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第二話 イザリス砦に棲む獣

デンジャラス・ウィスパー Part.2

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「ねぇ、れいぶん、なにか聞こえまふぇんか? 声みたいにゃのが……」
「いや全然。俺にはもっとヤバそうな音しか聞こえねえよ」

 酔っ払い龍の言う音の正体を確かめるよりも、今のアイリスを誰かに見られる方がマズい。レイヴンはさっさと廊下を通り抜け、突き当たりの客室へ急ぎ戻ってみれば案の上、下ろしてやったアイリスの尻からは龍の尻尾が生え、床板を擦っていた。

 酔いすぎてなのかは知らないが、龍人化が始まっている。本当に、他の客に見られなくて幸いだった。化物騒ぎを終わらせたのに、龍人状態のアイリスが見つかりでもしたら、騒動再燃は確実、だが説教するにもレイヴンにもその体力は残っておらず、とりあえずは明日に先送り。しかし、そうするにしても、まずはアイリスを寝かせてやらなければならないというのが、非常に面倒な点だった。

「そのままの姿で寝るなら服脱いどけよ、尻尾と翼で破けちま――」
 だが、彼女を促そうとしたレイヴンは最後まで言い切る事が出来なかった。

 ほんの一瞬の出来事、振り返った彼は気が付けば、突然飛びかかってきたアイリスに押し倒されてしまっていた。

「…………レイヴン。これは、ど~いうつもりです?」

 いきなり飛びかかられて、しかもご丁寧に両腕とも抑えつけられているのだ。同じ言葉で問いたいのレイヴンの方、しかし鼻先が触れ合いそうなところにある紅潮した頬と、とろんと蕩けた瞳に見つめられれば、すぐには言葉は出てこない。獲物に食い付くようにして龍少女に馬乗りになられているのに、見取れてしまうばかり。

 そうして暫くレイヴンが声を失っているとアイリスは、彼の胸に顔を埋めてすんすんと鼻を鳴らしてから、もう一度尋ねたのだった。

「ど~いうつもりなんです、レイヴン?」
「あぁっと……おれも、同じ事を訊こうと思ってたところだ……。アイリス、これは、どういうつもりなんだ?」

 と訊けば、アイリスは頬をぷっくり膨らませる。
 彼女の頭には角が生え、白目は黒く変わって、頬の一部にも鱗が現れた人の姿をした龍になっている、にもかかわらず、どうしたって恐ろしいとは思えない。次いでアイリスが口にした言葉を聞けば尚更だ。

「やっぱりです、レイヴンからヴァネッサのにおいがします」
「……当然だろ、一緒に闘ってきたんだから。それに他のにおいの方が強いだろ」
「火薬と、土と草と鉄のにおいもします、けれど彼女のにおいもつよいです」

 そう言ってアイリスは怒ったように眉を吊り上げてみせたが、相変わらず瞳は蕩けたままなので迫力なんてものは微塵も感じられない。それに、怒りよりももっと別の感情が彼女の中にあるようで、アイリスは努めて真剣に話をしようとしていた。

「やっぱりレイヴンもなんです?」

 ……とはいえ、酔っ払いの舌先。さらに中身も相まって、レイヴンにはいまいち彼女の心持ちは伝わらないし、むしろ冗談に聞こえる始末。

 まぁ実際、冗談みたいな話だった。
「要点がいまいち分からねえんだけど、何を訊きたいんだ、お前は」
「訊いてもいいんです?」
「これまでのだって質問だったろ、さっさと言えよ」
「ではでは――」

 改まりアイリスは深呼吸、それから一気に質問をぶちまける。
「レイヴンは~! 胸のおっきな雌が好みなんです~ッ⁈」
「…………はぁ?」

 真面目に答えようとしたのが馬鹿馬鹿しくなる、立っていたらレイヴンは拍子と一緒に膝も抜けた事だろう。けれどもアイリスは、夜分遅かろうが関係なくバカらしい問いを繰り返した、砦中に響くくらい大きな声でだ。

「彼女を選んだ理由です、彼女の胸が大きくて魅力的だから一緒に行ったのですかッ?」
「お前なぁ……、一体なにを言ってんだよ……」
「分からないんです? 乳房です、おっぱいです!」

 頼むからこれ以上、デカい声で阿呆な事を叫ばないでくれ。レイヴンは瞼を閉じて、信じもしない神に祈った。

「……俺が訊いたのはそこじゃねえよ、くだらねえ事訊いた理由の方だ」
「けれどレイヴンも、彼女の豊満な胸に熱い眼差しを注いでました!」

 これには言い返しようもない。
 はだけさせたダスターコートの胸元で、深紅の布きれ一枚によって支えられた蒼い膨らみなんて、視線が引っ張られなければ男として失格である。一応、レイヴンにもキチンとした理由はあるが、いい訳がましく聞こえるだけだろう。

「まぁ、見てたのは認めるがよ……」
「ほらほらです! やっぱりレイヴンも胸の豊満な雌が好みなんです!」

 二択で問われれば首肯せざるおえない、哀しいかな、それが男のさがってやつである。

「わたしの胸は……その、なんと言いますか……控えめ・・・です」
「……そうだな、デカくはない」
「けどですね、これにはちゃ~ぁんとした理由があるんです。いいですか、レイヴン? わたしは龍なんです、それで、龍は卵から孵るので、子供に乳をあげる必要がありません。つまりですよ、大きな乳房を持つ必要が、わたしにはそもそもないのです」

 龍の他にもトカゲや、鶏、卵から孵る生き物はどれも乳房を持たないが、そういう話をしたいのではないだろうと、レイヴンは眉根を寄せて聞いていた。――と、言うより、矢継ぎ早にアイリスが捲し立てるので、口を挟む暇が無かった。

「しかし、レイヴン安心してください、希望はあります。この姿は呪いによるものですから、呪いをかけたわたしの友人に頼めば、貴方が望むように、豊満かつ、魅力的な姿に変われるようにしてくれるかもしれません。もしくは、わたしが自らの力によって姿を変えられる日が来るかもです。そうしたらレイヴンも、揺れる乳房に見取れてしまうレイヴンも――」
「待て、アイリス、ちょっと待て」
「むぅ、なんです? 今頃になって否定するんです?」

 否である。繰り返し認めるのは恥ずかしい部分もあるが、否定などしない。それよりも、気になっている事がレイヴンにはあった。

「さっきから気になってたんだが、俺も・・、ってのはどういう意味なんだ? 他に誰かいるみたいな言い草だが」
「――? そうですよ」

 あっけらかんとした答えに、レイヴンは頭を抱えたかった。この龍少女、こともあろうに最悪な相手に、最高の餌を提供してやったらしい。

「酒場の皆さんの意見です。皆さん、口を揃えて言ってました、人間の男というのは胸の大きな女性が好きなのだと、あの膨らみに顔を埋める為ならばどんな事でもするのだと、レイヴンがヴァネッサと狩りに出たのも、彼女の身体が目当てなのだと」

 身体の自由が利いたならば、すぐにでも表に出て行って、店前で転がっている酔っ払い共に蹴りをくれてやるところだが、生憎とレイヴンは身動き取れず、代わりに彼はアイリスの迂闊をたしなめる事にした。

「あのなぁ、身体目当ては、お前に話しかけた連中の方だ。お前を丸め込んで一発ヤろうとしてたんだよ。……まったく、なんで、そんな戯れ言を――」
「レイヴンがッ! ヴァネッサを好いているからですよッ!」

 アイリスは、怒鳴った。
 頬の紅潮は酒の所為ではない、彼女の瞳はひどく潤んでいる。

「貴方の眼差しを見ていれば分かります。レイヴンは、徐々にですけどヴァネッサに好意を抱いています、そう、彼女の決闘に立ち会ってからです! 肉体だけではありません、堂々と闘った戦士としての姿に、レイヴンは共感し、惚れています、違いますかッ⁈ だからわたしも……、わたしもと思い、もっと頑張ろうとしているのに……なんで…………⁈」

 想いは、彼女の頬を伝う。
 が、言葉だけならまだしも、力一杯掌を握りしめられては、怪力で手首を締め付けられているレイヴンは堪ったものではなかった。出すまいとしていたが、彼の口元は苦悶に歪む。

「……アイリス、流石に痛ぇ」
「…………えっ? ……あぁ! ごめんなさいです!」

 ぱっと、手を放したアイリスはようやく我に返ったようで、申し訳なさ気にレイヴンの上から退くと、翼も尻尾も小さくしぼめて、居所を探すように立ち上がる。人の手首をへし折らんばかりだった先程までの勢いはどこへやら、ぐしぐしと涙を拭う姿は、まるで迷子にでも変わってしまったようだった。
 そうしてアイリスが口を噤めば、正しく夜の静寂が部屋に満ち、レイヴンは手首にくっきり残った痣を静かに撫でる。

 しかし、だ。

 その痣を見ても、僅かな怒りさえレイヴンは感じない。その痕から彼が感じる痛みは、そのままアイリスが感じた痛み。彼女にここまでの行動をさせたのは、レイヴンにも責がある。

 業腹ながら、ヴァネッサの知った風な口が彼の頭をよぎったのは言うまでもない事だった。
「不安にさせて悪かった。謝るよ」
「……胸に囚われるのは仕方のないことです、それこそ雄の性なのですから」
「俺は女の価値を胸の大小で計ったりしねえよ、あと、いい加減胸から離れろ」

 アイリスの気持ちはじんわりと、レイヴンの骨身に染みいっている。指先で拭ったところで、擦ったところでこれっぽっちも軽くはならないのは、きっとそこに、彼女の心のみならず、レイヴン自身の自責の念も染みついているからだろう。

「ヴァネッサは優秀な戦士で、俺はあいつの事を気に入っちまってるし、あの勇敢さには尊敬もある、アイリスが言ったとおりな」
「……はい。わたしもです、ヴァネッサが嫌いな訳ではないんです」
「好意か嫌悪か、どっちかで答えるなら前者だ。けどな、それだけ、得物担いで化物狩りに出るには最良かもしれないが、そっから先は無いと直感で分かる。……お前とはちがってな」

 浮かんだ心をそのまま言葉に代えてやると、アイリスはパッと顔を上げて、少女の瞳を華やかせた。

「それってつまりですよ、レイヴン――」
「ニヤニヤするなよ、こういう話は苦手なんだ、これで勘弁してくれ」
「ううんです。もう一声、お願いします」

 目を逸らせば、アイリスはその先へと回り込み、尖った歯を覗かせて笑う。ハットを目深に被らなければ、レイヴンの眼はその輝きによって潰されていたことだろう。

「……姿を変えたいと思うなら好きにすれば良い、それはアイリスの自由だが先に一つ教えておく、どんな姿であっても心がお前のままでいるなら、俺はお前の傍にいてやるよ」
「…………もう一つ」

 ぽつり、アイリスは消え入りそうな声で言った。
「もう一つお願いしても良いです? レイヴン?」
「どんどん欲張りになっていくな」

 一体何をさせるつもりなのか――、そう思って顔を上げ、レイヴンは息を吞んだ。感嘆の声を上げなかったのは奇跡に近い。ハットのつばから開けた視界では、眠るように瞼を閉じたアイリスが、誓いを求めて艶やかな唇を差し出しているのだから。

 雰囲気もへったくれもあったものじゃない、あったものじゃないが、ここまで女にさせておいて、無下になんてできようもない。それに……

 いや、きっとこれは、とても単純な問題なのだ、あれやこれやと頭を抱えるような話ではなく、井戸から湧き出た水のように受け入れてやるだけで良いはずなのだ。のそり立ち上がったレイヴンは、腹をくくると、白く冷たい鱗に覆われたアイリスの肩に手を置く。

 二人の体温が交わり融け合うと、境目は次第に曖昧になる。
 肌の境目、そして鼓動の境目までも――
 そうしてレイヴンも眼を閉じて、吐息する方へと顔を寄せる。だが……

 再び彼が目を開けた時に見たのは、ささくれだった床板の木目、視界は横倒しになっていて、自分が倒れているのだと気が付くまで暫くかかった。骨が抜けてしまったように、手足に力が入らない、腕はおろか、指の一本までも重力に屈してしまっている。ぼんやりと音も遠く、果てしない山びこのように聞こえているアイリスの声が、自分の名を呼んでいることにさえ気付かずに、レイヴンはそのまま意識を失った……。

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