孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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マインドマップ

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 気がつくと家族四人で、見渡す限り地平線の広がる荒涼とした大地に立っていた。
 お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、それに私も白い着物を着ていた。着物と言っても、ちっとも豪華なのじゃなくて、おばあちゃんの着る寝間着みたい。だって帯をしてないもの。

 ぐるりと辺りを見廻すと立て札が立っていた。時代劇で見るような三角屋根の家みたいな形の木の板に、墨で何か書いてある。

「契約書」
 声に出して読んでみる。

「変なの」
「何の契約が必要なのかな?」
「これが契約書かしら?」

 お母さんが立て札の下の籠を指差した。
 こんな籠、さっきまであったっけ?
 お兄ちゃんが丸まった紙を引き抜いて広げる。真っ先にその手許を覗き込む。

 絵だ。大きな赤黒い顔をした三つ目の怪物の絵。怪物の口の中に車輪みたいな枠があって、その中にもまたごちゃごちゃした絵が書いてある。

精神地図マインドマップだって」
「はぁ? 違うでしょ、マインドマップってあれでしょ、思考するためのツールで、」
「だってそう書いてある」

 お兄ちゃんが怪物の顔の上を指差した。確かに「精神地図」の字の上には、英語でそれらしく読めるルビっぽい文字がある。筆書きだけど。すごく違和感だけど。

「マップってことは、地図なんだろうな」
 お父さんが、籠から自分用に手に取った。次いでお母さんも。仕方なく、私も。

 気味の悪い地図。

「現在地は……」

 怪物の口の中の丁度真ん中の円。鶏と豚と蛇の絵が描いてある場所だ。ここから六つの道が放射状に広がっている。

 と、ぐらりと身体が傾いた。

「お父さん、これ!」

 地面がキラキラと光っている! 青や、緑に――!

 その地面――それとも鱗?――から振り落とされた私たちを、鎌首をもたげ、大きな赤い口から細い舌をチロチロと揺らした大蛇が、鋭い牙を剥いて見下ろしていた。

 お母さんの悲鳴がスターターピストルの合図になった。凍り付いたように固まっていた身体が痙攣し、走り出していた。逃げなくちゃ!

 ちらりと視界に入ったお母さんを襲っていたのは大蛇ではなく、鶏だった。バサバサとした羽音の中、白い羽が雪のように散っている。
 
 お兄ちゃんは、豚に追いかけられていた。なんだか滑稽だ。いつも威張りかえっていたくせに。

 私を追いかけているのが何なのか、怖くて振り返ることができなかった。だってお父さんの足には、たくさんの小さな蛇が絡まっていたもの。お母さんの頭を、鶏が突っついていたもの。お兄ちゃんの背中を、豚たちが何度も小突いていたもの。



 闇雲に走っているのが、細い細い白い道の上だと気がついて、身体が竦んだ。この半透明の道の遥か下方に、赤々と燃える灼熱の山が見えたから。肉の焦げる臭いが、その横にある赤い池の生臭い臭いと混じり合う。血の臭いだ。池にはたくさんの人がいた。ぎゅうぎゅうになって両手を伸ばして、溺れているみたいにばたつかせていた。

 慌てて目を逸らした。そろそろと、下を見ないようにして進んでいった。足下から立ち昇ってくる瘴気しょうきがチリチリと肌を焼いた。握り締めた拳が震え、冷や汗が頬を伝い落ちた。
 早くこの恐ろしい世界を抜け出したくて、足を速めた。視界に入れなくてもまといついてくる怨嗟の声に、両手でぎゅっと耳を塞ぐ。

 
 やがて肌を焦がす熱気が、すっと消えた。ほっとしてぶるりと震えた。違う、寒いんだ。恐る恐る足下を覗くと、ガリガリに痩せた、お腹だけが飛びでた裸の人と目が合った。その人は私に向かって両手を伸ばした。
 私はまた走りだした。腐ったような、据えた臭いに吐きそうだった。さっき以上に息苦しい。しんと静まり返った静寂が怖ろしい。

 

 気がつくと半透明の道から、また荒涼とした大地にでていた。初めにいた場所に戻ってきたみたいだ。
 ふと思い出して、袖の内側に入れていたあの地図を取り出し広げた。

 赤い鬼の口の中。六つの世界。
 地獄道。餓鬼道。畜生道。修羅道。人間道。天道。

 きっと、さっき通ったのは地獄道と餓鬼道。

「どうせなら、天道に行きたいな」

 綺麗な天使がいるに違いないもの。
 この円を下から右に回って進んだから変な道にでちゃったんだ。この逆にいけばいいんだ。地獄の反対隣が天国だもの。

「良かった。地図があって。もっとちゃんと見ておけばよかった」

 自分に言い聞かすように声に出して呟いた。お父さんやお母さん、お兄ちゃんも、そこで待っていてくれているような気がした。だって、皆、私よりもずっと賢いもの。ちゃんとこの地図を見ていたもの。

 またあの蛇や、鶏、豚に見つからないように辺りに気を配りながら歩き始めた。今度はちゃんと地図を見ながら。よく見ると、この地図の中には私らしき丸がある。ピンクの丸が、少しづつ移動しているんだ。これで大丈夫。迷わない。そう思ったのに、なぜだか左回りには行けなかった。何度試しても右回りに戻ってしまう。
 仕方がないので、円のギリギリ端っこに沿って右回りに歩くことにした。これなら迷わない、変な、怖い世界の道に踏み込むこともないはずだから。さっきは、地獄道と餓鬼道の道を駆けって、外周の道を回ってしまっていたんだ、てわかったから。

 畜生道の世界をそうっと目を眇めて見下ろした。畜生って動物だから、もう前の二つほど怖くないよね? 

 やっぱり、怖い。動物の世界だと思ったのに、そこにいるのはやっぱり人だった。怠惰な人の群れ。口をぽかんと開けて、食べものが降ってくるのを待っている虚ろな人たち。

 修羅道も、人間道もチラリとしか見なかった。
 私は天道に行くの。だから関係ない。


 天道は思った通りの綺麗な世界。色とりどりのお花の咲く光に満ちた世界。とてもいい匂いがしている。私は迷わずこの中に飛び降りた。

 言い得も知れない幸福感でいっぱいに満たされる。よかった。地図があって。迷わずにここに来れて。





 長い間、この幸せの中に揺蕩っていた。それなのに、何かを忘れてしまっている気がして。思い出そうとするにつれ、この幸せは色褪せていった。花が萎むように世界は萎んでいく。光は薄れ、芳香は自ら放つ悪臭に変わった。

 どうしてなのか。何を忘れてしまっているのか。わからないまま頭上の花の枯れていくさまを眺めていた。長い間。

 最後の花びらが落ちる時、その一片ひとひらに飛び乗った。ひらり、ひらりと風に乗り、闇の中に降りていく。





 目もくらむような明るい光に照らされて、私は産声を上げた。大きな手が私を包み込む。温かな肌の上に下ろされる。

 トクン、トクンと全身に伝わる鼓動。

 ――ああ、見つけた。私が忘れてしまっていたもの。


 そう告げようと、私は必死に口唇を動かしたけれど、「あう、あう」と微かな声が漏れるだけだった。




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