女性に声をかけた。
 普段なら気づかれないようそーっと回れ右をして回避するところだが、その女性にはマックで席を譲ってもらった借りがある。

 田中譲治がハンガリーに着任して約1ヶ月。
 仕事と生活の諸々の手配になんとか型をつけて、今日はご褒美と言ってもささやかに、日本食材を物色しに来ていた。

「あらまあ! こんばんは!」
 びっくりしたようにこちらを見たその小柄な女性は、うれしそうに譲治を見て続ける。
「奇遇ですね。 また出張ですか?」

「ああ、実は出張じゃなくて、こちらへ転勤したんです。」
「そうでしたか! それはお疲れ様です。 お住まいとか、少しは慣れました?」
「まあ、なんとか」

 我ながら、相変わらず口下手で気の利かねえヤツだな、と思いつつ譲治は言葉少なに会話の努力をしてみた。
 早々に消えるか、と思ったところで女性が唐突に提案を始めた。

「あのー、ほとんど初対面の人間に言われてご迷惑かと思うんですけれど。。。
このイチゴ、私どうしても欲しいんですが、どう考えても量が多くて。
せっかく旬の初物を買ってもダメにしちゃうともったいないので、半分もらっていただけません?」

 そういう実利的な誘いには調子良く乗っかるのが譲治である。
 コミュ障だからといって、ノリが悪いわけではない。
 内心ラッキーと思って表情には出さず、というか出ずに、喜んで答えた。すべからく感情というものが表に出ないたちなのだった。

「いいんですか? 半分の代金払いますよ。」
「いえいえ、こちらが押し付けちゃってるんですから。
ちょっと待っててくださいね。今買ってきますから。レジ出たとこで分けましょ。」

 女性は、譲治が払うというのを許さないように、そそくさと大盛りのイチゴの籠を抱えてレジへ小走りに向かっていった。

「あんまりきれいだったから。どうしても持って帰りたくなっちゃって。」
 女性はレジを出たところの仕分け台で忙しなくイチゴを分けながら呟いた。
「はい、こちらどうぞ。突然ご無理きいていただいちゃって、すみません。ありがとうございました。」

「ありがたくいただきます。あの、こちらにお住まいなんですか?」
 譲治にしては珍しく反射的に質問していた。なんとなくユニークな雰囲気があって気安い感じがしたからだった。
「そうなんですよ。一応自営業なんですけど、それでは食っていけないのでバイトしながら。あっ、そうだ。」

 女性は肩にかけていたカバンをごそごそやって、名刺らしきものを取り出して言った。
「図々しついでに宣伝しちゃいます。
これ、そのバイト先のショップカードです。『さくら』っていう日本食レストランです。
ここから見えますよ。前の通りの奥まで突き当たった左側に、赤いネオン見えるでしょ? ほら、あそこ」
 目の前の大きなウインドウの夜の街を指さされた方を見る。
 なるほど少し遠いが、奥に赤い明かりが見えた。

「元々ブダペストのホテルレストランのシェフをやっていた方なんですけど、独立して日本食レストランを開業されたんです。
ハンガリーの地元料理も食べられますし、日本人シェフなので味は確かですよ。
ランチなんかはけっこうリーズナブルです。もしよかったらいらしてください。」
 リーズナブル、というワードに心動かされ譲治はカードを受け取った。

 ほぼ初対面であんまり親しげに会話を続けるというのも、なんだか違う気がして、しばし沈黙がおりる。
 まっすぐ譲治の様子を見ていた女性がにっこりして
「それじゃ、失礼しますね。」と言って会釈した。

「あ、ありがとうございます。ごちそうさまでした。」
 出口に向かう女性の後ろ姿を一瞬見送って、譲治は買い物の続きに戻った。

(エライぞ、私。最低限の会話で済ませた。)
 コミュ障のくせに、話しやすそうと見るとつい、ぐいぐい行ってしまってドン引きされることばかりで、恥ずかしい性格。
 最近は余計なことを言わず切り上げることができるようになった。

 というか、ハンガリーに来てハンガリー語はもちろん英語でも会話がままならないので、余計なことはしゃべれなくなった、というのが正確だ。
 バイト先のショップカードを渡したのはちょっとやりすぎだったかな、とは思ったが、なんとなく寂しいこともあるかもなと感じた譲治の様子を見て、つい出してしまったのだ。

 ハンガリーに引越したのか。
 お店に来てくれたらいいな。また会えるとうれしい。だからと言っておしゃべりできるわけじゃないけど。
 自嘲しながら、依子は凍てついた夜道を急いで帰路についた。
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