夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第五章

仮面 4.

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「コウの話をして」

 もう開けていられないほど重くなっていた瞼はそのままで、何度も同じことを呟いていたような気がする。
 久しぶりに自分の部屋へ戻ってきてベッドに転がったとたん、ようやく疲労を自覚して猛烈な睡魔に襲われていたのだ。
 けれど、コウの話が聴きたい。下では結局僕の話ばかりしてしまって、この1週間のコウの様子をまだ聴かずじまいだ。
 コウは、「入学式はまだだし、ときどき買い物に出るくらいしかしてないんだ。ほとんど部屋で本を読んでいただけだよ」と笑って言っているけれど。

「それで退屈じゃなかった? 食事はちゃんと採ってたの?」

 半分夢現で、握っていたコウのてのひらから指の1本1本までを、指を絡めて、撫でて、弄びながら、たわいもないことをいくつも重ねて尋ねていた。

 どんな本を読んでいたの? また根を詰めて、無理をしなかった? ショーンや、マリーが我がままで困らせたりは――。

 口に出して訊けたかどうか、判らない。けれどコウが、僕の掌にキスをくれた感触だけは確かだったと思う。



 夢のなかでコウと愛し合っていた。僕は相当欲求不満が溜まっていたらしい。でもこれは夢だから罪悪感を持つこともなく。
 夢なのに僕はとても疲れていて、コウに優しく労わってもらったような気がする。
 ――どうも立場が逆転している。
 けれどコウを渇望する僕のように僕を欲しがるコウに、これまで味わったことのない充足を感じていた。

 なんだか僕たちはあの無意識の海で、互いの一部を交換してきたんじゃないかという気さえする。忍耐強く思いやり深いコウが僕のなかで僕を抑制し、激しい僕の渇望リビドーがコウのなかでコウ自身を表出する。互いを取り入れることで、僕たちはより近づいて飛躍する。混じりあい、溶けあった、別々の個として――。



「アル」
「ん――」
「アル、そろそろ起きないと。着替えて準備しないと」
「ん」

 コウの肌に艶が戻っている。この入れ墨タトゥーは変わらずだけど――。さすがに、もう……。


「ああ――。夢だと思ってたよ」
「うん、アルは眠っていそうだなって思ってた。ごめん、我慢できなくて」
「我慢しなくていい」

 コウの頭を胸に抱き寄せた。
 徐々に意識がはっきりしてくると、なんだか気恥ずかしくてならなくなった。夢だと思っていたから、かなり好き勝手していたような気がするのだ。それに、コウも――。


「アル、きみって本当に不思議だな、っていつも思うよ。どうしてこうも無防備でいられるんだろう」

 コウが頭をもたげて、拗ねたようにちょっとふくれっ面をする。

「無防備?」
「そうだよ! 久しぶりに逢えて同じベッドにいるっていうのに、すこんと寝ちゃうし」
「僕はコウに襲われたの?」

 照れ臭そうに唇をすぼめるコウがかわいくて、思わずクツクツ笑ってしまった。そういえばショーンとも似たような会話をしたような気がする。無防備って――、そんなふうに見えるなんて。

「眠くて寝てただけなのに、誘っているように見えた?」
「ごめん」
「コウなら大歓迎」
「――本当は、不安だったんだよ。きみがずっと我慢しているように思えて。きみの心は、今も彼に握られたままで、このまま彼のもとに留まってしまうんじゃないかって、怖くてしようがなかったんだ」と、コウはまた僕の胸に頬を摺り寄せてくる。

 僕の存在を確かめずにはいられなかった。たぶん、そういうことなんだと思う。

 アーノルド――。切り離すことなどできない、僕のシャドウ

 

「そうだね。僕もどうしてこんな決断をしたのか、自分でもまだよく判っていないんだ。でも、我慢しているわけじゃないよ。これ以上我慢しないための選択だったって思ってるよ」
「うん――」

 そのままの姿勢で大きく息を吸いこんでから、コウは半身を起こした。

「さ、シャワーを浴びて着替えなきゃ。それに何か話があるって言ってただろ? 先にする?」


 かわいいな――。

 ゆるりと腕を伸べて、少し上気した薔薇色のコウの頬を包んだ。

 意志の強そうな瞳。
 ふとアーノルドの認識するコウを思いだしていた。その形容が、これはコウだと教えてくれたのだった。
 そして僕はこのとき突然、自分の認識の誤りに気がついたのだ。


 儚げに消えてしまいそうなのは、コウじゃない。
 僕だ。
 僕の認知が歪んでいる。僕はコウに投影した僕自身を見ていたにすぎない。

 コウはちゃんとここにいる。
 覚束ないのは僕自身――。


 バニーに指摘された通りじゃないか。ケアが必要なのはおそらく僕の方だ。
 僕のコウは、強い。こんなもずっと僕を支え続けてくれるほどに、強い。
 コウは消えてしまったりしない。現実を生きぬくだけの強さをちゃんと持っている。

 僕だって。僕だってそのはずだ。
 ただ、おそらく、今はとても傷ついているだけで――。


 コウの頬に当てた掌を背中に滑らせ、縋りつくように彼を抱きしめた。コウはすべて解っているかのように、僕の髪を優しく梳いてくれていた。

 


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