22 / 26
階段
しおりを挟む
何を意識するでもなく、これまでと同じ行程を繰り返す日常では、習慣的な動作は、思考とは無関係に刻まれた記憶を機械的に繰り返し辿る。時に、大地を踏む自分の足が、いつもとは違う一点を踏んでしまったことに気づくこともなく――。
小学生のころからの幼馴染から連絡が入り、仲の良かった三人が何年かぶりに集まった。子どもが生まれてからはそれぞれ忙しく、こんな風にのんびりと、とりとめのない話で時を過ごすのは久しぶりだった。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、これまでの人生で一番恐怖を感じた逸話を話そう、ということになった。けれど彼女らは私の話に、物足りないといちゃもんをつけた。
ちなみに私の人生最高の恐怖体験は、冬のノルウェー旅行で深く雪に埋もれた土手沿いを歩いていたときのことだ。足の下で水の流れる音をはっきりと聴いた瞬間に、それは襲ってきた。この足が歩いているのは地面ではない、という事実。いつ氷が割れるか判らない。どの程度の深さの川なのかも判らない。人は未知に恐怖するというけれど、まさにそれだった。
「分からないくはないけど……。もっと怖い話あるでしょ?」
「そうそう、怪談話! お化けがでてくるようなやつ」
この二人、真面目な顔をして、好奇心で瞳を輝かせているところは昔と変わらない。
そう、私は彼女らのいう怖い話には事欠かない。生まれついてのそういう体質だから。でも、そんな体験は私にとって別段恐怖でもなんでもないのだ。当たり前、とまでは言わない。でも怖くもない、面倒くさいだけのもの。
「カイダン話――、ああ、そういえば最近ひとつあったかも。でも、怖いとはちょっと違う気もする。へぇ、ってなったけど」
「それでいい! 聞かせて」
私は一人娘に剣舞を習わせている。そこで知り合った方が比較的ご近所(といっても駅二つ分挟んでいる。剣舞の練習場が遠方なのだ)だったことで、その方の自宅で詩吟も教えていただくことになった。
お稽古のある日は子どもを先生宅まで送り、私だけいったん帰路につく。週に一度、金曜日のルーティーンになってそろそろ三年ほどになる。二駅とはいえ、電車を乗り降りしての送り迎えは面倒くさい。だが住宅街のこの辺りには、ゆっくり時間を潰せる喫茶店もファーストフード店もないのだから仕方ない。それにこんな息をするのも苦しいような夏日では、ちょっとした買い物や散策なんてしていられない。
いつもの地下鉄駅の端にある入り口から、階段を下りて。正面入り口よりもこの入り口の方が先生宅から近いのだ。下りた先の改札口は同じだけど。
タイルの貼られた白い壁にある手摺りに、時々、何げなく触れながら下る。冷やりとした金属の感触が心地よい。上ってくる人とすれ違う。一人、二人。踊り場にある鏡をチラリと見た。ここまでくると冷房のきいた改札階の冷気が、重苦しく熱せられた外気の侵入をこれ以上は許すまじとばかりに強力なバリアを張ってくれているのが分かる。火照っていた皮膚の熱が引き、呼吸がずっと楽になる。
そこからさらに階段を下りて。
次の踊り場には鏡はない。くるりと回ってさらに下りる。
踊り場。
階段を下りる。
踊り場。
ここの階段はこんなに階層があっただろうか?
ぼーとしていたから、もしかすると駐輪場に続く入り口から下りてしまったのかもしれない。階段を下りながらそんなことを考えた。
まぁ、駐輪場に着いたら、そこから改札に回ればいいか。
足は何も思考せず、そのままとんとんと下っていく。
そのうち、ふと気がついた。
さっきから誰ともすれ違わない。
きゅっと胃が内側に引き込こまるような緊張を覚えた。
何回、踊り場を回っただろう?
そこで向きを変え、階段を戻っていった。誰も通らない階段を。
そのうちにようやく誰かが階段を下ってきた。
すれ違った時、ほっと安堵の息をついた。
階段の終わり。そこには空が切り取られて覗いている。
いったん外にでて、出入り口を確かめた。駐輪場入り口なんかではない。いつもと同じ②番。
首を傾げながら、もう一度階段を下りた。電車が着いたところなのか、大勢の人たちが上がってきていた。踊り場を回り、見下ろした階段の先に、踊り場はなかった。人々の行き交う、改札口に続く出入口がぽかりと開いていた。
小学生のころからの幼馴染から連絡が入り、仲の良かった三人が何年かぶりに集まった。子どもが生まれてからはそれぞれ忙しく、こんな風にのんびりと、とりとめのない話で時を過ごすのは久しぶりだった。
何がきっかけだったかは忘れてしまったが、これまでの人生で一番恐怖を感じた逸話を話そう、ということになった。けれど彼女らは私の話に、物足りないといちゃもんをつけた。
ちなみに私の人生最高の恐怖体験は、冬のノルウェー旅行で深く雪に埋もれた土手沿いを歩いていたときのことだ。足の下で水の流れる音をはっきりと聴いた瞬間に、それは襲ってきた。この足が歩いているのは地面ではない、という事実。いつ氷が割れるか判らない。どの程度の深さの川なのかも判らない。人は未知に恐怖するというけれど、まさにそれだった。
「分からないくはないけど……。もっと怖い話あるでしょ?」
「そうそう、怪談話! お化けがでてくるようなやつ」
この二人、真面目な顔をして、好奇心で瞳を輝かせているところは昔と変わらない。
そう、私は彼女らのいう怖い話には事欠かない。生まれついてのそういう体質だから。でも、そんな体験は私にとって別段恐怖でもなんでもないのだ。当たり前、とまでは言わない。でも怖くもない、面倒くさいだけのもの。
「カイダン話――、ああ、そういえば最近ひとつあったかも。でも、怖いとはちょっと違う気もする。へぇ、ってなったけど」
「それでいい! 聞かせて」
私は一人娘に剣舞を習わせている。そこで知り合った方が比較的ご近所(といっても駅二つ分挟んでいる。剣舞の練習場が遠方なのだ)だったことで、その方の自宅で詩吟も教えていただくことになった。
お稽古のある日は子どもを先生宅まで送り、私だけいったん帰路につく。週に一度、金曜日のルーティーンになってそろそろ三年ほどになる。二駅とはいえ、電車を乗り降りしての送り迎えは面倒くさい。だが住宅街のこの辺りには、ゆっくり時間を潰せる喫茶店もファーストフード店もないのだから仕方ない。それにこんな息をするのも苦しいような夏日では、ちょっとした買い物や散策なんてしていられない。
いつもの地下鉄駅の端にある入り口から、階段を下りて。正面入り口よりもこの入り口の方が先生宅から近いのだ。下りた先の改札口は同じだけど。
タイルの貼られた白い壁にある手摺りに、時々、何げなく触れながら下る。冷やりとした金属の感触が心地よい。上ってくる人とすれ違う。一人、二人。踊り場にある鏡をチラリと見た。ここまでくると冷房のきいた改札階の冷気が、重苦しく熱せられた外気の侵入をこれ以上は許すまじとばかりに強力なバリアを張ってくれているのが分かる。火照っていた皮膚の熱が引き、呼吸がずっと楽になる。
そこからさらに階段を下りて。
次の踊り場には鏡はない。くるりと回ってさらに下りる。
踊り場。
階段を下りる。
踊り場。
ここの階段はこんなに階層があっただろうか?
ぼーとしていたから、もしかすると駐輪場に続く入り口から下りてしまったのかもしれない。階段を下りながらそんなことを考えた。
まぁ、駐輪場に着いたら、そこから改札に回ればいいか。
足は何も思考せず、そのままとんとんと下っていく。
そのうち、ふと気がついた。
さっきから誰ともすれ違わない。
きゅっと胃が内側に引き込こまるような緊張を覚えた。
何回、踊り場を回っただろう?
そこで向きを変え、階段を戻っていった。誰も通らない階段を。
そのうちにようやく誰かが階段を下ってきた。
すれ違った時、ほっと安堵の息をついた。
階段の終わり。そこには空が切り取られて覗いている。
いったん外にでて、出入り口を確かめた。駐輪場入り口なんかではない。いつもと同じ②番。
首を傾げながら、もう一度階段を下りた。電車が着いたところなのか、大勢の人たちが上がってきていた。踊り場を回り、見下ろした階段の先に、踊り場はなかった。人々の行き交う、改札口に続く出入口がぽかりと開いていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
【R15】母と俺 介護未満
あおみなみ
現代文学
主人公の「俺」はフリーライターである。
大好きだった父親を中学生のときに失い、公務員として働き、女手一つで育ててくれた母に感謝する気持ちは、もちろんないわけではないが、良好な関係であると言い切るのは難しい、そんな間柄である。
3人兄弟の中間子。昔から母親やほかの兄弟にも軽んじられ、自己肯定感が低くなってしまった「俺」は、多少のことは右から左に受け流し、何とかやるべきことをやっていたが…。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
春愁
ひろり
現代文学
春休みを持て余している私は、偶然、路上で旅行中の由香里に出会う…というかナンパされた。
迷子になったと泣きつかれ彼女を助けたばかりに、まるで幼稚園児の休日のような退屈な時間を過ごすことに。
絵に描いたような純朴な田舎者の由香里に振り回された女子高生、私の春の出来事。
*表紙はPicrew「lococo」で作りました。
表紙背景はアイビスペイントの既存画像を使っています。
本文中のイラストはPicrew「街の女の子」で作成しました。
***
十数年前、突然思い立ち移動中の暇つぶしに、携帯でポチポチ打ったものを某サイトにアップ、その後放置、最近見つかりまして。。。
さらに1カ月以上放置の末、勇気を振り絞って読み返しましたが、携帯ポチポチ打ってイライラして読み直すこともなくアップした文章がひどい笑笑
こんなものをよく出せたなあ、いやよく読んでくれたなあとある意味感動です。当時、読んでいただいた方一人ひとりに感謝して回りたいくらい。
若干手直ししてアップしてみる羞恥プレイです。
【ショートショート】おやすみ
樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。
声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。
⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠
・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します)
・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。
その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。
いつかは さようなら~よかれと思うことをしてくれなくていい。嫌なことをしないで。
あおみなみ
現代文学
高校時代1年先輩だった、涼しげな容姿で物静かな「彼」こと相原幸助。
愛らしい容姿だが、利己的で共感性が薄い「私」こと天野真奈美は、周囲から孤立していたが、「彼」がいればそれでいいと思っていた。
8年の交際の後、「彼」と結婚した真奈美は、新婚初夜、耳を疑う言葉を聞く。
◇◇◇
この短編を下敷きにして書きました。そこそこ長編になる見込みです。
『ごきげんよう「あなたは一番見るべきものを ちゃんと見ていましたか?」』
https://www.alphapolis.co.jp/novel/566248773/193686799
ADHDとともに生きる
卍ェリーナジョリー
現代文学
ADHDを抱える主人公、健二が日常生活の中で直面する困難や葛藤を描いた感動の物語です。一般の会社で働く健二は、幼少期から周囲との違和感や孤独感に悩まされてきました。周りの人々が普通にこなしていることが、彼にとっては大きな壁となって立ちはだかります。
物語は、健二が職場でプレゼンを成功させるところから始まります。自信を持ち始めた彼ですが、同僚とのランチや会議の中で再び浮かび上がる不安。人との距離感や会話のリズムが掴めず、自分だけが取り残されているような感覚に苛まれます。果たして、彼はこの見えない壁を乗り越え、自分を受け入れ、周囲との関係を築いていくことができるのでしょうか?
本作は、ADHDの特性を持つ人々の心情に寄り添い、共感を呼び起こす内容となっています。時にはつらく、時には笑いを交えながら、健二の成長と友情を描くことで、読者に希望と勇気を届けます。自分を受け入れ、前に進む勇気を与えてくれるこの物語は、同じような悩みを抱えるすべての人に贈るメッセージです。
健二が歩む道のりを通して、あなたも自身の「見えない壁」を乗り越えるヒントを見つけることができるかもしれません。どうぞ、健二と共に彼の旅を体験してください。あなたもきっと、心が温まる瞬間に出会えることでしょう。
決戦の朝。
自由言論社
現代文学
こんな小説、だれも読んだことがないし書いたことがない。
これは便秘に苦しむひとりの中年男が朝の日課を果たすまでを克明に描いた魂の記録だ。
こんなの小説じゃない?
いや、これこそ小説だ。
名付けて脱糞小説。
刮目せよ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる