星間のハンディマン

空戸乃間

文字の大きさ
上 下
31 / 44
第一話 Killer Likes Candy

PULL THE CRTAIN 3

しおりを挟む
 望んだのではない、他に選択肢がなかったのだ。薬物依存の父、過労で死んだ母。病に冒された妹を救うには多額の治療費が必要で、踏み出す一歩が奈落への片道切符だと判った上で落ちていった。たった一人の家族を救う為にノーラは全てを捧げた。そう、全てを――。

 失った純血に未練はなく未発達な身体さえも差し出した。儚い外見を武器に近づき、時には男に挿されながら刺した。初めてはいつのことだったか、日に日にやせ細っていく精神を繋ぎ止めたのは、皮肉なことに父が溺れていたのと同じ薬物の一種だった。嘗めるごとに弛緩する思考、爛れた世界は湧き上がる多幸感に押し流されどこかへ消える。これがあればもう何も恐くない、幸せな気持ちで妹を救える。

 ――愚かだと、気付いた時には手遅れだった。最早〈キャンディ〉がなければ、あの慰撫がなければ妹を救えない。

 薬に溺れ藻掻いても正常な世界には浮き上がれず、蛇口から流れる水音を聞いていた。閉店時間を過ぎたショッピングモールを照らすのは、僅かばかりの夜間照明と非常灯のみだ。
 顔を上げれば鏡があるだろう、化粧室だからきっとある。
 額に張り付いた髪、腕を動かす度に服の抵抗を感じる。見えていなくても全身を包む不快感がどんな状態にあるかを告げていた。

「もう……いや…………おちないよ……」

 どれだけ洗おうが染みついた臭いは落ちはしない、石鹸などでは決して洗い落とせやしないのだ、人の血は――。溜まった水はきっと紅く、ワインのように洗面台を満たしている。

「もう…………いや……」

 目元の血痕を溶かして赤い涙をノーラは流す。視線を感じて顔を上げると、鏡の自分と目が合った。血の気の失せた顔で不気味に笑っている。

『どうして泣いてるの、おねえちゃん』
 鏡の中の自分が言う、ノーラは口を噤んでいるのに。
『あんなに楽しかったのに、どうして?』
「た、楽しくなんかない……話しかけないでカーラ」
『あははっ、嘘付いてもわかるよ。お姉ちゃんの考えてる事なんてお見通し』
「あんな酷いこと……楽しいわけないじゃない!」
『みんなおねえちゃんをいじめるからいけないんだよ、酷いのはあいつらだよ? おねえちゃんのことはあたしが守ってあげるからね』
「そんなこと頼んでない! やめてって言ってるのにカーラが勝手に――」
『殺したね、いっぱい殺した。でもそれがどうしたの? 誰一人関係ない奴なんていなかった。みんなおねえちゃんをいじめた奴らだもん、死んで当然だったんだよ』
「あ、あの人はちがった、わたしの話も聞いてくれたのに……ちがったのに……」

 カーラは笑いを堪えきれないのか、肩を揺らしていた。口角から漏れる笑い号は次第に大きくなり、蔑みを隠すことなくノーラに吼える。

『馬ッッッ鹿みたい! とぼけてても私にはわかるんだよ、おねえちゃんだって気付いてたんでしょ? あの男が人殺しだってことに。親切なフリして近づいて、結局騙してたんだよ。イカレてるなんて酷いよね』

 ノーラは固く耳を塞いでいたが、それでもカーラの笑声は頭の中で反響していて、追い出せない、締め出せない。引き千切らんばかりに耳を掴んでも、吐息の一つまで鮮明に聞こえるのだ。

『――……それに忘れたのおねえちゃん? アイツを刺したの、お姉ちゃんだったじゃない』
「ちがう、ちがうちがうちがう! 私じゃないわたしじゃないワタシじゃない――ッ!」

 恐怖に喘ぎノーラは震えた、そんな恐ろしい事出来るわけない。悪魔払いの神父のように彼女は否定の言葉を繰り返すが、カーラの囁きはくぐもりさえしない。

『お姉ちゃんは悪くないよ、傷付いたんだよね? 守るなんて言ってたぶらかして裏切られたんだから。ズルい嘘つきには罰を与えなくちゃ、お姉ちゃんは正しいんだ。――ほら、思い出してみてよ、アイツの腹を刺した感触を。皮膚を裂いた感想は? 刃先に感じた筋肉の抵抗は? 新鮮な血液の温もりはどうだったの? 温かくってあたしも大好き』
「いや……やめて…………」
『お姉ちゃんが殺した』
「うるさい――――ッ!」

 握りしめたナイフを鏡に向かって突き立てる。地割れに似たヒビが奔り、そこに写るカーラの姿が増えた。

『ホラね、いまだってそう、今までだって同じだよ。感情にまかせて大勢殺してきた。ねえお姉ちゃん、そろそろ素直になろうよ』
「ワタシじゃない、あなたがやっているんじゃない――……ッ」
『そうだね、確かにそうだった・・・・・。――でもお姉ちゃん、気付いてないのかな。それとも気付かないフリをしているだけ?』

 ぞくり――、頬を撫でられノーラは身震いした。カーラの手を払おうとするが実体を持たぬものを振り払えるはずもない。その感覚は内にあった。皮膚の内側を撫でられる気持ちの悪い感覚に肌が粟立つ。

『数多の暴力、そして死の山。積み上げてきたのはわたしだった。でもさぁ、お姉ちゃん泣いてなんかいなかったよね。積むときはいつだって笑ってたじゃない』

 映画の感想でも語るような気軽さでカーラに同意を求められ、ノーラは首を振る。潤いを奪われた喉からはしゃがれた声しか出なかった。

「……笑ってなんか……ない…………」
 ヒトの死に登り笑うなど悪魔の眷属ではないか。ぜったいにちがう――そう繰り返す。

 ――……いや、思い込んでいる、だけ?
『そうだよ』

 ――ちがう、と否定する。もう声にもならなかった。目が潰れるほどに瞼を閉じ、殻の中へと閉じこもるノーラ。外界との繋がりを一つでも減らす行為だけが、彼女に出来うる最後の抵抗だったのかも知れない。しかし……

 見える――――、死が――。

 慄(おのの)くノーラの眼前で刃を閃かせるカーラ。白刃が皮膚に滑り込み紅い線を引いていく。舞い飛ぶ飛沫は花びらのようで、崩れ落ちる人影は欠けたシルエットをしていた。悲鳴のコーラスを纏い、嗤う。嗜虐の瞳、恍惚の笑み、死を降り撒いて、煌めく刃の赴くままに切り裂いて――踊る、踊る。

 ノーラは彼女と目が合った。あれは――、

『お姉ちゃんだね』
 付きまとわないで――ッ、あなたなんかいないッ、カーラなんかいないんだッ――、
『アハハハッ、お姉ちゃんってばおかしな事言うんだね、私達は一心同体、いつでも一緒の仲良し姉妹でしょ。いないなんて寂しいな、消えちゃえなんて悲しいよ。守ってあげてるのに……ゆるせないよ。その『いない』って誰に話しかけてるか、ちゃんと鏡を見てご覧よ』

 そこにあるのはナイフが刺さり割れた鏡、ひび割れたうつし身。白髪、角、血に汚れた小麦色の肌。鏡を見れば必ずそこに映る姿だった。

 わたしだ――――、

 映っているのはカーラ・キャシディではなくここにいる自分。血塗れの髪を張り付かせ、鉄の臭いを染みつかせた自分だ。ノーラ・キャシディ、それがわたし。

 背筋に奔る悪寒、震えが止まらなかった。
 いやだ、怖い、そう思う、なのに何故?

 ……ワたしハ嗤っていルのだろウ―――― 

 鏡の破片が軋んで落ち、割れ砕ける。

 それはまるで遠吠えで、ノーラの絶叫は虚しくモールに響くのだった。
しおりを挟む

処理中です...