孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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階段

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 何を意識するでもなく、これまでと同じ行程を繰り返す日常では、習慣的な動作は、思考とは無関係に刻まれた記憶を機械的に繰り返し辿る。時に、大地を踏む自分の足が、いつもとは違う一点を踏んでしまったことに気づくこともなく――。


 小学生のころからの幼馴染から連絡が入り、仲の良かった三人が何年かぶりに集まった。子どもが生まれてからはそれぞれ忙しく、こんな風にのんびりと、とりとめのない話で時を過ごすのは久しぶりだった。

 何がきっかけだったかは忘れてしまったが、これまでの人生で一番恐怖を感じた逸話を話そう、ということになった。けれど彼女らは私の話に、物足りないといちゃもんをつけた。
 ちなみに私の人生最高の恐怖体験は、冬のノルウェー旅行で深く雪に埋もれた土手沿いを歩いていたときのことだ。足の下で水の流れる音をはっきりと聴いた瞬間に、それは襲ってきた。この足が歩いているのは地面ではない、という事実。いつ氷が割れるか判らない。どの程度の深さの川なのかも判らない。人は未知に恐怖するというけれど、まさにそれだった。

「分からないくはないけど……。もっと怖い話あるでしょ?」
「そうそう、怪談話! お化けがでてくるようなやつ」

 この二人、真面目な顔をして、好奇心で瞳を輝かせているところは昔と変わらない。
 そう、私は彼女らのいう怖い話には事欠かない。生まれついてのそういう体質だから。でも、そんな体験は私にとって別段恐怖でもなんでもないのだ。当たり前、とまでは言わない。でも怖くもない、面倒くさいだけのもの。

「カイダン話――、ああ、そういえば最近ひとつあったかも。でも、怖いとはちょっと違う気もする。へぇ、ってなったけど」
「それでいい! 聞かせて」




 私は一人娘に剣舞を習わせている。そこで知り合った方が比較的ご近所(といっても駅二つ分挟んでいる。剣舞の練習場が遠方なのだ)だったことで、その方の自宅で詩吟も教えていただくことになった。
 お稽古のある日は子どもを先生宅まで送り、私だけいったん帰路につく。週に一度、金曜日のルーティーンになってそろそろ三年ほどになる。二駅とはいえ、電車を乗り降りしての送り迎えは面倒くさい。だが住宅街のこの辺りには、ゆっくり時間を潰せる喫茶店もファーストフード店もないのだから仕方ない。それにこんな息をするのも苦しいような夏日では、ちょっとした買い物や散策なんてしていられない。

 いつもの地下鉄駅の端にある入り口から、階段を下りて。正面入り口よりもこの入り口の方が先生宅から近いのだ。下りた先の改札口は同じだけど。

 タイルの貼られた白い壁にある手摺りに、時々、何げなく触れながら下る。冷やりとした金属の感触が心地よい。上ってくる人とすれ違う。一人、二人。踊り場にある鏡をチラリと見た。ここまでくると冷房のきいた改札階の冷気が、重苦しく熱せられた外気の侵入をこれ以上は許すまじとばかりに強力なバリアを張ってくれているのが分かる。火照っていた皮膚の熱が引き、呼吸がずっと楽になる。

 そこからさらに階段を下りて。

 次の踊り場には鏡はない。くるりと回ってさらに下りる。
 踊り場。
 階段を下りる。
 踊り場。

 ここの階段はこんなに階層があっただろうか? 

 ぼーとしていたから、もしかすると駐輪場に続く入り口から下りてしまったのかもしれない。階段を下りながらそんなことを考えた。

 まぁ、駐輪場に着いたら、そこから改札に回ればいいか。

 足は何も思考せず、そのままとんとんと下っていく。

 そのうち、ふと気がついた。

 さっきから誰ともすれ違わない。

 きゅっと胃が内側に引き込こまるような緊張を覚えた。

 何回、踊り場を回っただろう?

 そこで向きを変え、階段を戻っていった。誰も通らない階段を。

 そのうちにようやく誰かが階段を下ってきた。
 すれ違った時、ほっと安堵の息をついた。
 階段の終わり。そこには空が切り取られて覗いている。

 いったん外にでて、出入り口を確かめた。駐輪場入り口なんかではない。いつもと同じ②番。

 首を傾げながら、もう一度階段を下りた。電車が着いたところなのか、大勢の人たちが上がってきていた。踊り場を回り、見下ろした階段の先に、踊り場はなかった。人々の行き交う、改札口に続く出入口がぽかりと開いていた。




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