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第五章
鎖 2
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ショーンとの今後の打ち合わせを終わらせ、コウの様子を確認してから自室に戻った。コウはかなり回復してきたとはいっても、まだまだ疲れやすく、時間を割いて休息をとらなければならないのだ。
穏やかな呼吸で眠っている彼を見ていると、怖くなる。だからこの午睡の間、僕は別室にいるようにしている。
それから決めた時間に彼の部屋をノックする。彼はいつも、僕が来る前には起きている。彼の眠りが、僕を不安にさせることを知っているから。だから、いつも微笑んで僕を迎えてくれるのだ。その笑顔がたまらなく愛おしいのに、僕は、どうしようもなく哀しくなる。
ともあれその時間まではまだまだ間があるので、僕は窓辺に置かれた椅子に腰かけて、バニーに電話した。すでに彼にはことの成り行きをかいつまんで話してある。彼らの帰宅が決まったので、今日はその報告と、これからのことを具体的に相談しなければならない。
窓から見える白い花群は、このところの晴天のなか眩しく輝いているにも拘わらず、萎れて見える。僕の心を如実に映しているのだろう。たとえ電話越しであっても、そんな僕の内面にバニーは敏感だ。いつもの穏やかな口調で軽く冗談を言いながら、気持ちを解してくれている。そこで僕はふわりと軽くなる。僕の重荷を彼に預け、成すべきことを今だけ忘れる。僕のなかにバニーが実態をもって生き返る。身体が熱くなる。
「そうだね。送別会に連れていくつもりだよ。コウとショーンとマリー。それに赤毛も。もっとも彼は確実じゃないよ。コウは行くだろうって言ってたけどね」
『そう、それは楽しみだな』
バニーはくすくす笑っている。この彼の余裕が癪に障る。僕は赤毛と顔を合わせると考えるだけでも、殴り飛ばすんじゃないかと凶暴な気分に陥るのに。
「でも、きみの方はそれでいいの? 私的なクライエントは一時期に二人も抱えない主義だろ?」
『ラザーフェルドのことを言ってる?』
「他にも誰かいるの?」
『彼は僕個人が受け持っているんじゃないよ。チームで対応しているし、グループワークにも積極的に参加してくれて、今のところ経過も順調だ。心配いらない』
「あのエリックが?」
あのプライドの高いエリックがグループワークだなんて。個人情報が洩れるのをあんなに恐れて、病院に行くことすら拒んでいたのに。他者と関わるのは職業柄不得手ではないにしろ、ワークとなると別ものだろうに――。
「信じられないな。いったいどんな魔法を使ったの?」
『魔法だなんて、きみらしくないことを言うようになったね。彼の影響?』
「彼って、」
赤毛、それともコウ?
バニーには集合的無意識の話はしていないのだ。コウの信じる魔術的な儀式を逆に利用して暗示を解いたとだけ。エリックに煩わされる心配なく、バニーにコウの面談に集中してもらえるのはありがたいのだが――。
やはり僕から順を追って、バニーに伝えておくべきなのだろう。赤毛の呪縛を解くのは僕ひとりでは無理なのだから。
僕とコウでは関係性が近すぎる。僕がコウを解こうとすると、どうしたって支配関係になってしまう。コウはまるごと自分を差しだしてくれ、僕の方がそこに安心を見いだし満足をみてしまう。彼を僕にしてしまう。それが愛されることだと、コウに錯覚させてしまう。それなのに、彼は僕に依存できないのだ。すべてを差しだしながら、要求しない。そして、僕への愛で潰れていく。
「バニー、当日では話せる時間も取れないだろうから、前日にでも逢えるかな。ロンドンに着いたら連絡を入れる」
『かまわないよ。ああ、――――』
バニーは送話口を手で覆ったのだろう。不明瞭な音声が遠く漏れ聞こえる。「失礼、」と戻ってきた彼に、僕はがっかりした気分を悟られないよう、ことさら明るく告げた。
「忙しそうだね。またにするよ。戻るまでにレポートにまとめて送るよ」
『そうしてくれると助かる』
「じゃあ――」
『また。何かあるならいつでも電話して』
ぷつりと電話が切れる。静寂の音。
ふと見おろした白薔薇の垣根を、緑のフロックコートが通り抜けて――。
え?
思わず椅子から腰を浮かして窓を覗きおろした。誰もいない。見間違いだろうか、それとも、彼らが訪ねてきているのか? まさか、赤毛も一緒だなんてことは――。
眩暈がしそうだ。だが、それならそれでいいのかもしれない。このまま奴を避けているわけにはいかないのだから。
そう考えると逆にすっきりした。自分自身が握りしめることのできるものなど、たかが知れている。本当に手放してはいけないものだけ守っていけばいい。そのためには頼れるものは頼ればいいし、利用できるものは、たとえ奴であっても利用すればいい。――ただし許容範囲内で。
コウや赤毛を、バニーはどう診断するだろう。特に、コウ――。アーノルドと同じだ。解離性のケースに当てはまるのだとは思うのだが、彼の主体性を脅かし内側を支配する赤毛の存在は、統合失調症に近いようにも見える。日本人用のテストを取り寄せて――、コウは反発せずに取り組んでくれるだろうか。けれどこんなふうに僕が考えていることが、そもそも彼を傷つけるのだろうな。
僕はきみを、赤毛の支配から取り戻したいだけなのに――。
穏やかな呼吸で眠っている彼を見ていると、怖くなる。だからこの午睡の間、僕は別室にいるようにしている。
それから決めた時間に彼の部屋をノックする。彼はいつも、僕が来る前には起きている。彼の眠りが、僕を不安にさせることを知っているから。だから、いつも微笑んで僕を迎えてくれるのだ。その笑顔がたまらなく愛おしいのに、僕は、どうしようもなく哀しくなる。
ともあれその時間まではまだまだ間があるので、僕は窓辺に置かれた椅子に腰かけて、バニーに電話した。すでに彼にはことの成り行きをかいつまんで話してある。彼らの帰宅が決まったので、今日はその報告と、これからのことを具体的に相談しなければならない。
窓から見える白い花群は、このところの晴天のなか眩しく輝いているにも拘わらず、萎れて見える。僕の心を如実に映しているのだろう。たとえ電話越しであっても、そんな僕の内面にバニーは敏感だ。いつもの穏やかな口調で軽く冗談を言いながら、気持ちを解してくれている。そこで僕はふわりと軽くなる。僕の重荷を彼に預け、成すべきことを今だけ忘れる。僕のなかにバニーが実態をもって生き返る。身体が熱くなる。
「そうだね。送別会に連れていくつもりだよ。コウとショーンとマリー。それに赤毛も。もっとも彼は確実じゃないよ。コウは行くだろうって言ってたけどね」
『そう、それは楽しみだな』
バニーはくすくす笑っている。この彼の余裕が癪に障る。僕は赤毛と顔を合わせると考えるだけでも、殴り飛ばすんじゃないかと凶暴な気分に陥るのに。
「でも、きみの方はそれでいいの? 私的なクライエントは一時期に二人も抱えない主義だろ?」
『ラザーフェルドのことを言ってる?』
「他にも誰かいるの?」
『彼は僕個人が受け持っているんじゃないよ。チームで対応しているし、グループワークにも積極的に参加してくれて、今のところ経過も順調だ。心配いらない』
「あのエリックが?」
あのプライドの高いエリックがグループワークだなんて。個人情報が洩れるのをあんなに恐れて、病院に行くことすら拒んでいたのに。他者と関わるのは職業柄不得手ではないにしろ、ワークとなると別ものだろうに――。
「信じられないな。いったいどんな魔法を使ったの?」
『魔法だなんて、きみらしくないことを言うようになったね。彼の影響?』
「彼って、」
赤毛、それともコウ?
バニーには集合的無意識の話はしていないのだ。コウの信じる魔術的な儀式を逆に利用して暗示を解いたとだけ。エリックに煩わされる心配なく、バニーにコウの面談に集中してもらえるのはありがたいのだが――。
やはり僕から順を追って、バニーに伝えておくべきなのだろう。赤毛の呪縛を解くのは僕ひとりでは無理なのだから。
僕とコウでは関係性が近すぎる。僕がコウを解こうとすると、どうしたって支配関係になってしまう。コウはまるごと自分を差しだしてくれ、僕の方がそこに安心を見いだし満足をみてしまう。彼を僕にしてしまう。それが愛されることだと、コウに錯覚させてしまう。それなのに、彼は僕に依存できないのだ。すべてを差しだしながら、要求しない。そして、僕への愛で潰れていく。
「バニー、当日では話せる時間も取れないだろうから、前日にでも逢えるかな。ロンドンに着いたら連絡を入れる」
『かまわないよ。ああ、――――』
バニーは送話口を手で覆ったのだろう。不明瞭な音声が遠く漏れ聞こえる。「失礼、」と戻ってきた彼に、僕はがっかりした気分を悟られないよう、ことさら明るく告げた。
「忙しそうだね。またにするよ。戻るまでにレポートにまとめて送るよ」
『そうしてくれると助かる』
「じゃあ――」
『また。何かあるならいつでも電話して』
ぷつりと電話が切れる。静寂の音。
ふと見おろした白薔薇の垣根を、緑のフロックコートが通り抜けて――。
え?
思わず椅子から腰を浮かして窓を覗きおろした。誰もいない。見間違いだろうか、それとも、彼らが訪ねてきているのか? まさか、赤毛も一緒だなんてことは――。
眩暈がしそうだ。だが、それならそれでいいのかもしれない。このまま奴を避けているわけにはいかないのだから。
そう考えると逆にすっきりした。自分自身が握りしめることのできるものなど、たかが知れている。本当に手放してはいけないものだけ守っていけばいい。そのためには頼れるものは頼ればいいし、利用できるものは、たとえ奴であっても利用すればいい。――ただし許容範囲内で。
コウや赤毛を、バニーはどう診断するだろう。特に、コウ――。アーノルドと同じだ。解離性のケースに当てはまるのだとは思うのだが、彼の主体性を脅かし内側を支配する赤毛の存在は、統合失調症に近いようにも見える。日本人用のテストを取り寄せて――、コウは反発せずに取り組んでくれるだろうか。けれどこんなふうに僕が考えていることが、そもそも彼を傷つけるのだろうな。
僕はきみを、赤毛の支配から取り戻したいだけなのに――。
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