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第五章
風 7
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「それって、彼のあの目くらましの魔術が、僕に関係するって意味? 奴の目的のためには、僕が必要?」
コウを強く腕に抱いて、耳許で囁くように訊ねた。怯えているのは、こうして僕にしがみつくコウではない。僕の方だ。
この目的も判らない馬鹿げた狂乱のせいで、おそらく僕だけではなく誰もが地面を――、自らの立つ足下をおぼつかなく感じているのではないだろうか。艶やかに磨かれた寄木細工の床は、喧騒から離れたこんな端の廊下でさえすでに金色の蔦に覆われているのだから。
――今日の会場がこの場所なのも、今、僕たちがここにいるのも、ここに集まっている人たちも、ちゃんと意味があるんだ。
コウの言う真意が読めなくて、彼を戒め抱えた腕を解けないでいた。
「僕を渡したくない――て、いったい誰に?」
この場には、地の精霊に扮した僕、大仰な火の精霊の人形そのものの赤毛、そしてその赤毛に結びつけられているにもかかわらず、風の精霊の衣装に身を包むコウがいる。けれど、残る水の精霊を欠いている。自然界の安定は三角の内にある。本来四大精霊として拮抗する力関係にある彼らが、その内から一人を弾きだしたがるのは、関係性の不安定さからではないのだろうか。
そしてそれは僕のなかで、赤毛は、火と、彼に従属する風の二大精霊だけでは作れない場に僕を加えることで三角形を形成するつもりなのではないか、という推察に繋がっていたのだ。正しくは僕自身というより、地の精霊の器、依代としての僕だ。
「そんなの、決まってるじゃないか。――あのワトソン博士と一緒にいるときのきみは、他の誰とも違う。彼はきみを誰よりも大切に想っていて、きみも、誰よりも信頼して、愛してる人なんだろ?」
コウは僕を見あげ、抗議するように瞳に力を込めて睨んでいた。
バニー? この状況下でコウが気にしているのがバニーだという事実があまりにも意外すぎて、つい呆けてしまった。どう答えるべきか、返事に迷う。
「うん、否定はしない。僕は大切なきみの心のケアを彼に託せるほど、彼のことを信頼してるし、尊敬してる。それは、愛してる、と言い換えられるかもしれない。でも、きみへの想いとはまるで違う」
「僕には違いなんて判らないよ」
「僕を掻き乱すのはきみだけなんだ。赤毛がここにいるだけで僕が平静でいられなくなるのも、彼がきみに繋がっているからだ。きみだけが、僕の内側にある現実なんだよ」
「そんな難しいことを言われても解らない」
「きみだけが、僕はここにいるって感じさせてくれる」
愛しているから。僕を映すきみの愛に満ちた眼差しのなかに、いつだって僕は、きみを想う僕を見いだすことができるからだ。
「僕を見て。僕のなかにいるきみが見えるだろ」
自身の感情を持て余し、困惑を湛えたコウの瞳がおずおずと僕を見つめる。僕のなかに溶け込み、確かめるように僕の胸に頬をつけて縋りつく。今の僕は、そんな彼を抱きしめることしかできない。
僕に生を教えてくれたバニーと、生を実感させてくれたきみを同列におくことはできない。バニーの存在がきみを不安にさせるにしても、彼を僕の生から切り離すことはできないのだ。
「コウは、僕が赤毛を憎むように、バニーが憎い?」
「憎むなんて――」
コウは辛そうに眉をよせて、大きく首を振った。善良なコウが、独占欲や嫉妬のような僕を困らせる感情を自分のものとして認め、許せるはずがない。僕がもっとバニーから距離を取り、コウを安心させてあげればいいのだということくらい解っている。だけど今、彼を本当に必要としているのは僕ではなくコウなのだ。こんなことでコウがバニーへの信頼を持てず、問題を先送りするとなると――。
ため息を呑み込み、コウを抱きしめたまま天井を仰いだ。だがその時、煌々としたシャンデリアの灯りを反射する光沢を帯びた天井が、凄まじい爆風に吹き飛ばされた。
もちろん、これも錯覚だ。
まんまと騙された五感の捉える偽りの映像にすぎない。
天井も壁も消え去り、僕たちは空に浮いていた。まるで宇宙空間にでも放りだされたようだ。黄昏の赤に染まっていた時空間は移り、深い藍色の闇に閉ざされた禍々しさ極まる禍時を、僕たちに現わしたのだ。
だが、これまで以上のどよめきと歓声が、この果てのない空間に方向感もなく反響していた。僕とコウだけしか実体と認識できないのにもかかわらず、ここにいるはずの姿の見えない誰もが、これは幻覚だと理解している証拠だ。そして彼らは、このまやかしを楽しんでもいるのだろう。
おい、赤毛、日々、幻聴・幻覚と向き合っている精神医学研究所員をなめるんじゃないよ。たとえ自分の目で見、感覚的に体験しようと、それを魔術で説明するようなふぬけた脳の持ち主は、ここにはいない。
そう内心で赤毛に悪態をついていると、それまで見えなかったこの場にいるはずの連中が、ぽっ、ぽっと焔が燈るような朧な輝きを放ちながらそこかしこに浮かびあがってきた。まるで、彼ら自身が星になったかのように空に灯りが燈っていく。思った通り、彼らの表情には驚きはあっても恐怖はない。並々ならぬ好奇心の方が勝っているのだろう。
そんな彼らの照らすはるか足下に、闇に沈むなだらかな平野が広がって見えた。そして川。テムズ川だろうか。初めは蛇行する蛇のような流れに見えていたそれは、闇から分かれて背に翼を広げた赤い龍となっていった。ゆっくりと、大地を離れて空に向かって泳ぎだす。
風に乗り、波打ちながら赤い龍が空を泳ぐ。
僕たちの見守るなか、それはいつしか青く光る球体を囲いこんでいた。くるくるとその球の周囲を何度も周回している。あまりの速さで巡るものだから、輪郭を溶かしてとろりと広がる。蜜が流れ滴るように金赤色の膜を張り、この球を包んでいった。
――僕たちの地球を。
「夜明けだ――」
コウが僕の手を握りしめて、呟いていた。
コウを強く腕に抱いて、耳許で囁くように訊ねた。怯えているのは、こうして僕にしがみつくコウではない。僕の方だ。
この目的も判らない馬鹿げた狂乱のせいで、おそらく僕だけではなく誰もが地面を――、自らの立つ足下をおぼつかなく感じているのではないだろうか。艶やかに磨かれた寄木細工の床は、喧騒から離れたこんな端の廊下でさえすでに金色の蔦に覆われているのだから。
――今日の会場がこの場所なのも、今、僕たちがここにいるのも、ここに集まっている人たちも、ちゃんと意味があるんだ。
コウの言う真意が読めなくて、彼を戒め抱えた腕を解けないでいた。
「僕を渡したくない――て、いったい誰に?」
この場には、地の精霊に扮した僕、大仰な火の精霊の人形そのものの赤毛、そしてその赤毛に結びつけられているにもかかわらず、風の精霊の衣装に身を包むコウがいる。けれど、残る水の精霊を欠いている。自然界の安定は三角の内にある。本来四大精霊として拮抗する力関係にある彼らが、その内から一人を弾きだしたがるのは、関係性の不安定さからではないのだろうか。
そしてそれは僕のなかで、赤毛は、火と、彼に従属する風の二大精霊だけでは作れない場に僕を加えることで三角形を形成するつもりなのではないか、という推察に繋がっていたのだ。正しくは僕自身というより、地の精霊の器、依代としての僕だ。
「そんなの、決まってるじゃないか。――あのワトソン博士と一緒にいるときのきみは、他の誰とも違う。彼はきみを誰よりも大切に想っていて、きみも、誰よりも信頼して、愛してる人なんだろ?」
コウは僕を見あげ、抗議するように瞳に力を込めて睨んでいた。
バニー? この状況下でコウが気にしているのがバニーだという事実があまりにも意外すぎて、つい呆けてしまった。どう答えるべきか、返事に迷う。
「うん、否定はしない。僕は大切なきみの心のケアを彼に託せるほど、彼のことを信頼してるし、尊敬してる。それは、愛してる、と言い換えられるかもしれない。でも、きみへの想いとはまるで違う」
「僕には違いなんて判らないよ」
「僕を掻き乱すのはきみだけなんだ。赤毛がここにいるだけで僕が平静でいられなくなるのも、彼がきみに繋がっているからだ。きみだけが、僕の内側にある現実なんだよ」
「そんな難しいことを言われても解らない」
「きみだけが、僕はここにいるって感じさせてくれる」
愛しているから。僕を映すきみの愛に満ちた眼差しのなかに、いつだって僕は、きみを想う僕を見いだすことができるからだ。
「僕を見て。僕のなかにいるきみが見えるだろ」
自身の感情を持て余し、困惑を湛えたコウの瞳がおずおずと僕を見つめる。僕のなかに溶け込み、確かめるように僕の胸に頬をつけて縋りつく。今の僕は、そんな彼を抱きしめることしかできない。
僕に生を教えてくれたバニーと、生を実感させてくれたきみを同列におくことはできない。バニーの存在がきみを不安にさせるにしても、彼を僕の生から切り離すことはできないのだ。
「コウは、僕が赤毛を憎むように、バニーが憎い?」
「憎むなんて――」
コウは辛そうに眉をよせて、大きく首を振った。善良なコウが、独占欲や嫉妬のような僕を困らせる感情を自分のものとして認め、許せるはずがない。僕がもっとバニーから距離を取り、コウを安心させてあげればいいのだということくらい解っている。だけど今、彼を本当に必要としているのは僕ではなくコウなのだ。こんなことでコウがバニーへの信頼を持てず、問題を先送りするとなると――。
ため息を呑み込み、コウを抱きしめたまま天井を仰いだ。だがその時、煌々としたシャンデリアの灯りを反射する光沢を帯びた天井が、凄まじい爆風に吹き飛ばされた。
もちろん、これも錯覚だ。
まんまと騙された五感の捉える偽りの映像にすぎない。
天井も壁も消え去り、僕たちは空に浮いていた。まるで宇宙空間にでも放りだされたようだ。黄昏の赤に染まっていた時空間は移り、深い藍色の闇に閉ざされた禍々しさ極まる禍時を、僕たちに現わしたのだ。
だが、これまで以上のどよめきと歓声が、この果てのない空間に方向感もなく反響していた。僕とコウだけしか実体と認識できないのにもかかわらず、ここにいるはずの姿の見えない誰もが、これは幻覚だと理解している証拠だ。そして彼らは、このまやかしを楽しんでもいるのだろう。
おい、赤毛、日々、幻聴・幻覚と向き合っている精神医学研究所員をなめるんじゃないよ。たとえ自分の目で見、感覚的に体験しようと、それを魔術で説明するようなふぬけた脳の持ち主は、ここにはいない。
そう内心で赤毛に悪態をついていると、それまで見えなかったこの場にいるはずの連中が、ぽっ、ぽっと焔が燈るような朧な輝きを放ちながらそこかしこに浮かびあがってきた。まるで、彼ら自身が星になったかのように空に灯りが燈っていく。思った通り、彼らの表情には驚きはあっても恐怖はない。並々ならぬ好奇心の方が勝っているのだろう。
そんな彼らの照らすはるか足下に、闇に沈むなだらかな平野が広がって見えた。そして川。テムズ川だろうか。初めは蛇行する蛇のような流れに見えていたそれは、闇から分かれて背に翼を広げた赤い龍となっていった。ゆっくりと、大地を離れて空に向かって泳ぎだす。
風に乗り、波打ちながら赤い龍が空を泳ぐ。
僕たちの見守るなか、それはいつしか青く光る球体を囲いこんでいた。くるくるとその球の周囲を何度も周回している。あまりの速さで巡るものだから、輪郭を溶かしてとろりと広がる。蜜が流れ滴るように金赤色の膜を張り、この球を包んでいった。
――僕たちの地球を。
「夜明けだ――」
コウが僕の手を握りしめて、呟いていた。
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