夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

夢の跡

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「アル」

 窓から庭を見おろしていた僕を、コウが呼んだ。振り返る。コウがいる。僕を見つめてくれている。もうそれだけで、泣きそうになる自分がいる。
 微笑みを返して小首をかしげると、コウはちょっと迷っているような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。

「きみは何も訊かないんだね」

 率直な視線。身体はベッドヘッドにもたせたまま脱力しているのに、彼の心はとても緊張しているようだった。心と身体がこんなにも乖離するほど、コウはいまだ消耗しているのだ。だが、彼自身はそのことには気づいていないのだろう。

 彼のベッドの横に置いたままにしている椅子に腰かけた。とりどりの野草ハーブの刺繍されたベッドカバーの上に置かれた彼の拳に僕の手を重ねる。

「コウが聴いてほしいことがあるなら、聴く準備はできてるよ」

 コウは少し驚いたような瞳で僕を見て、それから迷っているかのように視線を宙に漂わせる。


 僕らしくない――。そう思っているのかな。
 こんなコウの反応に、自分がたまらなく恥ずかしくなる。
 玉響の夢のなかでコウの心に触れ、僕は自分がどれほど彼に対して侵襲的だったかということに、ようやく気づくことができたから。

 知ることは、支配だ。
 これまでの僕は、彼を支配するために彼を理解し、知りたいと思っていたにすぎない。赤毛ジンジャーが彼に対してしたように、彼の心をかじり取り、咀嚼し、呑みこんで、僕の一部にしたかったのだ。彼の抵抗を阻んで、自ら彼自身を差しだすようにと、「愛している」と、甘い言葉を囁いて。

 僕はもう、そんなことは望んでいない。ここにいるのがどんなコウだってかまわない。ただ、その存在が愛おしいだけ。


「ここを離れると、僕の記憶は朧になって、きっとまた、きみの疑問に答えることはできなくなってしまうよ。だから、知りたいことは、今、尋ねてほしいんだ」

 コウは視線を伏せて、とつとつと言葉を発していた。
 吐きだすことできみが楽になるのなら、僕は、いくらでもきみの話を聞きたい。きみを侵襲しない僕であれば、きっと、きみはもっと僕を信じて、頼ってくれることもできるようになると思うから。そのためにできることを、僕は尋ねればいいのかな。


「そうだね。きみは今、お茶を飲みたいと思ってる? スミス夫人のスコーンと一緒に」
「え――、うん」
「それとも、冷たいエルダーフラワー水の方がいい?」
「温かい、紅茶かな――」
「待ってて」

 彼のこめかみにキスを落として立ちあがった。コウは「ありがとう」と苦笑している。少し、ほっとしたように、けれど少し苦しげに。
 
 決してはぐらかしているわけではないんだよ。僕も、覚悟を決める時間が少し、ほしいだけ。




 台所には、スミス夫人ではなくアンナがいた。彼女はすべて心得ている様子で、お茶を用意してくれた。ポットは2つ。僕たちの分だけじゃなさそうだ。

「スティーブは?」
「作業場を片づけているわ。私たちも、そろそろ戻らなきゃいけないもの」

 ほぅっと大きく息をついて、アンナはおおらかに微笑んでくれた。そして「頑張るのよ、アル」と、僕を抱きしめてくれた。僕は「ありがとう」とだけ。
 それからお茶ができあがるまで、シンク上の窓から見える、揺れる白薔薇アイスバーグの花群をぼんやりと眺めていた。

「もう夏も終わりなのに、ここの薔薇たちは元気だね」
「こんな田舎ですもの。時間がとてもゆっくりと流れているのよ」
「そうかもしれないね。ロンドンは忙しないものね」


 そのゆっくりとした時間のなかであっても、アーノルドの命は間もなく尽きるのだろう。おそらく、このまま目覚めることなく――。

「だけど、アル、ここにはスミス夫妻もいてくださるのだし、あなたが無理をすることはないのよ」
「大丈夫だよ、アンナ、これは僕の意志だよ」

 そう、僕がここにいるのは誰のためでもない。僕の意志でそうしていることだ。

「それならいいけど。あなたは他人のことばかり大事にして、すぐに自分を犠牲にしてしまう子だから」
 アンナはちょっと叱るように眉根をよせ、それでも笑って、てきぱきと食器類やカトラリーを棚から取りだしていた。そして「さ、できたわ」と、お茶とスコーンののったトレイをくれた。

「アンナはすっかりここの台所に馴染んでいるみたいだね」
「そりゃそうよ。私とアビーとで、古ぼけた使い勝手の悪いこの台所を改造したんだもの! 何十年経ったって忘れはしないわよ」
「ハムステッドの家とはかなり雰囲気が違うけど、こんな内装もアンナの好み?」
「アビーよ! ここは彼女の城だもの!」

 懐かしそうにアンナは微笑んでいる。
 どうして彼女は、こうもおおらかに微笑むことができるのだろう。僕はいつもそれが不思議だった。彼女にとってのアビーは、スティーブにとってのアーノルドと変わらない、かけがえのない存在だったのに。その喪失がアンナを損なっているようには思えなかった。
 彼女は今、この一連の出来事を経て大きな喪失を胸に抱えたスティーブに寄り添い、彼を強く支えている。彼の痛みに共感しながら、決して溺れることも、流されることもなく。
 彼女の持つ喪失を埋める能力の高さに驚かされる。それは彼女の能力なのか、子どもという他人を自らの内で育むことのできる女性という性の持つ能力なのか、僕にはきっと一生かかっても判らないだろう。

「さ、温かいうちに持ってってあげて!」

 ぼんやり彼女を見つめていた僕を、はきはきした声が促す。

「あ、そうそう! これもね。コウはこれが好きなの」と、アンナは棚からジャムの瓶を出してトレイに加える。
「コウは、薔薇のジャムよりもラズベリーが好きなのよ」
「ありがとう。きっと喜ぶと思う」


 そうか――。
 僕がコウに尋ねたいのは、きっとそんなこと。
 きみの好きなもの、好きなこと、きみの愛する世界について。
 僕たちの共有できる何かを見つけたいんだ。





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