夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
193 / 219
第四章

夢の跡 7.

しおりを挟む
 人形を抱えてコウの部屋へと急いだ。僕はこれをどう解釈すればいいのか判らなかったのだ。コウならば何か知っているかもしれないと思った。何の脈絡も、根拠もないのに――。


 コウはベッドから出て窓辺に立ち、外を眺めているところだった。ドアを開ける音にゆっくりと振り返る。

「コウ、」
「ああ――」

 吐息のような声を漏らし、彼はスティーブと同じように悲しげに唇の端をあげた。「やっぱり僕がしなきゃいけないんだね」と独り言ち、僕の方へと歩み寄る。

「きみは何か知ってるの? スティーブから何か聴いてるの?」

 矢継ぎ早の質問に、彼はゆっくりと首を振る。
 コウは目覚めた後、僕のいない間を見計らってスティーブとの時間を取っていたのだ。後からそのことを聞いて、僕たちのことの言い訳かと勘繰って訊ねたのだけど、そのときはただ「違うよ」とコウは笑って首を振った。

「僕が彼に頼んだんだ。でも、こうして僕の許へ戻ってきた。彼にはできなかったんだね。アビーの人形はできたのに」

 コウが何を言っているのか判らない。スティーブは何の説明もしてくれなかったのだから。コウも――。彼らは、これの持つ意味を僕には話したくないということなのだろうか――。


「これは、僕なの?」

 僕の腕から人形を抱きあげたコウの頬に手をあてて、僕のほうへと顔を向かせて尋ねた。いつも以上に透明度を増しているトパーズの瞳に、かすかな不安が見てとれたのだ。

 コウは黙したまま頷く。

 この人形は、僕が初めて彼に逢った時に着ていた服と同じものを着ている。顔は、アビーの人形ととてもよく似ている。けれど同じじゃない。

「コウ、教えてほしい。今さら何を言われたところで驚くことはないよ。少なくともここは現実なんだし、僕には僕自身のことを知る権利があるだろ? それに僕だって、もうそれなりの覚悟はできているよ」

 コウは僕をじっと見つめていた。永遠のように長い一瞬。コウの瞳が、心が揺れている。コウの醸し出す揺らぎは、ショーンの家にあったウインドウチャイムのような、そんな霊妙な音が聴こえてきそうだ。

「――彼はこの人形を作ってから、アビーがそばにいないときだけ、こっそりと取りだしては眺めていたんだ。作業場の棚の奥にずっと隠してあったんだよ」
「なぜ――」
「きみに逢ったから。きみとの出逢いが彼の世界に綻びを作ったんだ。彼のアビーが本当に狂い始めたのはそれからだ。彼はきみに逢いたくて、彼の妄想世界の檻から出ようと何度もアビーの人形を叩き壊した。でも無駄だった。それらはどれも、魔法陣の描かれた本物の人形アビゲイル・アスターじゃなかったから」


 信じられない。そんなこと、信じられるはずがない。


「アーノルドの創りだした世界――、僕の囚われていた虹のたもとは、現実世界のこの館とはまるで違っていた」

 どんなふうに、と僕は瞳でコウに問い質す。コウは悲しげに眉をよせる。このまま続けるかどうか迷っている。僕は彼の髪を撫で、頬を擦った。

「僕は大丈夫。ちゃんと聴いて、消化する。それが僕に関することなら、きみが苦しい想いをして抱えるんじゃない。教えてほしい」

「――荒れすさんでいたんだ。彼の妄想のアビーは、あの狭い世界に彼女を閉じこめた彼を呪い、罵り、苦しめていた。現実世界できみと一緒に逢ったときのような、一見平穏に見える生活なんて、そこにはなかった。彼は――、」

 ここまで一気にしゃべっていたコウは、声をとぎらせ口を結んだ。眉を寄せて目を閉じ、苦しげに息をつく。

「僕は、彼の心を、きみに見せるのが嫌だった。それは地の精霊グノームも同じだったんだと思う。彼は人の心に通じているから。時間を操って、きみに見せないでくれたんだ」
「うん」

 僕はコウを僕の人形ごと抱きしめた。あの夢のなかで、「僕はもう、これ以上きみに傷ついてほしくない」と彼が言っていた意味がようやく解ったような気がする。でも、その分きみは――、

「僕の心はあの森のなかでアビーに見いだされ、アーノルドの館に囚われた。虹のたもとで、彼女は、彼女の魂は――」
「うん――」


 きみは、僕の代わりに心を痛めていたんじゃないの?

 
「大丈夫だよ、コウ」と、彼の震える背中をゆっくりと撫でさする。彼の髪にキスを落とす。


 これは僕が抱えるべきものなのだよ。もう僕のことで、きみが傷つくんじゃないよ。


「僕はきみが思っているよりも、たぶんずっと、きみのことが好きで、大切なんだよ」と、コウの耳許に囁きかける。コウは少しの間しゃくりあげ、それから、ゆっくりと息を整えていった。その間ずっと、僕は彼を抱えていた。僕の痛みを、僕の代わりに抱えてくれていた彼を――。


「アーノルドには、きみが誰だか判らないのに、ずっときみの面影を追っていた。彼の世界のなかで、アビーの姿を保てなくなるほどに――。きみに逢うときだけ、幸せな夫の姿を演じていた。どうしてだか、僕には判らない。でも、僕が一緒に暮らしたアビーは、本物のアビーの魂だ。妄想の自分アビーに脅かされている彼を、とても憂いていた。だから火の精霊サラマンダーの力を借りて、きみを想う僕の心を取りあげて、隠して――」
「きみは戻ってこられなくなり、僕はあそこへ呼び寄せられたんだね」
「彼女はひと目でもいい、きみに逢いたかったんだ。そしてアーノルドに、きみを逢わせてあげたかったんだ」

 コウは片腕を僕の背中に回してシャツをぎゅっと握っていて、嗚咽を殺した声で詰まり詰まりながら話してくれた。

「僕は、きみが、きみのお母さんや、お父さんに、本当に囚われてしまうんじゃないかと――、怖かった。僕はこんな、身勝手な、ひどい奴で、ごめん」

 コウの思考回路は、やはり僕には難解だ。どうしてここで、コウがひどい奴になるのかが、解らない。


「彼らの想いを、ちゃんと弔わなくちゃいけない。僕に任せてもらってもいい?」
「任せるって? 何をするの?」
「この人形は、壊さなきゃならないんだ。こんな精巧な形代を置いておくのは危険すぎる。それに、彼の想いが籠り過ぎているから。この想いは彼らのもとへ帰さないと――」

 壊す、自分自身を――。
 ああ、違う。これは僕じゃない。アーノルドの想いの結晶を、彼自身の許へ還す。コウはそう言っているのだ。

 僕はもう、物へ心を移したりはしない。

「きみを信じてる。でも可能なら、僕も立ち会ってもいい?」

 コウは一瞬迷ったようだった。けれど、霊妙な輝きを湛えた瞳で僕を見つめたまま、コクンと頷いてくれた。





 
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

あの頃の僕らは、

のあ
BL
親友から逃げるように上京した健人は、幼馴染と親友が結婚したことを知り、大学時代の歪な関係に向き合う決意をするー。

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

いとしの生徒会長さま

もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……! しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

処理中です...