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虹色の缶詰
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滑り込んできた地下鉄のドアがシュウッと開き、くたびれた無表情な人の群れが吐き出される。そして完全に空っぽになった車内に、ホームいっぱいの人々が吸い込まれていく。その中に僕たちも漏れることなく紛れ込んだ。陰気臭く俯いて、ぎゅうぎゅうに圧し潰されながら、しっかりと揃いの紙袋だけは胸元に抱えこんで。
幾人かの間を挟んで肩越しに互いの顔を確かめ、にっと笑い合った。
やっと、手に入れることができたのだ。
今一番旬な、噂の缶詰。本当に売られているのかさえ眉唾だった、伝説の人魚の缶詰!
どこに行っても売り切れだったのだ。裏通りの小汚い駄菓子屋で見つけた時には、これ、偽物じゃないの、と本気で疑った。
天秤はかりの一方に、重り代わりに載せられていたかっきり50g、容量200ccのブリキの缶詰には青いラベルがくるりと巻いてあり、中央に人魚のシルエットが印刷されていた。一缶500円也。
埃を被っていたその缶詰の在庫125個を、全部買った。総重量6250g。二袋に分けて紙袋に入れてもらい、僕とこいつで分けて持った。支払いはリッチなこいつの家族カード払い。持つべきものは金離れのいい友だちだ。こんな馬鹿馬鹿しい道楽でも、退屈な人生の気晴らしにはなるからね。
だって、買ったはいいけど、この缶詰、当たりが出るとは限らないんだ。僕の脳裏に浮かぶのは、全部外れてがっかりしているこいつの顔ばかりだ。僕はどんな顔をしてこいつを慰めてやろうかと、そんなことばかり考えている。無駄になった総額62500円は、まさに泡になって虚しく消えていく人魚姫のようじゃないか。楽しくって堪らない、高校生にもなってこんな馬鹿なお遊びに夢中になっているこいつが。おかしくて堪らない、いつまで経っても、そんなこいつにいいように使われている僕自身が――。
今までこいつが集めてきたコレクターズアイテムの数々が、走馬灯のように駆け巡る。足裏に感じる電車の振動で、脳の中の記憶も跳ねる。極彩色のシャボン玉のようだ。弾んではじける記憶の泡。
ガタンッ、と電車が大きく揺れた。腕の中の紙袋が傾いで、二つ、転がり落ちた。何度か停車する度に乗客は減っている。まばらになった足の間を缶詰はコロコロと転がっていく。
「すみません!」
「おい、何やってんだよ!」
僕は慌てて缶詰を追いかけた。シートに座っていた女の人が、足元にコツンと当たったそれを拾ってくれた。一つ、二つ。そして、僕も一つ拾った。
三つ? 落としたのは二つだと思ったのに。気のせいかな……。
「ほら、降りるぞ」
深く考える間もなく、あいつの後に続く。
壁一面コレクションケースに囲まれたこいつの部屋の真ん中に、一つ、一つ数えながら缶詰を並べて重ねた。青い缶詰のピラミッドだ。
126個。やはり一つ多い。レシート替わりにもらったボールペンで書かれたメモ用紙にも、125とあるのに。
僕は数の合わないことを、あいつには言わなかった。そして、部屋の隅に脱ぎ捨てた上着の下にこっそり一つ隠したのだ。
こいつは、そんな僕の動きを気にかける様子もない。早く開けたくて堪らないのだ。僕がこれを並べている間に取りにいった缶切りで、さっそく開けにかかっている。プルトップもついていない昔ながらの缶詰だ。キコキコと金属音をたて、くるくると缶を回している。金属を丸く切り取り終えると、そっと外し紙皿を当てて裏返す。
出てきたのは、透明な青いジェルでコーティングされた小さな海。小さな魚が泳いでいる。小さな気泡が炭酸水みたいにシュワシュワしている。200ccの細長い缶の形のまま、海はふるふると揺れている。
「ちぇ、ハズレだ」
揺れる海を、綺麗だな、と見とれていた僕とは違い、こいつは舌打ちするともう次の缶を手にしている。
二個目の海は、夕暮れ時だ。透明な茜色に染まっている。
三個目は、高波のつもりなのか海が盛りあがっている。それとも一回溶けて、変な形に固まったのかな。
「詐欺だぞ、こんなの! これじゃ、人魚の缶詰じゃないじゃないか」
ぶつぶつ呟いているこいつの独り言は聞こえないフリをした。
信じるお前が馬鹿なんだろ――。
それ以外に言葉なんてない。
「もお限界。お前、かわれよ」
ここまで辛抱強く缶をキコキコいわせていたこいつも、とうとう根をあげてバタンと後ろにひっくり返った。頭の上に伸ばした右手が赤くなっている。
たかが缶開けくらいで、力みすぎだって。
なんて、わざわざそんなこと、口に出したりしないけど。
「いいよ。手伝うから、かわりになんか食わして。それに喉が渇いた」
「おう、」と、こいつは跳ね起きた。
腹が減っているのも忘れるくらい夢中になっていたのか。珍しい。
で、何個開けた? まだ10個もいってないじゃないか。――こいつにしては頑張った方か。
並べた白い紙皿の上には、色とりどりのゼリーの海。室温が高すぎるのか、最初に開けた海は、ジェルが緩んでへしゃげてしまい、ますます海らしくなっている。たぷん、とぷんと皿から零れそうに波うっている。
「蓋を外した時のこの匂い、好きだな」
しばらくして、菓子の袋をいくつかと炭酸のボトルを持って戻ってきたこいつを見上げた。まだ3缶しか開けていない。思いのほか金属が硬くて、缶切りがスムーズに進まないのだ。指が真っ赤になるわけだ。
サボっていたんじゃないんだぞ、と愛想笑いを浮かべてみせた。
「まだ出ないか?」
ふわりと香っていた磯の香りが、勢いよく開けられたポテトチップスの脂っこい臭いにかき消される。
なんだか興醒めだ。要求したのは僕だけど。
「これで出るようなら、レアじゃないよ」
「1万分の1の確立だろうと、最初に引くやつだっているだろ?」
1万分の1が、たった125個で引き当てられるか、っての!
缶切りを脇に置き、プラスチックのカップに注がれたジンジャーエールを一気に煽った。プチプチした気泡が喉の奥で跳ねている。やたらと喉が渇いていた。
「もう一杯」
「食わねぇの?」
首を振って、目の前に置かれたポテチの袋は押し返した。
「文句の多いやつだな。腹減ってんだろ?」
それには答えず、僕は次の缶詰を手に取った。
やつがまた部屋を出て、戻ってくるまでに10個は開けた。レトルトカレーを温めるだけにしては、時間がかかりすぎだ。
何やってたんだ、こいつ。まぁ、いい。どうだっていい。いつものことだ。
僕はカレーを貪り食った。こいつん家のレトルトは、うちで買うような特売品なんかじゃない。ホテル仕様だとか、なんとかシェフ監修のお高いレトルトだ。といってもたいして味に違いがあるようにも思えない。だけど、米だけは確かに旨い。こんなものじゃ、今日一日の重労働には割りに合わない気もするが……。
こいつは食い終わると、スマホでゲームなんか始めている。すっかりこの缶詰には飽きてるんだ。で、結局、後の始末は僕がつけるってこと。僕はこいつと違って、始めたことは最後までやり遂げないと気が済まない。積み上げられた缶の山を減らし、全部開けなきゃ気になって仕方ない。
――そうやってこの部屋の壁一面のフィギュアを、取りだし、組みたて、飾ってきたんだ。ここは、僕のコレクションルーム。
そしてこいつは、遊びにくる連中に自慢するためだけに、このコレクションを飾っている。本当は、愛着も何も欠片もないくせに。
「当たった……」
信じられない面持ちで、手許の紙皿を凝視した。
「いる――」
紙皿の上の海がとぷんと揺れる。崩れ落ちる青い波間に、ピンクの髪が珊瑚の枝のように広がる。つき出された白い腕が水面を叩き、パシャッ、と白い飛沫を跳ねあげる。ぐいと上半身を覗かせ、水中に隠れる岩の上にその身をのせる。
あいつが息を呑んだ。
僕も息を殺して彼女を見つめた。とたんに目が合った。
彼女の赤い唇が横に薄く引かれ、蠱惑的に微笑んだ。
ぞわりと背筋に悪寒が走る。
手のひらにすっぽりとおさまりそうな小さな人魚。虹色の尻尾を覆う鱗が、電灯の灯りにキラキラと煌めいている。
「なんて綺麗なんだ」
跳ねるように面を上げた。
あいつはとっくに魅入られている。吸いつくように、この人魚を見つめている。
「おい、だめだよ、お前、」
やつは人魚にその手を伸ばした。
「だめだって!」
人魚はやつの中指を握る。美しい微笑を湛えて。
やつは消え、代わりに人魚が床の上に座っていた。
手のひらサイズになったあいつは、海の中。
泳げないのか、知らなかったよ。
掬いあげて、紙皿の上にのせてやった。
「だからだめだって言ったのに」
いつも教えてやってたのに。
ちゃんと説明書を読めよ、って。
それでも判らないことは、メーカーのサイトにいって調べろよ、って。
面倒くさいことは全部僕にさせてるから、こういうことになるんだよ。
僕は今まで開けた缶詰の海を、全部床にぶちまけた。人魚のために。
青、紫、茜色。星空を映す夜の海。七色が混じりあい、虹色の海は部屋いっぱいに広がっていく。
人魚はその中を気持ちよさそうに泳ぎ始めた。
上着を着て、隠していた126個目の缶詰を取り出した。やっぱりこれがシークレット缶だ。よく見ると他とは仕様が違う。密閉式じゃない、捩じって開ける蓋のついた保存用だ。たぶん、電車の中で拾ってもらった時、あの女の人がくれたんだ。あの虹色の爪をした人が。だってあの人、笑っていたもの。
蓋を開け、もう膝下まで来ているジェル状の海水をたっぷりと汲み入れた。それから、水面に落ちた木の葉のように不安定に揺れている紙皿を手に取った。もちろん、その上で不安気に僕を見ているあいつごと。さっきからずっとこいつは何か言っているのだけど、声にならないみたいだ。
「大丈夫。こんなところに置き去りにしたりしないよ。きみは僕の大切なコレクションだからね。大事にするよ。これまでと変わりなくね」
にっこりと微笑みかけてやり、紙皿を歪めてやつを缶の中へと滑り落として蓋をした。
完璧。これでこいつは、朝の日の光に晒されて、海の泡になって消えてしまうこともない。
「それじゃ、そろそろ帰るよ」
僕はドアを開け、ピンクの髪の人魚に軽く手を振った。
彼女は虹色の爪をひらひらと振り返してくれた。
足下には透き通るジェル状の波が寄せては返し、僕との別れを惜しんでくれているようだった。
幾人かの間を挟んで肩越しに互いの顔を確かめ、にっと笑い合った。
やっと、手に入れることができたのだ。
今一番旬な、噂の缶詰。本当に売られているのかさえ眉唾だった、伝説の人魚の缶詰!
どこに行っても売り切れだったのだ。裏通りの小汚い駄菓子屋で見つけた時には、これ、偽物じゃないの、と本気で疑った。
天秤はかりの一方に、重り代わりに載せられていたかっきり50g、容量200ccのブリキの缶詰には青いラベルがくるりと巻いてあり、中央に人魚のシルエットが印刷されていた。一缶500円也。
埃を被っていたその缶詰の在庫125個を、全部買った。総重量6250g。二袋に分けて紙袋に入れてもらい、僕とこいつで分けて持った。支払いはリッチなこいつの家族カード払い。持つべきものは金離れのいい友だちだ。こんな馬鹿馬鹿しい道楽でも、退屈な人生の気晴らしにはなるからね。
だって、買ったはいいけど、この缶詰、当たりが出るとは限らないんだ。僕の脳裏に浮かぶのは、全部外れてがっかりしているこいつの顔ばかりだ。僕はどんな顔をしてこいつを慰めてやろうかと、そんなことばかり考えている。無駄になった総額62500円は、まさに泡になって虚しく消えていく人魚姫のようじゃないか。楽しくって堪らない、高校生にもなってこんな馬鹿なお遊びに夢中になっているこいつが。おかしくて堪らない、いつまで経っても、そんなこいつにいいように使われている僕自身が――。
今までこいつが集めてきたコレクターズアイテムの数々が、走馬灯のように駆け巡る。足裏に感じる電車の振動で、脳の中の記憶も跳ねる。極彩色のシャボン玉のようだ。弾んではじける記憶の泡。
ガタンッ、と電車が大きく揺れた。腕の中の紙袋が傾いで、二つ、転がり落ちた。何度か停車する度に乗客は減っている。まばらになった足の間を缶詰はコロコロと転がっていく。
「すみません!」
「おい、何やってんだよ!」
僕は慌てて缶詰を追いかけた。シートに座っていた女の人が、足元にコツンと当たったそれを拾ってくれた。一つ、二つ。そして、僕も一つ拾った。
三つ? 落としたのは二つだと思ったのに。気のせいかな……。
「ほら、降りるぞ」
深く考える間もなく、あいつの後に続く。
壁一面コレクションケースに囲まれたこいつの部屋の真ん中に、一つ、一つ数えながら缶詰を並べて重ねた。青い缶詰のピラミッドだ。
126個。やはり一つ多い。レシート替わりにもらったボールペンで書かれたメモ用紙にも、125とあるのに。
僕は数の合わないことを、あいつには言わなかった。そして、部屋の隅に脱ぎ捨てた上着の下にこっそり一つ隠したのだ。
こいつは、そんな僕の動きを気にかける様子もない。早く開けたくて堪らないのだ。僕がこれを並べている間に取りにいった缶切りで、さっそく開けにかかっている。プルトップもついていない昔ながらの缶詰だ。キコキコと金属音をたて、くるくると缶を回している。金属を丸く切り取り終えると、そっと外し紙皿を当てて裏返す。
出てきたのは、透明な青いジェルでコーティングされた小さな海。小さな魚が泳いでいる。小さな気泡が炭酸水みたいにシュワシュワしている。200ccの細長い缶の形のまま、海はふるふると揺れている。
「ちぇ、ハズレだ」
揺れる海を、綺麗だな、と見とれていた僕とは違い、こいつは舌打ちするともう次の缶を手にしている。
二個目の海は、夕暮れ時だ。透明な茜色に染まっている。
三個目は、高波のつもりなのか海が盛りあがっている。それとも一回溶けて、変な形に固まったのかな。
「詐欺だぞ、こんなの! これじゃ、人魚の缶詰じゃないじゃないか」
ぶつぶつ呟いているこいつの独り言は聞こえないフリをした。
信じるお前が馬鹿なんだろ――。
それ以外に言葉なんてない。
「もお限界。お前、かわれよ」
ここまで辛抱強く缶をキコキコいわせていたこいつも、とうとう根をあげてバタンと後ろにひっくり返った。頭の上に伸ばした右手が赤くなっている。
たかが缶開けくらいで、力みすぎだって。
なんて、わざわざそんなこと、口に出したりしないけど。
「いいよ。手伝うから、かわりになんか食わして。それに喉が渇いた」
「おう、」と、こいつは跳ね起きた。
腹が減っているのも忘れるくらい夢中になっていたのか。珍しい。
で、何個開けた? まだ10個もいってないじゃないか。――こいつにしては頑張った方か。
並べた白い紙皿の上には、色とりどりのゼリーの海。室温が高すぎるのか、最初に開けた海は、ジェルが緩んでへしゃげてしまい、ますます海らしくなっている。たぷん、とぷんと皿から零れそうに波うっている。
「蓋を外した時のこの匂い、好きだな」
しばらくして、菓子の袋をいくつかと炭酸のボトルを持って戻ってきたこいつを見上げた。まだ3缶しか開けていない。思いのほか金属が硬くて、缶切りがスムーズに進まないのだ。指が真っ赤になるわけだ。
サボっていたんじゃないんだぞ、と愛想笑いを浮かべてみせた。
「まだ出ないか?」
ふわりと香っていた磯の香りが、勢いよく開けられたポテトチップスの脂っこい臭いにかき消される。
なんだか興醒めだ。要求したのは僕だけど。
「これで出るようなら、レアじゃないよ」
「1万分の1の確立だろうと、最初に引くやつだっているだろ?」
1万分の1が、たった125個で引き当てられるか、っての!
缶切りを脇に置き、プラスチックのカップに注がれたジンジャーエールを一気に煽った。プチプチした気泡が喉の奥で跳ねている。やたらと喉が渇いていた。
「もう一杯」
「食わねぇの?」
首を振って、目の前に置かれたポテチの袋は押し返した。
「文句の多いやつだな。腹減ってんだろ?」
それには答えず、僕は次の缶詰を手に取った。
やつがまた部屋を出て、戻ってくるまでに10個は開けた。レトルトカレーを温めるだけにしては、時間がかかりすぎだ。
何やってたんだ、こいつ。まぁ、いい。どうだっていい。いつものことだ。
僕はカレーを貪り食った。こいつん家のレトルトは、うちで買うような特売品なんかじゃない。ホテル仕様だとか、なんとかシェフ監修のお高いレトルトだ。といってもたいして味に違いがあるようにも思えない。だけど、米だけは確かに旨い。こんなものじゃ、今日一日の重労働には割りに合わない気もするが……。
こいつは食い終わると、スマホでゲームなんか始めている。すっかりこの缶詰には飽きてるんだ。で、結局、後の始末は僕がつけるってこと。僕はこいつと違って、始めたことは最後までやり遂げないと気が済まない。積み上げられた缶の山を減らし、全部開けなきゃ気になって仕方ない。
――そうやってこの部屋の壁一面のフィギュアを、取りだし、組みたて、飾ってきたんだ。ここは、僕のコレクションルーム。
そしてこいつは、遊びにくる連中に自慢するためだけに、このコレクションを飾っている。本当は、愛着も何も欠片もないくせに。
「当たった……」
信じられない面持ちで、手許の紙皿を凝視した。
「いる――」
紙皿の上の海がとぷんと揺れる。崩れ落ちる青い波間に、ピンクの髪が珊瑚の枝のように広がる。つき出された白い腕が水面を叩き、パシャッ、と白い飛沫を跳ねあげる。ぐいと上半身を覗かせ、水中に隠れる岩の上にその身をのせる。
あいつが息を呑んだ。
僕も息を殺して彼女を見つめた。とたんに目が合った。
彼女の赤い唇が横に薄く引かれ、蠱惑的に微笑んだ。
ぞわりと背筋に悪寒が走る。
手のひらにすっぽりとおさまりそうな小さな人魚。虹色の尻尾を覆う鱗が、電灯の灯りにキラキラと煌めいている。
「なんて綺麗なんだ」
跳ねるように面を上げた。
あいつはとっくに魅入られている。吸いつくように、この人魚を見つめている。
「おい、だめだよ、お前、」
やつは人魚にその手を伸ばした。
「だめだって!」
人魚はやつの中指を握る。美しい微笑を湛えて。
やつは消え、代わりに人魚が床の上に座っていた。
手のひらサイズになったあいつは、海の中。
泳げないのか、知らなかったよ。
掬いあげて、紙皿の上にのせてやった。
「だからだめだって言ったのに」
いつも教えてやってたのに。
ちゃんと説明書を読めよ、って。
それでも判らないことは、メーカーのサイトにいって調べろよ、って。
面倒くさいことは全部僕にさせてるから、こういうことになるんだよ。
僕は今まで開けた缶詰の海を、全部床にぶちまけた。人魚のために。
青、紫、茜色。星空を映す夜の海。七色が混じりあい、虹色の海は部屋いっぱいに広がっていく。
人魚はその中を気持ちよさそうに泳ぎ始めた。
上着を着て、隠していた126個目の缶詰を取り出した。やっぱりこれがシークレット缶だ。よく見ると他とは仕様が違う。密閉式じゃない、捩じって開ける蓋のついた保存用だ。たぶん、電車の中で拾ってもらった時、あの女の人がくれたんだ。あの虹色の爪をした人が。だってあの人、笑っていたもの。
蓋を開け、もう膝下まで来ているジェル状の海水をたっぷりと汲み入れた。それから、水面に落ちた木の葉のように不安定に揺れている紙皿を手に取った。もちろん、その上で不安気に僕を見ているあいつごと。さっきからずっとこいつは何か言っているのだけど、声にならないみたいだ。
「大丈夫。こんなところに置き去りにしたりしないよ。きみは僕の大切なコレクションだからね。大事にするよ。これまでと変わりなくね」
にっこりと微笑みかけてやり、紙皿を歪めてやつを缶の中へと滑り落として蓋をした。
完璧。これでこいつは、朝の日の光に晒されて、海の泡になって消えてしまうこともない。
「それじゃ、そろそろ帰るよ」
僕はドアを開け、ピンクの髪の人魚に軽く手を振った。
彼女は虹色の爪をひらひらと振り返してくれた。
足下には透き通るジェル状の波が寄せては返し、僕との別れを惜しんでくれているようだった。
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