孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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この場所でまた

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 男は、坂道をゆるゆると上っていた。
 ときおり足を止め、ふり返っては背後に広がる茜色に染まる雲に見とれ、頬を照らす斜光にじりじりとした夏の残照を感じながら。
 緩やかな傾斜は、いつしか石造りの階段に継がれている。息を弾ませ、一段、一段を踏みしめ重い体を押しあげていく。



 ――この場所でまた。

 観光地である大寺院でも、裏手にあるこんな墓地へ日が暮れてから訪れる酔狂な観光客はいない。京都市街地が一望できるこの場所は意外な穴場なの、と教えてくれたのは彼女だった。ここは私の庭みたいなものだから、と弾けるように笑って。墓地が庭だなんてお化けみたいだね、と彼はおっかなそうに肩をすくめてみせた。
 吹き抜ける突風に彼女の切りそろえられた髪が翻る。柳のようにしなやかな腕が顔にかかる髪を抑える。折れそうに細い華奢な鎖骨が動く。きゅっと閉じられた長い睫毛が、しっとりと汗ばんでいた白い肌に影を作る――。派手な黄色のノースリーブのシャツの照り返しが眩しかったのか、彼は恥ずかしそうに瞼をパチパチと瞬かせていた。

 今にして思えば、彼女は細すぎ、白すぎて、夢のように儚かった。

 すべてが日中の熱射が生みだした陽炎のような、幻影だったのかもしれない。



 約束の日、彼女はこの場所に来なかった。

 確かに約束したはずなのに。他府県に進学して会うことがままならなくなっても、お盆のこの日には必ず帰ってくるのだから、来年もまたこの場所で逢おう、と。

 それなのに、まだ若かった彼は、紅い海原が薄闇にぼやける街並みを呑みこむ時をただ一人虚ろな想いで眺めるはめになったのだ。なぜ自分が今ここでこうしているのか確かめる術もないままに。そして紅に呑みこまれた。溺れてしまった苦しさから逃れたいばかりに、自ら確かめることを拒んで。

 彼は待ち人を忘れた。いや、忘れたというよりも、封印した。心の奥底に埋め、土をかけ踏み固めて、二度と表層に出てこないように――。

 単調に繰り替えされる日々の中に、自分自身をも埋没させたのだ。




 その記憶が再び掘り返されたのは、思いがけないきっかけだった。
 卒業から四半世紀、時を経て開けられたタイムカプセルがもたらしたのだ。校庭の片隅に埋められていた古い思い出の詰まったブリキの箱の中に、男への手紙が入っていた。彼は、まるで墓を暴くかのようなその場には出向かなかったのに。それは、自分自身が埋めた思い出とともに幹事をした同窓生から送りつけられてきた。

 古い写真と、自分宛の手紙。

 錆ついた心がキシキシと軋むなか、彼は震える手でその封を切った。


 ――守れない約束をごめんね。


 何を今さら。男は怒った。彼女は嘘の達人だったのだ。誰にもなにも悟らせないまま、この世を去った。彼女はやはり知っていたのだ。あの日、あの場所に自分が行くことはもはや不可能であったことを。

 男がその事実を知ったのは、もっとずっと後になってからのことだった。事実を知るまで、そして知ってからはそれ以上に、彼は自分をバラバラに崩してしまいそうな痛みに耐えなければならなかったというのに。

 それを、今さら、また――。

 小さく吐息を漏らし、男は丁寧に手紙を畳んで封筒に戻した。そしてそのまま脱力して、しばらく椅子の背にもたれていた。




 今、男はあの約束の場所へと、過去へと続く道を辿っている。
 そして階段をあがりきると、息を弾ませながらひんやりとした石段に腰をおろした。茜色が薄闇に呑みこまれ、地上に色とりどりの星々が輝きだすのを待っているのだ。ざわざわとした葉擦れの音や、いつの間にか響き始めた鈴虫の合唱に心を澄ませて――。


「逢いにきたよ。やっと約束を守れた。待たせてごめん」


 暗闇の中、男は誰にとはなしに呟いた。

 遠く広がる温かな小さな街の燈火を囲む黒々とした影の中に、鳥居が明るく浮かび上がる。そして大文字が。船形が。

 ――五山の送り火すべては見れないけれど。観光客なんて誰一人いない穴場なのよ。

 そう教えられた。この場所で。この焔をここから眺めていたのだ。二人で。


 だから、ここから私を見送って――。


 彼は、四半世紀を経て読み解けた彼女の想いを、そしてずっと胸底に留まり続けていた彼自身の苦い想いを、あの日と同じ明るく輝く赤い焔で焚きあげて、ようやく天に送ることができた。

 



 
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