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メタモルフォーゼ 2
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お母さんはいつも私に選択する権利をくれた。
「これとこれ、どっちがいい? 好きな方を買ってあげる」
だけど、欲しいモノを買う権利はくれなかった。
買ってもらえるか、もらえないかの二択。どっちも嫌といえば、袖や丈の短くなったお洋服をずっと着ていなくちゃいけない。それで「本当にあなたはそれが好きねぇ」とあきれ顔で言われるの。好きで着てるんじゃないのに。
だから、AかB、どちらかを選ばなくちゃいけない。
たとえ、好きじゃなくても――
大手チェーンのカフェで、ふさふさと育っているマッサンゲアナの緑の葉を眺めながら、お母さんのくれた教訓を思い出していた。
テーブルを挟んで向かい合うおじさんに視線を戻し、上目遣いにそっと見上げる。
お金を手に入れるか、諦めるか。
選択肢はこの二択。
子どもの頃、衣食住の問題は切実で、その内容が好きかどうかは二の次だった。
だけど今は――
自分で好きなモノを選べるの。本当に欲しいモノを買える。
黒薔薇の蕾のような私の部屋に、素敵なドレッサーを置きたい。そして天井にキラキラのシャンデリアを取り付けるの。蝋燭のような仄暗い灯りを燈したら、濡羽色に光る壁がどんなに映えるだろう――
想像するだけでぞくぞくする。快感に心臓の鼓動も早くなる。
こうやって好きなモノだけで頭をいっぱいにしておけば、目の前のこの男にちっとも好感が持てないことなんか、大した問題じゃなくなる。気持ち悪いものはぜんぶ外の世界のもの。私には関係ない。
新作のワンピースも欲しいし、レースアップパンプスも、もうカートに入れてある。大切なのは、お値段が折り合うこと。それだけ。払えるだけの収入があればいい。別に贅沢なんて望んでないもの。他の子たちみたいに高いブランド品なんていらない。身の丈にあった幸せしか望んでない。
「猿とサメの昔話、知ってる?」
ぽっ、とそこだけが耳に入ってきた。
何の話をしてたっけ――
「兎とサメじゃなくて?」とりあえず、それっぽく返すしかない。
「似てるけど違うんだなぁ。兎と同じように猿もサメを騙すんだけどね。猿は、仲良くなったサメに海原に連れ出されてから、生肝が欲しいって、サメの思惑を知らされるんだ」
ねっとりした、にやけた声。
「猿がサメに騙されたの? 騙したんじゃなくて?」と、愛想笑いでもしておけばいいかな。
「それはこれからだよ。海の上で騙されたことに気づいて、このままでは殺されると思った猿はね、いいお天気だから肝は樹の上に干してきた、と言って、難なく陸に帰してもらうんだよ」
「肝ってレバーのことよね、なんでそんなもの欲しがるのかな」
「猿の生肝は薬になるって言い伝えがあったんだよ」
「ふうん……。猿の肝って取り外しがきくの?」
ははは、と馬鹿みたいに笑われた。
「きみもサメみたいに騙されちゃうタイプ? 純粋なんだね!」
何がおかしいの? こんなどうでもいい話に付き合ってあげてるのに。でも、本当にどうでもよかったから、私も、ははっと笑っておいた。
後から、私がお人形のように可愛いから、心を樹の上で日向ぼっこさせて、そのまま置き忘れて来てるんじゃないかと思った、と言われた。
日向ぼっこなんか嫌い。日光は嫌い。
だけど半分当たり。私の心はいつもここにはなくて、私の黒薔薇の部屋にある。
昼間ホテルに行って数時間を過ごした。冴えない芋虫はシーツに包まる蛹になってドロドロに溶けた。
そして夜中を過ぎる頃、黒薔薇の部屋で羽化する。液晶画面の虹色の光に照らされた艶々の花びらに囲まれて、しわしわしている紙製の金色の羽をゆっくり伸ばして――
ある日、ドロドロになった蛹の記憶が、足首に浮きあがって教えてくれた。
小さな二つの瘡蓋は、もう綺麗な皮膚に戻ることはないって。あの嫌な痒みはいつの間にか収まっていたけど、瘡蓋は固く盛り上がってずっとある。これは、瘡蓋じゃなくて、傷痕だからだ。
やっぱり私、吸血鬼に噛まれてたんだ。今どきの吸血鬼は血の代わりに、お金を吸い上げるから。印をつけられた私もやっぱり吸血鬼になっちゃってて、誰かの血を吸って生きている。
お母さんも、私と同じだった。お父さんの血を吸い尽くして捨てた――
だけど私はあの人よりはマシ。お父さんを破産させるほど浪費したりしない。ブランド品も宝石も欲しくない。本当に好きなモノ、だけど安いモノしか買わない。
さんざん浪費してお父さんに借金させて、自分はどこかへ逃げてしまった。そのくせ私の誕生日には高価なブランド品を送ってくる。私はこんなもの欲しくないのに。
だけど今は少しだけ感謝してる。お母さんのくれるブランド品は、オークションやフリマアプリで高い値段がつくって分かったから。買取サイトで売るよりもずっと高く売れるの。
それから誰かとホテルへ行くときは、その人の足首に犬歯をたてることにした。私の印をつけておく。
これは私のモノ。
これで安心。
一番大好きな黒薔薇の指輪がひび割れて壊れてしまっても。
あんなにたくさん買った指輪のメッキが剥げて汚くなってしまっても。
黒いワンピースが色褪せてみすぼらしくなってしまっても。
ぜんぶ捨てて、また買えばいいんだもの。
同じモノをずっと持ち続けるなんて、そんな退屈なことするよりずっといい。一緒に年をとる、皺くちゃなモノなんていらない。
可愛らしさは鮮度が大事。新陳代謝が命なの。安物の大量生産品なら、いつだって似たようなモノが手に入る。
こうしていつだって取り替えて、繰り返し生きていける。
永遠の時間を、私の可愛いモノたちといっしょに――
だけど最近、また、足首が痒い。
「これとこれ、どっちがいい? 好きな方を買ってあげる」
だけど、欲しいモノを買う権利はくれなかった。
買ってもらえるか、もらえないかの二択。どっちも嫌といえば、袖や丈の短くなったお洋服をずっと着ていなくちゃいけない。それで「本当にあなたはそれが好きねぇ」とあきれ顔で言われるの。好きで着てるんじゃないのに。
だから、AかB、どちらかを選ばなくちゃいけない。
たとえ、好きじゃなくても――
大手チェーンのカフェで、ふさふさと育っているマッサンゲアナの緑の葉を眺めながら、お母さんのくれた教訓を思い出していた。
テーブルを挟んで向かい合うおじさんに視線を戻し、上目遣いにそっと見上げる。
お金を手に入れるか、諦めるか。
選択肢はこの二択。
子どもの頃、衣食住の問題は切実で、その内容が好きかどうかは二の次だった。
だけど今は――
自分で好きなモノを選べるの。本当に欲しいモノを買える。
黒薔薇の蕾のような私の部屋に、素敵なドレッサーを置きたい。そして天井にキラキラのシャンデリアを取り付けるの。蝋燭のような仄暗い灯りを燈したら、濡羽色に光る壁がどんなに映えるだろう――
想像するだけでぞくぞくする。快感に心臓の鼓動も早くなる。
こうやって好きなモノだけで頭をいっぱいにしておけば、目の前のこの男にちっとも好感が持てないことなんか、大した問題じゃなくなる。気持ち悪いものはぜんぶ外の世界のもの。私には関係ない。
新作のワンピースも欲しいし、レースアップパンプスも、もうカートに入れてある。大切なのは、お値段が折り合うこと。それだけ。払えるだけの収入があればいい。別に贅沢なんて望んでないもの。他の子たちみたいに高いブランド品なんていらない。身の丈にあった幸せしか望んでない。
「猿とサメの昔話、知ってる?」
ぽっ、とそこだけが耳に入ってきた。
何の話をしてたっけ――
「兎とサメじゃなくて?」とりあえず、それっぽく返すしかない。
「似てるけど違うんだなぁ。兎と同じように猿もサメを騙すんだけどね。猿は、仲良くなったサメに海原に連れ出されてから、生肝が欲しいって、サメの思惑を知らされるんだ」
ねっとりした、にやけた声。
「猿がサメに騙されたの? 騙したんじゃなくて?」と、愛想笑いでもしておけばいいかな。
「それはこれからだよ。海の上で騙されたことに気づいて、このままでは殺されると思った猿はね、いいお天気だから肝は樹の上に干してきた、と言って、難なく陸に帰してもらうんだよ」
「肝ってレバーのことよね、なんでそんなもの欲しがるのかな」
「猿の生肝は薬になるって言い伝えがあったんだよ」
「ふうん……。猿の肝って取り外しがきくの?」
ははは、と馬鹿みたいに笑われた。
「きみもサメみたいに騙されちゃうタイプ? 純粋なんだね!」
何がおかしいの? こんなどうでもいい話に付き合ってあげてるのに。でも、本当にどうでもよかったから、私も、ははっと笑っておいた。
後から、私がお人形のように可愛いから、心を樹の上で日向ぼっこさせて、そのまま置き忘れて来てるんじゃないかと思った、と言われた。
日向ぼっこなんか嫌い。日光は嫌い。
だけど半分当たり。私の心はいつもここにはなくて、私の黒薔薇の部屋にある。
昼間ホテルに行って数時間を過ごした。冴えない芋虫はシーツに包まる蛹になってドロドロに溶けた。
そして夜中を過ぎる頃、黒薔薇の部屋で羽化する。液晶画面の虹色の光に照らされた艶々の花びらに囲まれて、しわしわしている紙製の金色の羽をゆっくり伸ばして――
ある日、ドロドロになった蛹の記憶が、足首に浮きあがって教えてくれた。
小さな二つの瘡蓋は、もう綺麗な皮膚に戻ることはないって。あの嫌な痒みはいつの間にか収まっていたけど、瘡蓋は固く盛り上がってずっとある。これは、瘡蓋じゃなくて、傷痕だからだ。
やっぱり私、吸血鬼に噛まれてたんだ。今どきの吸血鬼は血の代わりに、お金を吸い上げるから。印をつけられた私もやっぱり吸血鬼になっちゃってて、誰かの血を吸って生きている。
お母さんも、私と同じだった。お父さんの血を吸い尽くして捨てた――
だけど私はあの人よりはマシ。お父さんを破産させるほど浪費したりしない。ブランド品も宝石も欲しくない。本当に好きなモノ、だけど安いモノしか買わない。
さんざん浪費してお父さんに借金させて、自分はどこかへ逃げてしまった。そのくせ私の誕生日には高価なブランド品を送ってくる。私はこんなもの欲しくないのに。
だけど今は少しだけ感謝してる。お母さんのくれるブランド品は、オークションやフリマアプリで高い値段がつくって分かったから。買取サイトで売るよりもずっと高く売れるの。
それから誰かとホテルへ行くときは、その人の足首に犬歯をたてることにした。私の印をつけておく。
これは私のモノ。
これで安心。
一番大好きな黒薔薇の指輪がひび割れて壊れてしまっても。
あんなにたくさん買った指輪のメッキが剥げて汚くなってしまっても。
黒いワンピースが色褪せてみすぼらしくなってしまっても。
ぜんぶ捨てて、また買えばいいんだもの。
同じモノをずっと持ち続けるなんて、そんな退屈なことするよりずっといい。一緒に年をとる、皺くちゃなモノなんていらない。
可愛らしさは鮮度が大事。新陳代謝が命なの。安物の大量生産品なら、いつだって似たようなモノが手に入る。
こうしていつだって取り替えて、繰り返し生きていける。
永遠の時間を、私の可愛いモノたちといっしょに――
だけど最近、また、足首が痒い。
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