187 / 219
第四章
夢の跡
しおりを挟む
「アル」
窓から庭を見おろしていた僕を、コウが呼んだ。振り返る。コウがいる。僕を見つめてくれている。もうそれだけで、泣きそうになる自分がいる。
微笑みを返して小首をかしげると、コウはちょっと迷っているような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
「きみは何も訊かないんだね」
率直な視線。身体はベッドヘッドにもたせたまま脱力しているのに、彼の心はとても緊張しているようだった。心と身体がこんなにも乖離するほど、コウはいまだ消耗しているのだ。だが、彼自身はそのことには気づいていないのだろう。
彼のベッドの横に置いたままにしている椅子に腰かけた。とりどりの野草の刺繍されたベッドカバーの上に置かれた彼の拳に僕の手を重ねる。
「コウが聴いてほしいことがあるなら、聴く準備はできてるよ」
コウは少し驚いたような瞳で僕を見て、それから迷っているかのように視線を宙に漂わせる。
僕らしくない――。そう思っているのかな。
こんなコウの反応に、自分がたまらなく恥ずかしくなる。
玉響の夢のなかでコウの心に触れ、僕は自分がどれほど彼に対して侵襲的だったかということに、ようやく気づくことができたから。
知ることは、支配だ。
これまでの僕は、彼を支配するために彼を理解し、知りたいと思っていたにすぎない。赤毛が彼に対してしたように、彼の心を齧り取り、咀嚼し、呑みこんで、僕の一部にしたかったのだ。彼の抵抗を阻んで、自ら彼自身を差しだすようにと、「愛している」と、甘い言葉を囁いて。
僕はもう、そんなことは望んでいない。ここにいるのがどんなコウだってかまわない。ただ、その存在が愛おしいだけ。
「ここを離れると、僕の記憶は朧になって、きっとまた、きみの疑問に答えることはできなくなってしまうよ。だから、知りたいことは、今、尋ねてほしいんだ」
コウは視線を伏せて、とつとつと言葉を発していた。
吐きだすことできみが楽になるのなら、僕は、いくらでもきみの話を聞きたい。きみを侵襲しない僕であれば、きっと、きみはもっと僕を信じて、頼ってくれることもできるようになると思うから。そのためにできることを、僕は尋ねればいいのかな。
「そうだね。きみは今、お茶を飲みたいと思ってる? スミス夫人のスコーンと一緒に」
「え――、うん」
「それとも、冷たいエルダーフラワー水の方がいい?」
「温かい、紅茶かな――」
「待ってて」
彼のこめかみにキスを落として立ちあがった。コウは「ありがとう」と苦笑している。少し、ほっとしたように、けれど少し苦しげに。
決してはぐらかしているわけではないんだよ。僕も、覚悟を決める時間が少し、ほしいだけ。
台所には、スミス夫人ではなくアンナがいた。彼女はすべて心得ている様子で、お茶を用意してくれた。ポットは2つ。僕たちの分だけじゃなさそうだ。
「スティーブは?」
「作業場を片づけているわ。私たちも、そろそろ戻らなきゃいけないもの」
ほぅっと大きく息をついて、アンナはおおらかに微笑んでくれた。そして「頑張るのよ、アル」と、僕を抱きしめてくれた。僕は「ありがとう」とだけ。
それからお茶ができあがるまで、シンク上の窓から見える、揺れる白薔薇の花群をぼんやりと眺めていた。
「もう夏も終わりなのに、ここの薔薇たちは元気だね」
「こんな田舎ですもの。時間がとてもゆっくりと流れているのよ」
「そうかもしれないね。ロンドンは忙しないものね」
そのゆっくりとした時間のなかであっても、アーノルドの命は間もなく尽きるのだろう。おそらく、このまま目覚めることなく――。
「だけど、アル、ここにはスミス夫妻もいてくださるのだし、あなたが無理をすることはないのよ」
「大丈夫だよ、アンナ、これは僕の意志だよ」
そう、僕がここにいるのは誰のためでもない。僕の意志でそうしていることだ。
「それならいいけど。あなたは他人のことばかり大事にして、すぐに自分を犠牲にしてしまう子だから」
アンナはちょっと叱るように眉根をよせ、それでも笑って、てきぱきと食器類やカトラリーを棚から取りだしていた。そして「さ、できたわ」と、お茶とスコーンののったトレイをくれた。
「アンナはすっかりここの台所に馴染んでいるみたいだね」
「そりゃそうよ。私とアビーとで、古ぼけた使い勝手の悪いこの台所を改造したんだもの! 何十年経ったって忘れはしないわよ」
「ハムステッドの家とはかなり雰囲気が違うけど、こんな内装もアンナの好み?」
「アビーよ! ここは彼女の城だもの!」
懐かしそうにアンナは微笑んでいる。
どうして彼女は、こうもおおらかに微笑むことができるのだろう。僕はいつもそれが不思議だった。彼女にとってのアビーは、スティーブにとってのアーノルドと変わらない、かけがえのない存在だったのに。その喪失がアンナを損なっているようには思えなかった。
彼女は今、この一連の出来事を経て大きな喪失を胸に抱えたスティーブに寄り添い、彼を強く支えている。彼の痛みに共感しながら、決して溺れることも、流されることもなく。
彼女の持つ喪失を埋める能力の高さに驚かされる。それは彼女の能力なのか、子どもという他人を自らの内で育むことのできる女性という性の持つ能力なのか、僕にはきっと一生かかっても判らないだろう。
「さ、温かいうちに持ってってあげて!」
ぼんやり彼女を見つめていた僕を、はきはきした声が促す。
「あ、そうそう! これもね。コウはこれが好きなの」と、アンナは棚からジャムの瓶を出してトレイに加える。
「コウは、薔薇のジャムよりもラズベリーが好きなのよ」
「ありがとう。きっと喜ぶと思う」
そうか――。
僕がコウに尋ねたいのは、きっとそんなこと。
きみの好きなもの、好きなこと、きみの愛する世界について。
僕たちの共有できる何かを見つけたいんだ。
窓から庭を見おろしていた僕を、コウが呼んだ。振り返る。コウがいる。僕を見つめてくれている。もうそれだけで、泣きそうになる自分がいる。
微笑みを返して小首をかしげると、コウはちょっと迷っているような、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
「きみは何も訊かないんだね」
率直な視線。身体はベッドヘッドにもたせたまま脱力しているのに、彼の心はとても緊張しているようだった。心と身体がこんなにも乖離するほど、コウはいまだ消耗しているのだ。だが、彼自身はそのことには気づいていないのだろう。
彼のベッドの横に置いたままにしている椅子に腰かけた。とりどりの野草の刺繍されたベッドカバーの上に置かれた彼の拳に僕の手を重ねる。
「コウが聴いてほしいことがあるなら、聴く準備はできてるよ」
コウは少し驚いたような瞳で僕を見て、それから迷っているかのように視線を宙に漂わせる。
僕らしくない――。そう思っているのかな。
こんなコウの反応に、自分がたまらなく恥ずかしくなる。
玉響の夢のなかでコウの心に触れ、僕は自分がどれほど彼に対して侵襲的だったかということに、ようやく気づくことができたから。
知ることは、支配だ。
これまでの僕は、彼を支配するために彼を理解し、知りたいと思っていたにすぎない。赤毛が彼に対してしたように、彼の心を齧り取り、咀嚼し、呑みこんで、僕の一部にしたかったのだ。彼の抵抗を阻んで、自ら彼自身を差しだすようにと、「愛している」と、甘い言葉を囁いて。
僕はもう、そんなことは望んでいない。ここにいるのがどんなコウだってかまわない。ただ、その存在が愛おしいだけ。
「ここを離れると、僕の記憶は朧になって、きっとまた、きみの疑問に答えることはできなくなってしまうよ。だから、知りたいことは、今、尋ねてほしいんだ」
コウは視線を伏せて、とつとつと言葉を発していた。
吐きだすことできみが楽になるのなら、僕は、いくらでもきみの話を聞きたい。きみを侵襲しない僕であれば、きっと、きみはもっと僕を信じて、頼ってくれることもできるようになると思うから。そのためにできることを、僕は尋ねればいいのかな。
「そうだね。きみは今、お茶を飲みたいと思ってる? スミス夫人のスコーンと一緒に」
「え――、うん」
「それとも、冷たいエルダーフラワー水の方がいい?」
「温かい、紅茶かな――」
「待ってて」
彼のこめかみにキスを落として立ちあがった。コウは「ありがとう」と苦笑している。少し、ほっとしたように、けれど少し苦しげに。
決してはぐらかしているわけではないんだよ。僕も、覚悟を決める時間が少し、ほしいだけ。
台所には、スミス夫人ではなくアンナがいた。彼女はすべて心得ている様子で、お茶を用意してくれた。ポットは2つ。僕たちの分だけじゃなさそうだ。
「スティーブは?」
「作業場を片づけているわ。私たちも、そろそろ戻らなきゃいけないもの」
ほぅっと大きく息をついて、アンナはおおらかに微笑んでくれた。そして「頑張るのよ、アル」と、僕を抱きしめてくれた。僕は「ありがとう」とだけ。
それからお茶ができあがるまで、シンク上の窓から見える、揺れる白薔薇の花群をぼんやりと眺めていた。
「もう夏も終わりなのに、ここの薔薇たちは元気だね」
「こんな田舎ですもの。時間がとてもゆっくりと流れているのよ」
「そうかもしれないね。ロンドンは忙しないものね」
そのゆっくりとした時間のなかであっても、アーノルドの命は間もなく尽きるのだろう。おそらく、このまま目覚めることなく――。
「だけど、アル、ここにはスミス夫妻もいてくださるのだし、あなたが無理をすることはないのよ」
「大丈夫だよ、アンナ、これは僕の意志だよ」
そう、僕がここにいるのは誰のためでもない。僕の意志でそうしていることだ。
「それならいいけど。あなたは他人のことばかり大事にして、すぐに自分を犠牲にしてしまう子だから」
アンナはちょっと叱るように眉根をよせ、それでも笑って、てきぱきと食器類やカトラリーを棚から取りだしていた。そして「さ、できたわ」と、お茶とスコーンののったトレイをくれた。
「アンナはすっかりここの台所に馴染んでいるみたいだね」
「そりゃそうよ。私とアビーとで、古ぼけた使い勝手の悪いこの台所を改造したんだもの! 何十年経ったって忘れはしないわよ」
「ハムステッドの家とはかなり雰囲気が違うけど、こんな内装もアンナの好み?」
「アビーよ! ここは彼女の城だもの!」
懐かしそうにアンナは微笑んでいる。
どうして彼女は、こうもおおらかに微笑むことができるのだろう。僕はいつもそれが不思議だった。彼女にとってのアビーは、スティーブにとってのアーノルドと変わらない、かけがえのない存在だったのに。その喪失がアンナを損なっているようには思えなかった。
彼女は今、この一連の出来事を経て大きな喪失を胸に抱えたスティーブに寄り添い、彼を強く支えている。彼の痛みに共感しながら、決して溺れることも、流されることもなく。
彼女の持つ喪失を埋める能力の高さに驚かされる。それは彼女の能力なのか、子どもという他人を自らの内で育むことのできる女性という性の持つ能力なのか、僕にはきっと一生かかっても判らないだろう。
「さ、温かいうちに持ってってあげて!」
ぼんやり彼女を見つめていた僕を、はきはきした声が促す。
「あ、そうそう! これもね。コウはこれが好きなの」と、アンナは棚からジャムの瓶を出してトレイに加える。
「コウは、薔薇のジャムよりもラズベリーが好きなのよ」
「ありがとう。きっと喜ぶと思う」
そうか――。
僕がコウに尋ねたいのは、きっとそんなこと。
きみの好きなもの、好きなこと、きみの愛する世界について。
僕たちの共有できる何かを見つけたいんだ。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説

守護霊は吸血鬼❤
凪子
BL
ごく普通の男子高校生・楠木聖(くすのき・ひじり)は、紅い月の夜に不思議な声に導かれ、祠(ほこら)の封印を解いてしまう。
目の前に現れた青年は、驚く聖にこう告げた。「自分は吸血鬼だ」――と。
冷酷な美貌の吸血鬼はヴァンと名乗り、二百年前の「血の契約」に基づき、いかなるときも好きなだけ聖の血を吸うことができると宣言した。
憑りつかれたままでは、殺されてしまう……!何とかして、この恐ろしい吸血鬼を祓ってしまわないと。
クラスメイトの笹倉由宇(ささくら・ゆう)、除霊師の月代遥(つきしろ・はるか)の協力を得て、聖はヴァンを追い払おうとするが……?
ツンデレ男子高校生と、ドS吸血鬼の物語。
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
【完結】嘘はBLの始まり
紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。
突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった!
衝撃のBLドラマと現実が同時進行!
俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡
※番外編を追加しました!(1/3)
4話追加しますのでよろしくお願いします。
【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】
彩華
BL
俺の名前は水野圭。年は25。
自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで)
だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。
凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!
凄い! 店員もイケメン!
と、実は穴場? な店を見つけたわけで。
(今度からこの店で弁当を買おう)
浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……?
「胃袋掴みたいなぁ」
その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。
******
そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました

離したくない、離して欲しくない
mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。
久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。
そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。
テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。
翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。
そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。
俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした
たっこ
BL
【加筆修正済】
7話完結の短編です。
中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。
二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。
「優、迎えに来たぞ」
でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる