夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第五章

風 4

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 コウの甘やかな眼差しが、僕のうえで留まる。指の先で僕の仮面に触れる。僕はようやく、この被り物で表情が見えないことが彼を不安にさせていると気づき、これを外した。

「アル」

 コウはいつの間に、こんなふうに僕を見つめておねだりすることを覚えたのだろう。かわいくて、どんな願いだって叶えてあげたくなる。

「コウ、お願いって?」
「屋根裏部屋のこと。きみがいなくて、僕とショーンだけじゃ、マリーも女の子ひとり気まずいんじゃないかと思うんだ。それで、」
「え、そんなことないわよ! べつに今のままで、」
「そうだろ! コウ、今さらだろ!」

 マリーもショーンも寝耳に水なのか、口を揃えてコウを遮る。僕にしても、「屋根裏部屋」の一言で、一気に気分が盛り下がった。一瞬、赤毛をあそこへ住まわせたいと言いだすのかと思ったけれど、マリーを気遣っているならそれはないだろう。まさかコウが女性に絞って募集をかける、なんて言いだすとは想像だにしていなかったので、何て応えるべきか困惑する。つい、バニーに視線を走らせた。僕はどうするべきなのか、彼の表情を窺った。もちろん、彼が答えてくれるはずがない。こんな僕の内心の動揺をくすりと笑って見ているだけだ。

「マリーもショーンも、これ以上同居人は増えない方がいい? でもマリー、きみは本当はミラと暮らしたかったんだろ?」
「いつの話をしてるのよ! 今はそんなこと欠片も思っちゃいないわ!」
 
 いつもの彼女よりも幾分抑えたトーンで、マリーはちらとバニーの様子をうかがいながら言い返している。

「なにも彼女を、って言いたいわけじゃないんだ。僕の、親戚がこっちに来ることになって……。女の子と暮らすなんて、どうしていいかわからなくてさ。僕がドラコの家へ引っ越してそこで暮らしても、そりゃ、いいんだけど――」

 コウはまた、僕の反応を伺うように上目づかいに僕を見る。どうやらコウが一番欲しいのは僕の受諾だ。でもこれはお願いではなく、強迫だ。僕が頷かなければ、コウは僕たちの家を出ていく。そう言っているのだから。

「親戚?」
「女の子? どんな子なんだ? いくつだって?」

 拍子抜けたようなマリーとショーン。心はもう受け入れ態勢に傾いているようだ。ショーンはコウによく似たかわいらしい少女でも想像しているのだろう。マリーにしても。けれど僕には嫌な予感しかない。「こっちに来ることになった女の子」なんて、脳裏に浮かんだのはあの顔しかない。


「歓談中申しわけないが、アル、ちょっといいかな」

 バニーがひどく真剣な顔をして立ちあがった。「あとで詳しく聴くから」と言い残し、僕も席を外す。フロアに面したフランス窓を睨みつけるようにバニーは見つめている。そんな彼をいぶかしく感じ「どうしたの?」と小声で尋ねた。

「フロアの様子がおかしい」

 バニーは真っすぐに開かれた出入口へ向かっている。僕は横に列なる窓越しにフロアを眺めた。ここに来た時、この階にはそんなに多くの人がいたわけではなかった。だからこの違和にすぐにはピンとこなかったのだ。ガラス越しに、さきほどまでとは比べ物にならないほど人がいる。だがフロアは空っぽだ。その場の連中すべてが、階下を見おろす手すりに鈴なりになっているのだ。

 息を殺しているかのような静寂に包まれたフロアに、木製の床を踏む僕たちの足音こそが、大きな違和をしこんでいるようで。

 窓と同じアーチ形の連なりの一端にわずかな空きを見つけ、吹き抜けの大広間を見やる。横でバニーがくっと笑った。

「なんとも派手なご登場だな」
「会ったことあるんだっけ?」
「一度ね。きみを家まで送っていったときに」

 
 僕たちの視線の先にいるのは、案の定、奴だった。上も、下も、ここにいる連中のすべてが奴に見入っていた。いつかの不快な記憶が蘇ってくる。けれどあのときと違うのは、奴はフロアにいるのではなく僕と同じ目線上にいるということだ。

 天井からぶら下がる、白い日傘を広げて逆さまにしたようなペンダントライトに、赤毛は腰かけているのだ。赤い綿毛のような煙を周囲に漂わせ、波間を揺蕩う小船を操るように、奴はゆらゆらとライトを揺らしている。アーノルドの作った人形が着ていたのと同じ、深紅のインバネスコートの腕を指先まで伸ばし、金粉をまき散らしながら。
 奴の手から離れた金粉が、瞬く間に小さな鳥に変わる。ナイチンゲールのような軽やかで愛らしい囀りが大広間に満ち満ちていく。大口を開けて奴を眺めている階下からも、僕たちのいるこのフロアからも、感嘆のどよめきと拍手があがった。

「これが噂に聞く彼の魔術マジック? なるほど見事なものだね」

 バニーは奴から目を離さないままで呟き、拍手している。

 奴の背後に列なる窓はすでに闇色に包まれ、室内のウォールライトは暖色の光を灯していた。だが、そのせいだとは思えないほど、この空間は赤く、赤く染まっている。

「こんなものじゃ終わらないよ」

 僕は考えるよりも先に呟いていた。エリックの店での騒動の記憶が、ざわざわと胸を掻き乱していたのだ。こんなものじゃない。奴の本領は焔なのだ。

 赤い中空を飛び交っていた金色の小鳥が、アーチ状にフロアを仕切る柱の前に置かれた大きな観葉植物に次々と降り立っていく。小鳥は金の蕾に変わり、次々とほころんで金色の花を咲かせている。植物の緑の枝葉は瞬く間に金の蔦に絡みつかれ、蔦は柱をつたい、天井へと伸びていき――。絡まり合いながらこの会場を包みこんだ。僕たちは、金の繭玉に囚われているようで。――息苦しくてたまらない。

「いつもいつもこれだ。奴は何がしたいんだ?」
「遊ぶことに意味を求めるのかい?」

 バニーは目を細めて笑っている。

 遊び――。

 中空で振り子のように揺れている赤毛に視線を戻した。と、奴も僕を見た。唇の一方だけを憎々し気に吊り上げて。

 こんな奴を、僕が受容できるはずがない。

 そう実感したのと同時に、パンッ、と風船が割れるような音がした。それは、アーチ窓すべてのガラスが砕け散った音だった。




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