孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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緑青の記憶

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 自社主催の彫刻コンクールで大賞を受賞したのは、「記憶」と題された三メートル四方にも及ぶブロンズ製の大作だった。

 緑青ろくしょうに覆われた地面から、幾つも幾つもの拳が突き上げられている。その拳もまた地面と同じように古色蒼然とした青緑色の錆に包まれて、「記憶」の年月を経た風化を物語る。

 とても新作とは思えない貫禄と、他の追従を許さない激しさに圧倒される。

 さらに身を乗りだしてひとつひとつの拳を眺めると、拳の内に何かが握られていることに気づく。それは鉛筆のような文具であったり、煌めくネックレスであったり。そこだけが時の流れから取り残されているような違和感と、艶やかな色彩を放つ。

 遠目に見た時、これは暴力的な怒りの表現だと思ったのに、クローズアップされたそれは、握り締めた思い出を手放すことのできない哀しみなのだと、はっと心に痛みが走る。

 ある意味、自分のような素人にも、とても分かりやすい作品だ。



 初めての試みとなる文化後援彫刻コンクールということで、芸術になんの造形もない自分のような男が広報担当になった。会社のホームページに記事を書かなければならない。正直なところ頭が痛い。自分はただの技術者にすぎないのだ。

 緑青は、いわゆる錆のようなものだが、金属の表面に発生すると皮膜となり、内部の腐食を防ぐ効果がある。
 金属の腐食を防ぐ薬品を作っている会社が、緑青という天然の錆による錆止めで覆われた作品を大賞に選ぶなどと、皮肉としか言いようがないではないか。さらに言えば、おそらくは天然ではなく意図的に緑青付けされたであろうこの作品に使われた薬品を、自社では取り扱っていないのだ。この作品と自社製品を結びつけた宣伝効果を煽る記事など、自分に書けるとは思えない。

 ため息が出る。
 それなのに、大賞はこの「記憶」以外には考えられない。それほどに抜きんでた魅力がこの作品にはあったのだ。


 自分のなけなしの知識や乏しい感性でどうこうしようとしても無駄に思え、とりあえず、この大賞受賞者のインタビュー記事を載せることにした。ブロンズ作家なら、もしかすると他の作品に自社の錆止めを使ってくれているかもしれない。たとえそうではなくても、そこは口裏を合わせてもらえるのではないだろうか。芸術家とスポンサーは持ちつ持たれつ、そういうものだと、上から言われた。






 訪れた彫刻家のアトリエは、都心からそう遠くない避暑地の山中にあった。
 夏だというのに街中とはまるで違う、涼しい風が木立を抜ける。隣接する別荘地からは若干離れた落ちついた湖の畔の、白く塗装されたログハウスが彼の住居兼アトリエだ。敷地内に入ると、巨大な丸だの、四角だのの幾何学的なオブジェがあちらこちらで迎えてくれたから、ここで間違いないだろう。

 今とずいぶん作風が違うのだな、と、ちらりと疑問が頭をよぎる。


 出迎えてくれた彫刻家は、想像以上に若い男だった。まだ三十代くらいか。あんな情念の籠った大作を生みだすような激しさは微塵も感じさせない、線の細い優男だ。

 アトリエに通され、お茶を淹れてくれている間に辺りを見まわした。採光を考慮した大きな窓はいかにも芸術家のアトリエらしい。小さな机の上には、何十本もの鉛筆が立てられ、描きかけのスケッチがイーゼルに載っている。だが肝心の彫刻がない。

 戻ってきた彼に尋ねると、「ああ、こっちですよ」と隣室のベッドルームに案内してくれた。




 中央のベッドにしどけなく横たわる女の裸像。

 生きた女があられもない姿でブロンズ化し、微睡んでいるようだ。その胸や、局所が……、擦られて塗料が落ち、ブロンズ本来の金属質な輝きが露出している。

 この像を愛撫している男の姿を想像し、思わず視線を伏せた。

 彫刻家はニヤニヤ笑いながら、そんな自分を見ているような気がした。




 アトリエに戻り、受賞作のテーマや、制作のよもやま話を訊いた。
 自分の感想を素直に告げると、彼はさもおかしそうに声を立てて笑った。

「あなた、ロマンチストですね! 嬉しいなぁ、そんなふうに受けとってもらえるなんて!」

 あれは墓なのだ、と作家は言った。
 もうずいぶん前に行方不明になってしまった自分の恋人の思い出を、ひとつ、ひとつ葬ったものなのだ、と。

「あんなふうに握り締めたままで?」

 腑に落ちなくて、訊ねた。

「葬っても僕のものですよ」

 彫刻家は無邪気に笑い、茶を啜る。





 あの横たわる女の像が頭から離れなくなった。

 あれは彼の、行方不明になったという恋人なのだろうか? 永遠に眠り続けるブロンズの女、等身大の。思い出をすべて葬ったら、あの像はどうするのだろう。やはり、巨大な手に握り込ませて葬るのだろうか?
 いや、そうではない。彼自身が毎夜握り締めるのだ。あのブロンズの女を。あのベッドで。それを葬るというのであれば、あの部屋自体が女の記憶の墓なのか――。



 ブロンズ像のモデルになった女は、もう生きてはいないのではないか。

 ふとそんな気がした。あの男が、一度握り締めたものを離すはずがない、と。




 彫刻コンクールの記事は、当たり障りのない事を書いてお茶を濁した。自社製品と関連がない、と上から怒られた。だから、取材のお礼だと自社の錆止めを持参して、もう一度あの男を訪問しようと思う。

 緑青に覆われることはないであろう、あの艶やかな肢体に、いかがですか、と。







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