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第二話 イザリス砦に棲む獣
イザリス砦に住む獣 Part.3
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地を蹴り駆け出すヴァネッサは、触手うねらす化物の、その深い懐目掛けて突っ込んでいく。その様子はまるで無謀な突撃のようだが、彼女には阻みにかかる触手の動きが見て取れているようだ。
的確にひらり――
的確にスパリ――
回避に徹していた先程よりも洗練された動きは、非常に鋭く、そして極めて優雅。逃げに徹しているならまだ分かる、驚異的なのは、彼女が前へと出ながらもその動きを続けている事だ。強大凶暴な化物に対して、一欠片の恐怖心も覗かせる事無く……。
それだけにレイヴンも必死だった。
彼女が示した勇気に見合うのは、賞賛の言葉よりも十二発の弾丸の行く先、正確無比な援護射撃こそが求められていたから。しかも、一目も振り返らないヴァネッサの背中目掛けて、彼女の髪を散らすほどの近距離にでも弾を放り込まなければならないのだ。不規則に動き回る触手を狙って。
……だが、面白い。
レイヴンは静かに心で笑うと、撃鉄を起こしては銃爪を落としていた。魔銃がなくとも使える人間の魔法、極度の集中力を発揮しながら。寒気がする程の集中力は、彼の世界から音を殺し、逆巻く白い長髪の一本までも正確に見せてくれる。一度そうなれば、触手を撃ち落とすなど射的も同然。
ずどん、ずどん、ずどんと、ヴァネッサが敢えて見逃した触手を鉛玉で引き千切る。
更に三発追加して彼女の背中を守ってやり、レイヴンは二挺めを抜いた。するとどうだ、化物は眼前に迫る魔力を帯びた刃よりも、一箱数ドルの鉛弾に脅威を覚えたらしい。
魔女よりも一介の拳銃遣いを警戒するとは、なんとも光栄で迷惑な話である。
「なんでこっちに来るんだよ、クソ!」
練り上げられた魔力が生み出す極度の集中はレイヴンに早撃ちの機会をもたらしてくれるが、時間の止まったような世界の中で彼が動かせるのは両腕が精々、鼠のように地面を張い飛びかかってくる無数の触手には力不足だった。シリンダーに装填された六発の弾丸が生命線、こいつをどこにブチ込むかで全てが変わる、その非情を知っているからこそ、まだ撃てない。
なんとか触手を躱すレイヴンだが、その姿はヴァネッサとはうって変わって無様な物、横っ飛びに避け、地を転がり、ポンチョは草と土に汚れる。しかし、如何に必死に避けようが横凪に振られてはどうしようもなかった。
重たい一発を腹に喰らって、レイヴンは吹き飛ばされた。
骨が軋み
瞬間、息が止まる
視界は白飛び
不明瞭な意識は雲の中にでもいるようで
だが次いではっきり世界を認識した時
彼は両足で地面を踏みしめていた
意識があろうがなかろうが、闘う意志は胸にある。それさえあれば撃つべき時に銃爪を落とせる。
ヴァネッサはもう化物の眼前まで迫っていて、彼女の背後には触手の群れ、そして同時に、レイヴンの拳銃はその触手共を捉えていた。
触手は六本、弾数も六発。
銃爪を引きっぱなしで、続けざまに左手で撃鉄を煽るファニングで援護してやれば、我先にと飛び出す弾頭が五本の触手を引き千切り、そして……レイヴンは奥歯を噛み締めた。
ヴァネッサが切り飛ばした触手の肉片が、まだ本体と繋がっている触手を庇う為に割って入ってきたのである。
「こいつ、まだ動きやがるのか……! 後ろだ、ヴァネッサ!」
警告するが間に合わず。
たかが一発と、たかが一欠片の触手片、計算としては単純な答えだったが得られた結果は大きく違った。銃弾を受けなかった触手がぬるりとヴァネッサの背後から近づき、すでに彼女の細い首を締め上げていた。
「ぐぅ……ぐぁぁぁ…………! こ、小癪な、真似を……」
一度捕まれば逃れられない。
次々と群がる触手は、あっという間にヴァネッサの身体に巻き付いて絞め殺しにかかっている。助けようにも、レイヴンはまだ排莢中、再装填が終わる頃には彼女の死ぬ。
「ヴァネッサ! 魔銃だ、魔銃を寄越せ!」
「しかし、それは…………」
「アホか、四の五の言ってる場合か! 殺されるぞ、早く寄越せッ!」
魔銃が自分の持ち物だからだとか、そんなくだらない理由など吹き飛ばしてレイヴンは声を張り上げていた。それ以外に方法はないのである、意地汚かろうが何だろうが、とにかく生き残るには、両者にとっての選択肢はそれしか残されておらず、ヴァネッサはまだかろうじて動く右手にナイフを握り直して、身体を締め付けている触手の一本を斬り落とすと、その手を腰に提げた皮袋へと突っ込む。
そして、勢いよく彼女が腕を振り抜くと、懐かしささえあるシルエットがレイヴンの方へと飛んでくるのだった。
魔銃だ。しかし、化物もその放られた物体に脅威を感じたのか、残る触手を振り回して妨害に掛かっていた。となれば、大人しく眺めている訳にも行かない。あの魔銃だけが、唯一残った希望なのだから。
弾倉(シリンダー)に込められたのは二発だけ、それでも何もしないよりマシだ。
半分だけ撃鉄を起こして弾倉を回転させ、装填した弾丸を発射位置へと送りこんだレイヴンの両手は、穏やかに流れる水の如き滑らかさで射撃動作へと移り、そのまま撃鉄煽る腰撃ちでの二連射は、割った入った触手を引き千切り道を切り拓いた。
魔銃と射手とを繋ぐ、黄金の道を――
その道は直通の鉄道のように二点を繋いでレイヴンの手へと魔銃を導き、彼は確かにガッシリと、握る拳銃をその禍々しい銃把へと持ち替えた。
例え邪悪であろうとも頼もしい、彼を奮わせる魔力の滾りは正しく百人力だった。
「散々っぱらやってくれたな、お返しは痛いぜ……」
一瞬先は生死の向こう側、その刹那に生じる気が触れんばかりの集中力に魔銃が更に拍車を掛ければ分厚い鱗の下にある筋肉のしなりまでだって見透せる、不規則にうねる無数の触手など物の数じゃない。
銃把に力を込めると共にレイヴンが魔力を送り込んでやれば、久方ぶりの餌に飛びつく蛇のように魔銃の銃身で悪魔文字が蠢く。《さぁ撃て、殺せ!》蠢く文字立ちはそう煽り立てるようでもあるが、レイヴンは冷ややかなままに速射を行うだけだった。
普通の銃を撃つように操作し、魔銃もまた普通の銃と同じように動作する。だがしかし、その銃口から放たれる弾だけは全くの別物。
光は眩しく稲妻が如し
銃声はけたたましくダイナマイトも顔負け
そして威力は大砲以上
しかし狙いは正確無比で、レイヴンの放った魔弾は一つ目の残響が消える前に、化物から生えている触手全てを撃ち切った。
化物が悲鳴を上げ、触手から解放されたヴァネッサは喉を抑えながら着地。
彼女は咳き込んでいたが、闘志は萎えずナイフも握ったままである。
「見事だ小僧……ッ! 御見事!」
「まだだヴァネッサ、そのまましゃがんでろ」
化物の体内にある魔具を切り取ろうにも、傷はすでに塞がってしまっていて、堅い鱗を裂くには、城門を突破する破壊槌のようなドデカい一発が必要だった。
レイヴンは即座に魔力充填、そして激発。撃ち出された魔弾は空中で炸裂すると、散弾となって化物の鱗にいくつかの穴を開けてみせた。
またも化物が苦痛の悲鳴を上げてレイヴンを睨む。その眼光に込められた殺意だけで充分に殺せそうな威力がある。
だが……、勝負はすでに付いていた。城門を破られ、敵に肉薄された城に待つのは陥落だけ、一度するりと刃(は)が立てば、ヴァネッサが静かに腕振るだけで小さな銃創は大きく裂ける。それからチーズでも切るようにして二振りすれば、化物の腹は十字に裂かれ、大量の血液と一緒に取り込まれていた首飾りの形をした魔具が現れた。
それはレイヴンの射撃にも劣らぬ早業で、きっと化物は何が起きたのか、腹をかっさばかれた今でも理解していないだろう、そして、奴の呑気な脳味噌が反応するより先に、ヴァネッサは魔具を切り離し、巨体が膝を付く前には、一足飛びに飛び退がっていた。
しかもどうだ、彼女は返り血の一滴も浴びていないときている。
「……お見事、お前もやるじゃねえか、ヴァネッサ」
「なに、慣れたものだよ」
魔具を掌で転がすヴァネッサは、涼しい顔して言い放つ。妖しい美貌を携えたダークエルフの女、しかもドデカい肝っ玉を持った、とんでもない女で、レイヴンをして共通の敵がいた事に感謝さえ覚えていた。
「味方で良かったよ、こんな事言いたかねぇが」
「面白い事を言うのう、吾等はたまたま同じ方向を見ていただけではなかったかのう?」
冗談めかしたヴァネッサの微笑に、レイヴンは静かに首を振る。本当にやれやれだ、どうしたって彼女の方が一枚上手に感じられてしまう。
「……さてと、化物はどうなるんだ?」
「力の源である魔具はここにある、彼奴はもう動けぬよ。ほれ、見てみるといい」
ぐったりと膝を付いた化物の身体は巨岩のように鎮座して、酷い腐臭を孕んだ煙を上げて始めている。鼻を抑えたくらいでは、この臭いは止められない。
「腐ってやがるのか、こんなに早く……」
「魔具によって得られたのは仮初の肉体に過ぎぬからのう、切り離されればその部分を保っておられぬのは当然よ。じきに本体の姿を拝めるだろう、主が撃たなかった本体の姿をのう」
「…………」
レイヴンは何も言わなかった。
ただ鼻を押えたままで、ドロドロに崩れていく化物の姿を眺めていた。
勿論、撃たなかった理由はある。その気になって銃爪を引いていれば、化物の胴体を消し飛ばす事だって出来たのに、そうはしなかった。何故か? 化物の身体から本体が一瞬覗いた時に、その表情を見たからだ。あの苦痛に満ちた、助けを求める表情に向けては、とてもじゃないが銃爪は引けなかった。
……やがて、液体にまで溶けた化物の死体の中に、人影が横たわっているのを見つけると、二人はその
人物を馬に積んで、イザリス砦へと引き上げていくのだった。
まだ夜は深く、彼等が砦を発ってから十時間後の出来事だった。
的確にひらり――
的確にスパリ――
回避に徹していた先程よりも洗練された動きは、非常に鋭く、そして極めて優雅。逃げに徹しているならまだ分かる、驚異的なのは、彼女が前へと出ながらもその動きを続けている事だ。強大凶暴な化物に対して、一欠片の恐怖心も覗かせる事無く……。
それだけにレイヴンも必死だった。
彼女が示した勇気に見合うのは、賞賛の言葉よりも十二発の弾丸の行く先、正確無比な援護射撃こそが求められていたから。しかも、一目も振り返らないヴァネッサの背中目掛けて、彼女の髪を散らすほどの近距離にでも弾を放り込まなければならないのだ。不規則に動き回る触手を狙って。
……だが、面白い。
レイヴンは静かに心で笑うと、撃鉄を起こしては銃爪を落としていた。魔銃がなくとも使える人間の魔法、極度の集中力を発揮しながら。寒気がする程の集中力は、彼の世界から音を殺し、逆巻く白い長髪の一本までも正確に見せてくれる。一度そうなれば、触手を撃ち落とすなど射的も同然。
ずどん、ずどん、ずどんと、ヴァネッサが敢えて見逃した触手を鉛玉で引き千切る。
更に三発追加して彼女の背中を守ってやり、レイヴンは二挺めを抜いた。するとどうだ、化物は眼前に迫る魔力を帯びた刃よりも、一箱数ドルの鉛弾に脅威を覚えたらしい。
魔女よりも一介の拳銃遣いを警戒するとは、なんとも光栄で迷惑な話である。
「なんでこっちに来るんだよ、クソ!」
練り上げられた魔力が生み出す極度の集中はレイヴンに早撃ちの機会をもたらしてくれるが、時間の止まったような世界の中で彼が動かせるのは両腕が精々、鼠のように地面を張い飛びかかってくる無数の触手には力不足だった。シリンダーに装填された六発の弾丸が生命線、こいつをどこにブチ込むかで全てが変わる、その非情を知っているからこそ、まだ撃てない。
なんとか触手を躱すレイヴンだが、その姿はヴァネッサとはうって変わって無様な物、横っ飛びに避け、地を転がり、ポンチョは草と土に汚れる。しかし、如何に必死に避けようが横凪に振られてはどうしようもなかった。
重たい一発を腹に喰らって、レイヴンは吹き飛ばされた。
骨が軋み
瞬間、息が止まる
視界は白飛び
不明瞭な意識は雲の中にでもいるようで
だが次いではっきり世界を認識した時
彼は両足で地面を踏みしめていた
意識があろうがなかろうが、闘う意志は胸にある。それさえあれば撃つべき時に銃爪を落とせる。
ヴァネッサはもう化物の眼前まで迫っていて、彼女の背後には触手の群れ、そして同時に、レイヴンの拳銃はその触手共を捉えていた。
触手は六本、弾数も六発。
銃爪を引きっぱなしで、続けざまに左手で撃鉄を煽るファニングで援護してやれば、我先にと飛び出す弾頭が五本の触手を引き千切り、そして……レイヴンは奥歯を噛み締めた。
ヴァネッサが切り飛ばした触手の肉片が、まだ本体と繋がっている触手を庇う為に割って入ってきたのである。
「こいつ、まだ動きやがるのか……! 後ろだ、ヴァネッサ!」
警告するが間に合わず。
たかが一発と、たかが一欠片の触手片、計算としては単純な答えだったが得られた結果は大きく違った。銃弾を受けなかった触手がぬるりとヴァネッサの背後から近づき、すでに彼女の細い首を締め上げていた。
「ぐぅ……ぐぁぁぁ…………! こ、小癪な、真似を……」
一度捕まれば逃れられない。
次々と群がる触手は、あっという間にヴァネッサの身体に巻き付いて絞め殺しにかかっている。助けようにも、レイヴンはまだ排莢中、再装填が終わる頃には彼女の死ぬ。
「ヴァネッサ! 魔銃だ、魔銃を寄越せ!」
「しかし、それは…………」
「アホか、四の五の言ってる場合か! 殺されるぞ、早く寄越せッ!」
魔銃が自分の持ち物だからだとか、そんなくだらない理由など吹き飛ばしてレイヴンは声を張り上げていた。それ以外に方法はないのである、意地汚かろうが何だろうが、とにかく生き残るには、両者にとっての選択肢はそれしか残されておらず、ヴァネッサはまだかろうじて動く右手にナイフを握り直して、身体を締め付けている触手の一本を斬り落とすと、その手を腰に提げた皮袋へと突っ込む。
そして、勢いよく彼女が腕を振り抜くと、懐かしささえあるシルエットがレイヴンの方へと飛んでくるのだった。
魔銃だ。しかし、化物もその放られた物体に脅威を感じたのか、残る触手を振り回して妨害に掛かっていた。となれば、大人しく眺めている訳にも行かない。あの魔銃だけが、唯一残った希望なのだから。
弾倉(シリンダー)に込められたのは二発だけ、それでも何もしないよりマシだ。
半分だけ撃鉄を起こして弾倉を回転させ、装填した弾丸を発射位置へと送りこんだレイヴンの両手は、穏やかに流れる水の如き滑らかさで射撃動作へと移り、そのまま撃鉄煽る腰撃ちでの二連射は、割った入った触手を引き千切り道を切り拓いた。
魔銃と射手とを繋ぐ、黄金の道を――
その道は直通の鉄道のように二点を繋いでレイヴンの手へと魔銃を導き、彼は確かにガッシリと、握る拳銃をその禍々しい銃把へと持ち替えた。
例え邪悪であろうとも頼もしい、彼を奮わせる魔力の滾りは正しく百人力だった。
「散々っぱらやってくれたな、お返しは痛いぜ……」
一瞬先は生死の向こう側、その刹那に生じる気が触れんばかりの集中力に魔銃が更に拍車を掛ければ分厚い鱗の下にある筋肉のしなりまでだって見透せる、不規則にうねる無数の触手など物の数じゃない。
銃把に力を込めると共にレイヴンが魔力を送り込んでやれば、久方ぶりの餌に飛びつく蛇のように魔銃の銃身で悪魔文字が蠢く。《さぁ撃て、殺せ!》蠢く文字立ちはそう煽り立てるようでもあるが、レイヴンは冷ややかなままに速射を行うだけだった。
普通の銃を撃つように操作し、魔銃もまた普通の銃と同じように動作する。だがしかし、その銃口から放たれる弾だけは全くの別物。
光は眩しく稲妻が如し
銃声はけたたましくダイナマイトも顔負け
そして威力は大砲以上
しかし狙いは正確無比で、レイヴンの放った魔弾は一つ目の残響が消える前に、化物から生えている触手全てを撃ち切った。
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彼女は咳き込んでいたが、闘志は萎えずナイフも握ったままである。
「見事だ小僧……ッ! 御見事!」
「まだだヴァネッサ、そのまましゃがんでろ」
化物の体内にある魔具を切り取ろうにも、傷はすでに塞がってしまっていて、堅い鱗を裂くには、城門を突破する破壊槌のようなドデカい一発が必要だった。
レイヴンは即座に魔力充填、そして激発。撃ち出された魔弾は空中で炸裂すると、散弾となって化物の鱗にいくつかの穴を開けてみせた。
またも化物が苦痛の悲鳴を上げてレイヴンを睨む。その眼光に込められた殺意だけで充分に殺せそうな威力がある。
だが……、勝負はすでに付いていた。城門を破られ、敵に肉薄された城に待つのは陥落だけ、一度するりと刃(は)が立てば、ヴァネッサが静かに腕振るだけで小さな銃創は大きく裂ける。それからチーズでも切るようにして二振りすれば、化物の腹は十字に裂かれ、大量の血液と一緒に取り込まれていた首飾りの形をした魔具が現れた。
それはレイヴンの射撃にも劣らぬ早業で、きっと化物は何が起きたのか、腹をかっさばかれた今でも理解していないだろう、そして、奴の呑気な脳味噌が反応するより先に、ヴァネッサは魔具を切り離し、巨体が膝を付く前には、一足飛びに飛び退がっていた。
しかもどうだ、彼女は返り血の一滴も浴びていないときている。
「……お見事、お前もやるじゃねえか、ヴァネッサ」
「なに、慣れたものだよ」
魔具を掌で転がすヴァネッサは、涼しい顔して言い放つ。妖しい美貌を携えたダークエルフの女、しかもドデカい肝っ玉を持った、とんでもない女で、レイヴンをして共通の敵がいた事に感謝さえ覚えていた。
「味方で良かったよ、こんな事言いたかねぇが」
「面白い事を言うのう、吾等はたまたま同じ方向を見ていただけではなかったかのう?」
冗談めかしたヴァネッサの微笑に、レイヴンは静かに首を振る。本当にやれやれだ、どうしたって彼女の方が一枚上手に感じられてしまう。
「……さてと、化物はどうなるんだ?」
「力の源である魔具はここにある、彼奴はもう動けぬよ。ほれ、見てみるといい」
ぐったりと膝を付いた化物の身体は巨岩のように鎮座して、酷い腐臭を孕んだ煙を上げて始めている。鼻を抑えたくらいでは、この臭いは止められない。
「腐ってやがるのか、こんなに早く……」
「魔具によって得られたのは仮初の肉体に過ぎぬからのう、切り離されればその部分を保っておられぬのは当然よ。じきに本体の姿を拝めるだろう、主が撃たなかった本体の姿をのう」
「…………」
レイヴンは何も言わなかった。
ただ鼻を押えたままで、ドロドロに崩れていく化物の姿を眺めていた。
勿論、撃たなかった理由はある。その気になって銃爪を引いていれば、化物の胴体を消し飛ばす事だって出来たのに、そうはしなかった。何故か? 化物の身体から本体が一瞬覗いた時に、その表情を見たからだ。あの苦痛に満ちた、助けを求める表情に向けては、とてもじゃないが銃爪は引けなかった。
……やがて、液体にまで溶けた化物の死体の中に、人影が横たわっているのを見つけると、二人はその
人物を馬に積んで、イザリス砦へと引き上げていくのだった。
まだ夜は深く、彼等が砦を発ってから十時間後の出来事だった。
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