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第五章
仮面 3.
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夏も終わりに近づいたとはいえ、朝の訪れはまだ早い。タクシーがハムステッドの家に着いたころには、空はその濃紺の帳を白々と巻きあげようとしているところだった。
この家を最後に出たとき、庭先でハタハタと風にはためいていた赤毛のテントはすでにない。その下にあった青々とした芝が、朝露にしっとりと濡れ光っているだけだ。奴が焼き枯らして黄色くなった跡すらどこにも見当たらない。何もかも夢だったかのように――。
コウさえもが、消えてしまっているのではないか、とこんな些細なことが僕を不安に突き落とす。
けれど――。
玄関の鍵を探るよりも早くドアが開いて、コウが飛びだしてきた。ああ、そんな不安は僕が膨らませた妄想でしかないと、コウ自身で教えてくれる。きゅっと強く抱きしめてくれる。「おかえり、アルビー」って。
「ただいま。遅くなってごめん。ずっと起きてたの?」
「大丈夫、ちゃんと眠ったよ。でも気になるから居間のソファーで寝てたんだ。車の止まる音で飛び起きたところ」
僕の恋人は嘘つきだ。大きな瞳は疲れてショボショボしているし、寝不足でできた酷いクマが目の下に黒々と墨を引いているってのに――。
「僕はまるで寝てないんだ。ずっと話しこんでいて。先輩に大事な相談に乗ってもらってたんだ」
「疲れてるんだね。すぐにでも眠りたい? それとも何か食べる?」
「そうだね――」
まだ神経が昂っているのだろう。眠気はなかった。
コウの肩を抱いて家に入り、とりあえずお茶を淹れてもらうことにした。コーヒーは何杯も飲んできたから、甘い紅茶がいい。
台所の小さなテーブルについて、細々と動き回るコウを眺めていた。前から華奢な体形だったけれど、ベッドに縛りつけられていた間にますますほっそりとなっている。けれど、こうしてしなやかな枝がしなるようによどみなく動いている彼は、ここに戻ってきてからの1週間で、すっかり回復していると言っていいのだろう。そんな彼の姿は僕を安心させてくれる反面、どこかしっくりとしない違和をももたらしている。
そう、以前は確か――、ウサギか子リスか、くるくるよく働く彼を愛らしい小動物のように捉えていたのに、ここにいるコウは――、風にそよぐ野の草花のようで。
「アル?」
コウが首だけひねって、僕を振り返る。ドクンと心臓が脈打って歓喜する。
かわいくて――。
席を立ち、コウを背中から抱きすくめた。
「やっぱり、このままベッドに行こう」
「もうフレンチトーストを作っちゃったよ。これ、冷めると美味しくなくなるんだ」
「コウはお腹空いてるの?」
「うん。けっこう空いてる」
「じゃあ、仕方ないね」
ため息と一緒に、彼のうなじにキスを落とした。
大人しく椅子に戻って、コウの背中を見守って待つ。けれどこんなお預けを喰らっていては、飢えて死んでしまいそうだ。
檸檬と柘榴の描かれたテーブルマットに、白磁の皿が置かれる。僕の渇望は、粉雪のような砂糖のふられたスライス苺ののる、このマリー好みのトーストで埋めるしかないらしい。
「美味しそうだね。それにこのマット――。これを見ると、夏だなって実感するよ」
「うん。アンナが季節ものをいろいろ出しておいてくれたんだ。今しか使わないんだから、じゃんじゃん使いなさいって」
「向こうで話してたの?」
「うん」
「何か言ってた?」
僕たちのこと――。
結局、スティーブとはコウとの関係性のことは話さなかったのだ。それどころじゃなかった、というのもあっただろう。それにアンナ……。彼女だって知っているんだろうな、と思うのだが、何も問われることはなかった。
フレンチトーストをカトラリーで切り分けながら、ちらりと上目遣いにコウを見る。お腹が空いたと言ったくせに食事はまだいい、とお茶だけを飲んでいるコウは、僕の視線を受けてはにかんだように見つめ返して――、「ないしょ」と花がほころぶような笑みを咲かせる。そんな彼に、僕はちょっと唇を尖らせて拗ねた顔をしてみせ、だけどそれ以上問い質すことはしなかった。こんなふうに笑ってくれているのなら、大丈夫なのだと思ったから。それにアンナのことだもの。
「アル」
黙々と食べ続ける僕にコウの方が拍子抜けしたみたいで、彼は甘えるような柔らかな声音で僕を呼んだ。
「なに?」
「アンナはね、僕の気持ちを前から知ってたんだ。さすがに僕も、もう付き合ってます、とまでは言えなかったんだけどさ。すごいよね、母親って。どうして判るんだろ。きみがゲイだってことも、彼女は知ってたよ。女の子のことも嫌いじゃないけど、好きでもないってことも」
「それで、ショックを受けてた?」
「ううん」と、コウは神妙な顔で首を振る。「アビーのペンを拾ったのが僕だった、ってことには驚いてたみたいだけど、あなたでよかった、って言ってくれた」
アンナ――。
自然と頬が緩んでいた。なんだか――、気恥ずかしいような、そんな笑みが零れていた。
「今度こそ、期待に応えたいな。アンナのお気に入りのきみを粗末に扱ったりしたら大目玉を喰らいそうだ」
「アンナなら、もう充分だって言うよ。そんなに気を使わなくてもいいんだって、言ってくれてたよ、アル」
「うん」
アンナも、スティーブも、僕が思っていたよりもずっと僕を見ていてくれたのだ。きっと、僕には見えなかった僕のことまで――。
そして、コウも。
コウも彼らと同じ様に、僕の知らない僕を知っている。
僕には見つけられなかった僕を見つけてくれたのだから。
だから、僕も――。
「コウ、少し休んでから――、今晩のイベントに出かける前に、大切な話があるんだ」
カトラリーを持つ手を下ろして彼の澄んだ瞳を真摯に見つめて告げると、彼もまた神妙な様子で唇を結び「うん、解った」とコクンと頷いてくれた。
まるで、そう言われることを予期していたかのように――。
この家を最後に出たとき、庭先でハタハタと風にはためいていた赤毛のテントはすでにない。その下にあった青々とした芝が、朝露にしっとりと濡れ光っているだけだ。奴が焼き枯らして黄色くなった跡すらどこにも見当たらない。何もかも夢だったかのように――。
コウさえもが、消えてしまっているのではないか、とこんな些細なことが僕を不安に突き落とす。
けれど――。
玄関の鍵を探るよりも早くドアが開いて、コウが飛びだしてきた。ああ、そんな不安は僕が膨らませた妄想でしかないと、コウ自身で教えてくれる。きゅっと強く抱きしめてくれる。「おかえり、アルビー」って。
「ただいま。遅くなってごめん。ずっと起きてたの?」
「大丈夫、ちゃんと眠ったよ。でも気になるから居間のソファーで寝てたんだ。車の止まる音で飛び起きたところ」
僕の恋人は嘘つきだ。大きな瞳は疲れてショボショボしているし、寝不足でできた酷いクマが目の下に黒々と墨を引いているってのに――。
「僕はまるで寝てないんだ。ずっと話しこんでいて。先輩に大事な相談に乗ってもらってたんだ」
「疲れてるんだね。すぐにでも眠りたい? それとも何か食べる?」
「そうだね――」
まだ神経が昂っているのだろう。眠気はなかった。
コウの肩を抱いて家に入り、とりあえずお茶を淹れてもらうことにした。コーヒーは何杯も飲んできたから、甘い紅茶がいい。
台所の小さなテーブルについて、細々と動き回るコウを眺めていた。前から華奢な体形だったけれど、ベッドに縛りつけられていた間にますますほっそりとなっている。けれど、こうしてしなやかな枝がしなるようによどみなく動いている彼は、ここに戻ってきてからの1週間で、すっかり回復していると言っていいのだろう。そんな彼の姿は僕を安心させてくれる反面、どこかしっくりとしない違和をももたらしている。
そう、以前は確か――、ウサギか子リスか、くるくるよく働く彼を愛らしい小動物のように捉えていたのに、ここにいるコウは――、風にそよぐ野の草花のようで。
「アル?」
コウが首だけひねって、僕を振り返る。ドクンと心臓が脈打って歓喜する。
かわいくて――。
席を立ち、コウを背中から抱きすくめた。
「やっぱり、このままベッドに行こう」
「もうフレンチトーストを作っちゃったよ。これ、冷めると美味しくなくなるんだ」
「コウはお腹空いてるの?」
「うん。けっこう空いてる」
「じゃあ、仕方ないね」
ため息と一緒に、彼のうなじにキスを落とした。
大人しく椅子に戻って、コウの背中を見守って待つ。けれどこんなお預けを喰らっていては、飢えて死んでしまいそうだ。
檸檬と柘榴の描かれたテーブルマットに、白磁の皿が置かれる。僕の渇望は、粉雪のような砂糖のふられたスライス苺ののる、このマリー好みのトーストで埋めるしかないらしい。
「美味しそうだね。それにこのマット――。これを見ると、夏だなって実感するよ」
「うん。アンナが季節ものをいろいろ出しておいてくれたんだ。今しか使わないんだから、じゃんじゃん使いなさいって」
「向こうで話してたの?」
「うん」
「何か言ってた?」
僕たちのこと――。
結局、スティーブとはコウとの関係性のことは話さなかったのだ。それどころじゃなかった、というのもあっただろう。それにアンナ……。彼女だって知っているんだろうな、と思うのだが、何も問われることはなかった。
フレンチトーストをカトラリーで切り分けながら、ちらりと上目遣いにコウを見る。お腹が空いたと言ったくせに食事はまだいい、とお茶だけを飲んでいるコウは、僕の視線を受けてはにかんだように見つめ返して――、「ないしょ」と花がほころぶような笑みを咲かせる。そんな彼に、僕はちょっと唇を尖らせて拗ねた顔をしてみせ、だけどそれ以上問い質すことはしなかった。こんなふうに笑ってくれているのなら、大丈夫なのだと思ったから。それにアンナのことだもの。
「アル」
黙々と食べ続ける僕にコウの方が拍子抜けしたみたいで、彼は甘えるような柔らかな声音で僕を呼んだ。
「なに?」
「アンナはね、僕の気持ちを前から知ってたんだ。さすがに僕も、もう付き合ってます、とまでは言えなかったんだけどさ。すごいよね、母親って。どうして判るんだろ。きみがゲイだってことも、彼女は知ってたよ。女の子のことも嫌いじゃないけど、好きでもないってことも」
「それで、ショックを受けてた?」
「ううん」と、コウは神妙な顔で首を振る。「アビーのペンを拾ったのが僕だった、ってことには驚いてたみたいだけど、あなたでよかった、って言ってくれた」
アンナ――。
自然と頬が緩んでいた。なんだか――、気恥ずかしいような、そんな笑みが零れていた。
「今度こそ、期待に応えたいな。アンナのお気に入りのきみを粗末に扱ったりしたら大目玉を喰らいそうだ」
「アンナなら、もう充分だって言うよ。そんなに気を使わなくてもいいんだって、言ってくれてたよ、アル」
「うん」
アンナも、スティーブも、僕が思っていたよりもずっと僕を見ていてくれたのだ。きっと、僕には見えなかった僕のことまで――。
そして、コウも。
コウも彼らと同じ様に、僕の知らない僕を知っている。
僕には見つけられなかった僕を見つけてくれたのだから。
だから、僕も――。
「コウ、少し休んでから――、今晩のイベントに出かける前に、大切な話があるんだ」
カトラリーを持つ手を下ろして彼の澄んだ瞳を真摯に見つめて告げると、彼もまた神妙な様子で唇を結び「うん、解った」とコクンと頷いてくれた。
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